Linear ベストエッセイセレクション
時間と空間
Turn

 科学哲学的なアプローチから考えられた 「Pairpole 宇宙モデル」 を上梓するにあたって私はその巻頭に以下の序言を配した。
人類にはいまだ解けない謎が2つある
ひとつは空間に関するもので 「宇宙の果てとは?」 という謎であり
もうひとつは時間に関するもので 「時間の始まりと終わりとは?」 という謎である
この2つの謎を解くためには
宇宙に 「果てはなく」 時間に「始まりも終わりもない」 とあっさり受容すればよい
分かり易い概念に還元すれば
宇宙に 「大きさはなく」、時間は 「流れない」 ということである
− 時は流れず −
相対性理論が意味するもの
 以下の方程式は周知のアインシュタインが構築した物質がもつエネルギ式であり、別名 「悪魔の方程式」 と呼ばれる。 それはこの数式が原子爆弾製造の基本原理となったがゆえであるが、平和利用を掲げてスタートした原子力発電が、3.11東北大震災に起因した福島原子力発電所の事故により未曾有の放射能汚染をもたらし、周辺住民に塗炭の苦しみを強いている日本の現状をみると、その悪名はさらに増したようにさえ思える。
                                   E:エネルギ
                   E=mc2              m:質量 (重さ)
                                     c:光速度 (30万km/s)
 この式の意味するところは、宇宙に存在する物質は、その質量(重さ)に光速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 原子力ではこのエネルギのことを一般に 「核エネルギ」 と呼んでいる。
 以下の方程式はニュートンが構築した運動物体がもつエネルギ式で、一般に 「運動方程式」 と呼ばれる。
                                   E:エネルギ
                   E=1/2mv2           m:質量 (重さ)
                                     v:運動物体の速度
 この式の意味するところは宇宙で運動する物体(物質)は、その質量(重さ)に運動速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 (1/2は係数)
 2つの数式が意味するものとは何であろう ・・?
 まず方程式が述べる論理を比較すると以下のようになる。
 アインシュタイン方程式での主題は 「宇宙に存在する物質」 であり、ニュートン方程式での主題は 「宇宙で運動する物質」 である。 違いは 「存在する」 と 「運動する」 である。 アインシュタイン方程式でのエネルギ算出は 「光速度の 2乗 を掛ける」 であり、ニュートン方程式でのエネルギ算出は 「運動速度の 2乗 を掛ける」 である。
 次に、以上の論理に 「等価原理を適用」 すると、アインシュタイン方程式は以下のように変換される。
「宇宙に存在する物質は光速度で運動しており、その運動エネルギは mc2 である」
 この変換結果が示すものは、この宇宙に存在する物質は 「光速度で運動している」 という驚くべき宇宙風景である。 仮に宇宙を大きな 「宇宙船」 と考えれば、我々はその宇宙船に乗って、いずれの方向かは不明であるが 「光速度で飛行している」 のである。 さらに重大なことは、アインシュタインの相対性理論が正しければ、物体の速度が光速に近づくにつれて時間はゆっくり進み、光速に達すると 「時間は停止」 することになる。 つまり、我々の乗った宇宙船は光速度で飛行しているわけであるから、「宇宙船内の時間は停止している」 ことになる。
 以上の思考結果は、私が提示した、時間は人間の内なる意識世界には存在する(保証される)が、外なる宇宙自然界には存在しない(保証されない)こと、さらに時間の流れとは、人間の意識波の波動速度であって、それは光速度であるとした 「Pairpole 宇宙モデル」 の帰結に大きな力を与えてくれる。
