Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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直観的場面構築
 直観的場面構築とは顕在意識や潜在意識で構成された広漠茫洋たる意識の大海に蓄積されていた玉石混淆、種々雑多なさまざまな断片的認識要素(断片的記憶要素)が、ある瞬間に連鎖関連して(連鎖反応して)意識のスクリーンに投影する「直観的場面」である。はなはだ難解な表現であるが、「連想ゲーム」を思い浮かべてもらえばよい。ばらばらに意味なく存在していた言葉が、ある瞬間にまとまりをもち「何事か」を語りだすのである。
 私は機械工学のメカニズム開発技術者であり、この直観的場面構築の手法を使用して多くの開発を手がけた。メカニズムを言葉で表現すれば以下のごとくになる。
「メカニズムとは要素で連鎖された構造が、ある目的達成に向けて行う連鎖反応である」
 メカニズムの構成には「要素で連鎖された構造」と「目的」と「反応」の3つが必要不可欠な条件である。直感的場面構築にはメカニズムに必要な「要素で連鎖された構造」と「目的」と「反応」の3つの条件が具備されている。「要素で連鎖された構造」とは意識下に蓄積されたさまざまな個別意識としての断片認識要素(断片記憶要素)で構成された意識構造であり、「反応」とは直観としての意識作用であり、「目的」とは問題解決としての意識決定である。
 直観的場面構築とは「意識メカニズム」であり、それは歯車、チェーン、ボルト、ナット等々の機械要素で構成された「機械メカニズム」と等価である。従って機械メカニズムを開発することは、この意識メカニズムを作動させることに他ならない。私はこの直観的場面構築という意識メカニズムを使うことで、機械メカニズムの開発に向けた新たなアイデアや多くの着想を得ることができた。
 ただ意識メカニズムの手法は多分に文学的である。なぜなら意識は言葉を介して認識できる形に変換されるからである。根源的な意識は混沌としたディオニュソス(※)であり、このディオニュソスを認識できる形に表現する変換技術が言葉による言語認識システムである。言語認識システムは目鼻も姿も形も混沌としたディオニュソスを言葉(文字)という形に置き換える。稚拙な文学とは、この根源意識の言葉(文字)への変換技術が稚拙であることであり、練達な文学とはこの変換技術が当意即妙であることである。
 文学的な短歌や俳句はこの言語認識システムが集約洗練されたものであり、より短い文章で宇宙のディオニュソスを表現する。その文章(構造)は幾つかの言葉(要素)で構成(連鎖)されることにより、情緒や情景(場面)を発生させる(目的)のである。これからすれば短歌や俳句もまた優れた「直観的場面構築技術」ということができる。