 以下、蛇足ながら付け加えると、光速度飛行している宇宙船に乗っている我々にスピード感がないのは、宇宙船の移動が 「等速度運動」 のためである。 ニュートンの運動方程式では、物体は外部から力を加えない限り、静止を続けるか、等速度運動を続けることを規定している。 力を加えると物体に加速度が生じ、物体は加速するか、減速する。 我々が感じるスピード感とはこの加速度であって、加速度がない 「等速度運動」 とは、本質的には 「静止状態」 と変わりがない。 ただ異なるのは等速度運動を続ける物体(ここでは宇宙船)は運動エネルギをもっていることである。 その運動エネルギは 「慣性エネルギ」 と呼ばれる。 物質がもつエネルギ 「E=mc2」 はまたこの慣性エネルギでもある。 その莫大な大きさを、我々は一般に物質がもつ 「核エネルギ」 として、原子爆弾の爆発力をもって実感しているが、物質がもつ 「慣性エネルギ」 として、例えば重さ 1kg の石を、光速度 30万km / s (1秒間で地球 7回半 する速度)で壁に衝突させた破壊力をもって実感することができる。 さらに我々の乗る宇宙船(宇宙)が等速度運動を続けることは宇宙船(宇宙)には外部から力が作用していないことを物語っている。 同様に物理学で最も基本的な法則とされる 「エネルギ保存則」 が宇宙船(宇宙)の内部で成立することは、宇宙船(宇宙)には外部からエネルギが作用していないことを物語っている。
 いうなれば我々が搭乗している宇宙船(宇宙)は 「孤立無援で飛行」 しているのである。
2011.10.03
線形時間は存在しない
 過去・現在・未来が連なった 「線形時間が存在しない」 ことは本稿で幾度か論考してきた。 過去と未来は意識世界の出来事であって、意識を消失すればたちどころに消滅する 「仮想の世界(バーチャル世界)」 である。 しかしながら、現在は物的運動をともなった 「実在の世界(リアル世界)」 であって、過去や未来の世界とは本質的に異なっている。 「時は流れる」 と主張する人は 「時間が記憶意識で構築された過去というバーチャルな仮想世界から、現在という物的運動で構築されたリアルな実在世界を経て、再び想像意識で構築された未来というバーチャルな仮想世界に向かって流れている」 などという 「妥当性」 をいかなる論理をもって説明しようとするのか? 放たれた矢が 「記憶で構築された無形の意識世界から、運動で構築された有形の物質世界を通過して、再び想像で構築された無形の意識世界に向かって飛んでいく」 などという 「矢の飛行軌跡」 をいかに脳裏に描いたらよいのであろうか? 私には描くことができない。
 今は亡き反骨の哲学者、大森荘蔵(1921年〜1997年)は、我々が日常的に考えている過去・現在・未来と並べられた 「線形時間」 は存在しないことを哲学の論理をもって明らかにした。 その存在しない線形時間を存在するとしたために、時間は 「過去→現在→未来」 と流れる(経過する)という考え方が生まれたのであることを看破、積年の課題であった古代ギリシアの哲学者ゼノンが投じた 「アキレスと亀」 のパラドックスは、運動を伴わない仮想としての線形時間と実在としての運動を結びつけたことが原因であって、「存在しない運動軌跡を時空に思い描いたことによる」 と簡潔にして明瞭に証明してみせたのである。
(※)大森荘蔵(1921〜1997年)
 岡山県生まれ。 1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1945年 海軍技術研究所三鷹実験所勤務。 物理学を志すも科学における哲学的問題を問うため哲学に転向。 1949年 東京大学文学部哲学科を卒業。 現象学などを学ぶが満足せずアメリカに留学。 ウィトゲンシュタインの哲学や分析哲学をはじめとする現代英米圏の哲学から大きな影響を受ける。 帰国後、1953年 東京大学講師に就任。 助教授を経て、1966年 東京大学教養学部教授(科学史・科学哲学科)。 1976年 東京大学教養学部長就任。 1977年 辞任。 1982年 放送大学教授。 1983年 放送大学副学長就任。 1985年 辞任。 これまでの日本の哲学研究が学説研究や哲学史研究などの文献学に偏りがちだったことに異を唱え 「哲学とは額に汗して考え抜くこと」 を本義として、多くの学生たちに影響を与えるとともに、数多くの哲学者を世に送り出した。
(※) 「アキレスと亀」 のパラドックスとは
 紀元前5世紀、ギリシャの哲学者、ゼノンが提唱した運動の不可思議に関するパラドックスであり、足の速いアキレスはどんなに頑張って走っても、自分より先に出発した鈍足の亀に追いつくことができないというもの。 なぜならアキレスが亀が今いる所まで辿り着いた時、亀はそれより少し先まで行っている。 更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている。 また更にアキレスが次なるその地点まで行った時には、亀はまた更にその少し先まで行っている ・・ ということで、アキレスは永久に亀に追いつけないのである。
2020.12.23
軌跡の消失〜運動を時間で分解することはできない
 時間が過去→現在→未来と線形的に流れているように感じるのは 「時間というパラメータを使って、この世の出来事の経過を支障なく説明できる」 からに他ならず、それ以外に相当の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。 また、「運動を時間で分解することはできない」 とは、運動を撮影した映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることができないことによる。 この意味では運動と映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのである。 停止できるのは運動が終了して速度が 0 になった状態でのことである。 同様に投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、実在場である 「現実空間の上」 にその軌跡を描けるわけではない。 線形時間を使った過去・現在・未来とは時間をパラメータにして、脳裏にある記憶としての1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、実在場である現実空間の上に描いた軌跡ではない。 現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった 「運動そのもの」 であって、それを 「静止画に分解する」 ことなどもとより不可能なのである。
2020.12.24
軌跡のない日々〜ある思考実験から
 芥川賞作家、小川洋子の同名の小説を映画化した 「博士の愛した数式」 は軌跡が消失した世界を描いた思考実験のような物語である。 物語は天才数学者であった博士(寺尾聰)が不慮の交通事故がもとで記憶が80分しかもたなくなってしまうことから始まる。 その博士のもとで働くことになった家政婦の杏子(深津絵里)とその10歳の息子(吉岡秀隆)との心の交流を描いたものである。 博士はその息子をルート(√)と呼び可愛がる。 博士が教えてくれる数式の美しさやキラキラと輝く世界にふれていく中で、2人は純粋に数学を愛する博士に魅せられ次第に数式の中に秘められた 「美しい言葉」 の意味を知る ・・ 詳細は映画を観てもらうとして、本題は以下のところである。
 80分しか記憶がもたない博士は家政婦の杏子が出勤する度にきまって昨日と同じに 「君の靴のサイズはいくつかね?」 と聞く。 杏子が 「24です」 と答える。 「ほお 実に潔い数字だ 4 の階乗だ」 と褒める。 昨日の記憶がない博士にとっては毎日がまったく経験のない 「新たな日々」 なのである。 博士が生きている世界は、まさに 「線形時間」 を廃した 「時は流れず」 の世界であり、「運動を時間で分解できない」 とする 「今の今」 の世界であり、過去と未来が重層的に内蔵されている 「今の今の世界」 である 「現在そのもの」 である。 博士の日々はその内蔵されている過去と未来から実在場としての 「その日(現在)」 に投影された 「場面」 である。 我々はなまじ 「記憶が持続」 するために現実空間に 「ありもしない」 昨日から今日に至る 「日常(運動)の軌跡」 を思い描いているにすぎないのである。 博士の日常と我々の日常を分け隔てているものは、「はなはだ曖昧」 で頼りない 「意識的記憶」 でしかない。 かく考えれば、映画 「博士の愛した数式」 は 「軌跡のない日々」 を描いた思考実験物語のようにみえてくる。 博士が生きた世界は常人であれば行き着くことができなかった純粋で透明な美しき数式の世界であったが、その投影された過去と未来の場面(日々)の中で、「充分に幸せ」 であったであろうし、その日々をともに過ごした家政婦の母子にとっても、それはまた同じであったに違いない。
2020.12.25
時間も空間もない世界
 歴史小説は時間軸に沿って構成された 「連なった世界の物語」 であると考えられているが、過去・現在・未来で構成された 「線形時間が存在しない」 ならば、その連なった世界の運動軌跡もまた存在しない。 それは 「過去と未来が現在に含まれているとする世界」 であって、その構造から考えれば、歴史小説は 「連なった世界の物語」 ではなく、「重なった世界の物語」 であるということになる。 重層的に構成された 「とあるひとつの歴史場面」 から他の 「とあるひとつの歴史場面」 への移行は意識世界に開口された時空トンネルとしての 「意識ワームホール」 を通過することで可能となる。 歴史小説は 「連なった世界の物語」 として読むよりは、むしろ 「重なった世界の物語」 として読まれてしかるべきである。
 光速度は秒速30万Km、ざっと1秒で地球を7回り半する速度である。 物質宇宙ではこれを超える速度が 「存在しないこと」 がアインシュタインの相対性理論の根拠となっている。 もしこの光速度を超える存在が実証されたとたん確固たる存在であった物質宇宙は崩壊してしまう。 他方。 意識の速度は無限大である。 意識が発する思いは遠く離れていても瞬時に相手方に到達するように観える。 速度が無限大ということは、速度の概念を構成する時間が存在しないことを意味する。 なぜなら速度は移動距離を要した時間で除したものであるからして、速度が無限大ということは即ち移動時間が 0 であることを意味している。 つまり、時間は存在しない。 これが線形時間を廃棄したことで導かれた重層的に重ねられた世界構造の風景である。 以上を統合することで以下のような結論が導かれる。
 この世界には時間はなく、さまざまな過去と未来が重層的に重なった現在だけがある
 この世界には空間がなく、さまざまな現在が重層的に重なった仕組みだけがある
 この 「時間も空間もない世界」 は理論物理学者デビット・ボームが論じた 「暗在系と明在系で構成された宇宙構造」 に相似する。 曰く。 「物質宇宙とは同時系列で重層している時空間が瞬間瞬間に我々が認識できる形で現実世界に象出することで実在場が構築され、この瞬間が連続することで我々に時間という概念を発生させ、時系列で連続している時空間を認識の中に構成させることで存在している世界かもしれない ・・ 」 を彷彿とさせる。
 また新海誠監督のアニメ映画 「君の名は」 にも 「時間も空間もない世界」 が登場する。 「君の名は」 で描かれた世界は、架空の町 「糸守町」 が隕石の落下で壊滅してしまうその前後の時空間であろうが定かではない。 時として出来事の前であったり、後であったりする。 それは過去と未来が現在に含まれているとする重なった世界で構成された 「時間も空間もない宇宙構造」 そのものである。 重なった世界の各々の境界は物理学で言う 「特異点」 であって、科学理論が破綻している。 「君の名は」 では、その特異点の様相を 「互いに身体が入れ替わっている少女と少年が、あるひとつの世界から別のひとつの世界に移ると、前にいた世界のことを忘れて思い出せないという現象」 をもって描かれている。 物語のラストは 「とある現在の時空間」 に戻った少女と少年が、都会の片隅にある石段の途中ですれ違う場面で描かれている。すれ違う2人は互いにどこかでかって出逢ったことがあるような奇妙な感覚を抱き 「どこかでお会いしましたか? 君の名は」 という問いかけで終わる。
 時間と空間が消失してしまった世界を想像することは、物質文明に慣れ親しんできた者にとっては 「非情なる困難」 をともなう。 しかしながら、このような世界を完全に否定し捨て去ってしまうこともまた 「非情なる困難」 をともなう。 畢竟。 この世の不可解はかくも無窮であって、進みゆく 「知のワンダーランド」 は尽きることがないのである。
(※)重層的に重なった宇宙構造
 重層的に重なった宇宙構造はフランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した 「フラクタル」 と呼ばれる幾何学概念に相似する。 この概念による 「宇宙存在の構造」 は、サイズを拡大していっても縮小していっても 「同じ構造」 が現れる 「入れ子人形」 のような構造である。 私はその構造法則を 「細部は全体、全体は細部」 と表現している。 重層的に重なった宇宙構造として 「相応の妥当性」 をもって受容できる宇宙の内臓秩序(仕組み)である。
2020.12.26
現在だけの世界
 過去・現在・未来が連なった 「線形時間」 を廃棄すると、我々が生きる宇宙はごく 「シンプルな構造」 へと収束する。 時間が流れない 「今の今」 という 「現在だけの世界」 である。 人類はなまじ意識的持続力をともなった記憶力や想像力を付帯しているがゆえに、バーチャルとしての仮想空間に、実在しない過去や未来の世界を創りだすことで、この世界を複雑化させ、自らの頭を悩ましているにすぎないのである。 さらに 「線形時間」 を廃棄すると、時間どころか空間さえも消失し、代わって 「仕組みだけの世界」 が登場してくる。
 ではそのような世界に我々が存在する根拠はどのように 「保障される」 のであろう。 その保障を請け負っているのが想像と現実を融合する 「即身の思想」 である。 ここで言う現実とは、時間が消失した 「今の今」 と呼ばれる物質的運動で構成された有形な 「現在」 であり、想像とは、意識的操作で構成された無形の 「過去と未来」 である。 想像と現実の融合とは、有形な現在と無形な過去・未来を 「一体化する」 ことに他ならない。
2021.01.07
− 存在と時間 −
期限の消滅
 「いつ生きるの? 今でしょう」 からすれば、生きるのは過去でも未来でもなく今この時である。 その今の今の連続がその人の生涯を構築することからすれば目指すものは 「その今を楽しむ」 ことに尽きる。 仮に明日に死が訪れようと、今の今は、こころ安らかにして面白く生きることに 「専念する」 だけで事足りているのである。 もとより生身の体であってみれば、確実な未来など保証される者などこの世には存在しない。 であれば時間には 「これといった期限」 など存在しない。 いつまでにやるという 「未来の期限」 も、いつまでにしたという 「過去の期限」 も、ともに存在しない。 もし期限というのであればそれは 「今の今である現在」 である。 ゆえに 「いつやるの? 今でしょう」 という警句が、ぼんやり生きていた諸人の脳髄に予期せぬ覚醒をもたらしたのである。
2019.03.03
存在の時めき
 以下の記載は 「存在の今の今」 を論じた 「存在の時めき」 からの抜粋である。
 そこに椅子が存在するとはその存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなく、しばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが、今ここにその椅子が存在することからして、その存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように存在には過去・現在・未来という時間の 「3 態様」 が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば、存在とはすでに時間であり、時間はすでに存在である。 存在に含まれている意味をとり出すことを、哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。 大森はさらにこの 「存在の時めき」 は道元が 「正法眼蔵」 で 「有時」 と呼んだものに他ならないと述べている。
 大森荘蔵が 「存在の時めき」 と呼んだものは、「期限の消滅」 で述べた 「時間にはこれといった期限など存在せず、いつまでにやるという未来の期限も、いつまでにしたという過去の期限も、ともに存在しない。 もし期限というのであれば、それは今の今である現在である。 「いつやるの? 今でしょう」 を 「存在の時めき」 と訳した大森荘蔵の慧眼には、哲学者の認識とは 「かくあるか」 と思い知らされる。
 またドイツの哲学者ハイデッガーは、その著書 「存在と時間」 の中で、ニーチェの 「永遠回帰説」 について次のように述べている。
 未来において何が起こるかは、まさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれているのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての 「この瞬間」 においてである。 永遠回帰におけるもっとも重い本質的なものは、まさに 「永遠は瞬間にあり」 ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、「未来と過去との衝突」 であるということである。
 ハイデッガーの言うところは、永遠は遥か彼方にあるのではなく、未来と過去を連結する 「今の今」 にあるのであって、この 「瞬間こそが永遠」 なのであるということである。 そして大切なことは、未来と過去が衝突し相克の中心であるこの瞬間での 「決断」 であるというのである。
 以上の論旨をくまなく省察すれば、「期限の消滅」 しかり、「存在の時めき」 しかり、「永遠は瞬間にあり」 しかり、視点は異なるものの同じ時空の断面を三者三様の言葉をもって描いているにすぎないことが理解されてくるであろう。
2019.03.05
過去や未来は現在に含まれている
 「過去や未来は現在に含まれている」 とする構造認識は、ベストエッセイセレクション 「時空の消失点〜時間も空間もない世界」 で論じた 「線形時間を廃棄したことで導かれた重層的に重ねられた世界構造」 からくるものである。 だがこの構造認識はすべての人に通用するものではない。 あるとき右脳派の友人に、「時間は過去・現在・未来と流れていると思われているが、実は過去と未来は現在に含まれていて、状況に応じて現在に象出するのだ、あの壁にもたれている人を見るがいい、彼の周りには今、過去が象出している」 と話したとたん、彼は 「わかった!」 と感嘆の声をあげたが、同じことを左脳派の友人に話したら、冷ややかに鼻で笑われたのである。
 それはさておき 「過去や未来が現在に含まれていて、その含まれていたとある過去や未来の場面が、とある現在の刹那に象出する世界構造」 はさまざまな示唆に富んでいる。 日頃、今の今である現在にて遭遇する津々浦々の出来事が、とある過去や、とある未来の場面であると考えることは、いうなれば 「現在を 3倍 にして生きる」 ことでもある。 常識をはるかに超えた仮説ではあるが、「探求してみる価値」 は充分にある。
2019.03.06
存在の目的
 現在とは 「Pairpole 宇宙モデル」 でいえば、時空間を時間で微分した 「刹那宇宙」 のことである。 他方、過去・未来とは時空間を時間で積分した 「連続宇宙」 のことである。 刹那宇宙は時間が断裂した宇宙であるからして、時間経過に帰因する因果律は成立しない。 連続宇宙は時間が経過する宇宙であるからして、因果律が成立する。 刹那宇宙では、すべての事象が超因果律的に生起消滅する。 他方、時間が経過する連続宇宙では、すべての事象が因果律的に原因と結果で生起消滅する。 結局。 「期限の消滅」、「存在の時めき」、「永遠は瞬間にあり」 で論考したことはすべて、刹那宇宙と連続宇宙で構成された 「Pairpole宇宙モデル」 の胎動からすれば当然の帰結なのである。 思考は巡って原点に回帰したようである。 であれば今の今をとらえた現在を描いた 「期限の消滅」、「存在の時めき」、「永遠は瞬間にあり」 の描象が、心理学者、ユングが提唱した 「共時性」 の態様そのものに一致することもまた必然の帰結である。 共時性はまた 「目的論」 と呼ばれる。 刹那宇宙である現在に象出する 「意味ある符号(予兆)」 がいったい何を目的としているかということである。 だがその目的の探求には時間経過で構成される因果律を使用することはできない。 すべては超因果律的なアプローチで挑まなくてはならない。 結論から言えば、探求の方法として因果律を基にした認識学や論理学等々の思考法は用を為さないであろう。 科学的合理性を強固に信じる現代人には、はなはだ不評ではあろうが、ここは非論理的な 「直観」 などを基にした超因果律的な方法を駆使する以外に他に道はないのである。
2019.03.07
刹那と連続の狭間
 結局。 生きるとは今の今である現在、即ち運動をともなった実在である 「刹那の世界」 に生きることである。「いつ生きるの? 今でしょう」 を描いた期限の消滅にして、「存在とはすでにして時間である」 を描いた存在の時めきにして、「存在と時間の狭間」 を描いた永遠は瞬間にありにして、人が生きる実存とは、今の今である刹那の世界にあることを高らかに主張している。 過去や未来で構成される連続の世界は、その背景として描かれているに過ぎないのである。
 構築された 「Pairpole 宇宙モデル」 における刹那宇宙とは、宇宙(時空間)を時間で微分した宇宙であって、宇宙の方向性(傾き)を表している。 他方、連続宇宙とは、宇宙(時空間)を時間で積分した宇宙であって、宇宙の大きさ(面積)を表している。 刹那宇宙は物質運動をともなった実在(リアル)の世界であるのに対し、連続宇宙は意識で構成された仮想(バーチャル)の世界であって、それはまた意識に描かれた 「宇宙の運動軌跡」 を表している。
 密教を基とした空海が唱えた求道の精神 「仏として生きる」 とは、かかる刹那宇宙における動的存在(存在の時めき)を述べたものであろう。 他方、顕教を基とした最澄が唱えた求道の精神 「仏に向かって生きる」 とは、かかる連続宇宙における静的存在を述べたものであろう。 それはまた 「右脳的な直観力に依った空海」 と 「左脳的な認識力に依った最澄」 とのアプローチの違いであろう。 ふたりが対峙した 「顕と密の狭間」 とは、また 「連続と刹那の狭間」 でもあった。
2019.03.12
直観と認識の狭間
 線形時間を廃した時間も空間もない 「今の今」 の世界とは、空海が目指した想像と現実が融合した 「即身の場」 である。 顕教を究めた最澄は左脳(認識)の人であるのに対し、密教を究めた空海は右脳(直観)の人である。 その空海が目指した 「即身」 の教えが左脳的な認識を超越した右脳的な直観に終始することはやむを得ないことであって、その直観を認識で理解しようとすると多大な困難がともなうこともまた当然の仕儀である。 その違いは代数学と幾何学の対比に相似する。 数式を使って解に導く代数学ではデジタル的な認識が優先されるのに対し、図形を使って解に導く幾何学ではアナログ的な直観が優先される。 前者の解は 「理解」 であるのに対し、後者の解は 「頓悟」 である。 手順を踏んだ認識で得られる 「理解」 と瞬時の意識跳躍で得られる 「頓悟」 では、その本質がもとから異なっている。 密教の頓悟(悟り)が 「大いなる秘術」 とされる所以は実にここにある。
 想像と現実が融合した 「即身の場」 は物質的運動をともなった 「今の今」 という 「刹那の宇宙」 である。 その宇宙に意識的想像をもってアプローチする人間には 「いかなる方法」 があるのか? その宇宙が物質的運動を基とする以上、意識的想像をのみもってしては実現は不可能である。 言葉としては合理性が欠けるが 「意識的運動」 をもってアプローチすることが妥当であろう。 曰く、「運動するように想像する」 ことである。 言葉の合理性からはさらに逸脱してしまうが、頓悟を目指す大いなる秘術ともなれば充分に許容されるものであろう。 運動をともなった想像として想起されるのは陽明学を創始した王陽明が唱えた 「知行合一」 の教えである。 「知行合一」 とは知(即ち想像)と行(即ち運動)を融合一致させることである。 「知って行わざるは知らぬに同じ」 ということである。 王陽明もまた空海同様に過去と未来で構成された仮想の連続宇宙ではなく、実在としての刹那宇宙である現在に生きた 「達人」 であったということができる。
2021.01.08
物質と意識の狭間
 即身の場である現在を唯物論的視点で眺めると物理学が語る 「物質的運動」 の世界であり、唯心論的視点で眺めると心理学が語る 「意識的運動」 の世界である。 かって、「化石と幽霊」 と題して、その世界の対比を以下のように描いている。
 この宇宙が 「物そのもの」 だけで構成される 「科学の方法論」 で記述される 「唯物的世界」 であるとするならば、人間は 「化石」 のようなものである。 他方、宇宙が 「心そのもの」 だけで構成される 「心理学の方法論」 で記述される 「唯心的世界」 であるとするならば、人間は 「幽霊」 のようなものである。 化石も味気ないが、幽霊も味気ない。
 また、ワームホールの命名者であるジョン・アーチボルト・ウィーラーは 「宇宙とは現象である」 と述べている。 ウィーラーは 「現実はすべて物理的なものではないかもしれない」 と問題提起した最初の物理学者である。 我々の宇宙は 「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象かもしれない」 というのである。 想像と現実が融合した即身の場である今の今である 「現在」 を意識を必要とする参加方式の 「現象」 であると要約したウィーラーの直観力は 「詩心をもった物理学者」 の面目躍如たるものがある。 曰く、「現在とは物質と意識が融合した現象である」 と。
 さらに、物質と意識の結びつきを研究した英国の物理学者ロジャー・ペンローズが著した 「皇帝の新しい心」 は発表されるやいなやセンセーショナルな論争を巻き起こした。 ペンローズの理論が特徴的であるのは、統一理論の 「あるべき姿がいかなる思考から生まれるのか」 という従来の物理学にはなかった 「アプローチ方法の違い」 にある。 彼の理論は多分に荒削りではあるものの、もし彼の言うことが正しいとすれば、物理学の理論を一挙に統一するとともに、哲学の最難問とされる 「物質と意識の結びつき」 を解決する可能性を秘めている。
2021.01.12
直観的場面と歴史的場面の狭間
 シンプルな宇宙である 「現在だけの宇宙」 は、想像と現実が融合した 「即身の場」 である。 では 「唯識としての想像」 と 「唯物としての現実」 が融合して成る 「即身のメカニズム」 とはいかなるものであろうか? 換言すれば 「現在場を構築するメカニズム」 とはいかなるものであろうか? 先日。遙か以前に検討した意識世界を記述する 「直観的場面」 と物質世界を記述する 「歴史的場面」 のことが不意に想起された。 それらの場面が構築される様相は、第211回 「直観的場面構築」 と 第212回 「歴史的場面構築」 で詳述しているのでここでは割愛して、その帰結のみを述べれば以下のようになる。
 直観的場面とは 「現在場」 における 「想像の場面」 であり、歴史的場面とは 「現在場」 における 「現実の場面」 である。 つまり、直観的場面と歴史的場面が融合して一体化した世界風景とは、とりも直さず 「現在場の風景」 である。 「シンプルな宇宙」 への道はそのときすでにして拓かれていたのであろうが、悲しいかなその 「構築メカニズム」 に想到するに、かくも長き 「思考の熟成」 が必要とされたのである。
2021.01.25
道元禅師かく語りき
 曹洞宗の開祖、道元禅師が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく未来もない、ただ今があるのみ、今の刹那を生きるのだから何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。
 また道元は 「正法眼蔵」 の 「有時(うじ)」 の巻で、独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。
 かくして道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。
 以上の 「而今」 や 「有時」 で述べられた 「道元の時間論」 は、まさに過去・現在・未来が連なった 「線形時間」 を廃棄したときに現れる、時間が流れない 「今の今」 という 「現在だけの世界」 を述べているかのような不可思議な感懐を覚える。 それは空海にして、陽明にして、同様に感じるものである。 それは 「シンプルな宇宙かく在る」 を実感させるに 「必要にして充分な証」 を与えてくれているように私には思われるのである。
2021.01.26
木枯し紋次郎〜無窮の渡世人
 無宿渡世に怒りを込めて口の楊枝がヒュッと鳴く、あいつが噂の紋次郎、孤独を癒しさすらう旅か、愛を求めて彷徨う旅か、頼れるものは只一つ、己の腕と腰のドス ・・ 木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家にうまれたという。 10歳の時に国を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。 天涯孤独な紋次郎が何故無宿渡世の世界に入ったかは定かでない ・・・。
 木枯し紋次郎には過去も未来もない。 がゆえに永遠に朽ちることがない。 本人は 「あっしには関わりのねえことでござんす」 と言うであろうが、今の今という 「現在だけの世界」 に生きる 「無窮の渡世人」 なのである。
2021.01.28
カサブランカ〜永遠は瞬間にあり
 映画 「カサブランカ」 の中でハンフリー・ボガートが演じた名場面。 酒場の女がひとり飲んでいるボガードに近づきあまくささやきかける。
  「昨日は何してたの?」
  「そんな昔のことはわからない」
  「今夜はどうするの?」
  「そんな先のことはわからない」
 昨日(過去)も、明日(未来)もない。 自分には今日(現在)だけしかない。 ハードボイルドに生きる男の面目躍如たるカットシーンである。 それは、今の今である 「現在だけの世界」 に生きる者にしてはじめて言える 「名台詞」 である。 「永遠は瞬間にあり」 を語って余りある。
2021.01.29
曼荼羅の世界
 過去・現在・未来が連なった線形時間を廃棄したときに現れる 「今の今」 である現在だけで構成された 「シンプルな宇宙」 では過去や未来はその現在に含まれている。 だがその構造は一場の風景のようであって 「どこが過去」 で 「どこが未来」 なのか渾然一体となって判然としない。 現在に含まれている過去と未来とは 「いかなるもの」 であろうか? 現在とは 「存在」 である。 であれば、存在であることをもって、過去と未来はすでにして 「現在」 に含まれている。 その中から過去や未来の意味を取り出すことを、大森荘蔵は 「存在の時めき」 と呼んだが、今の今である現在は、漠然と眺めれば変哲なき無窮の日々のようにみえる。 だが決して 「退屈な世界」 ではない。 そこにあるのは 「存在の時めき」 に生き生きとリフレクトする豊饒なる 「曼荼羅の世界」 なのである。
 私は安曇野エッセイ 「ナンバーワンからオンリーワンへ」 の末尾で、その曼荼羅の世界を以下のように描いている。
 我々の生きる世界を語るに 「社会」 では 「無味乾燥」、「娑婆」 では 「殺伐」、今や古くなってしまったが 「浮世」 という美しい日本語をもっている。 浮世とは、さまざまな 「オンリーワン」 に彩られた 「曼陀羅の世界」 である。 その曼陀羅世界のどこに生き、どこに遊ぶのか ・・ それは、我々 「ひとり」、「ひとり」 に与えられた自由な人生の賜なのである。
 科学的概念を芸術的手法で描いたサイエンスアート 「MANDARA」 はかくなる曼荼羅の世界を意匠化した 「ベーシックコンセプトデザイン」 である。 現在だけのシンプルな宇宙の様相を視覚としてイメージ願えればもって幸いである。
2021.02.01

2026.02.17


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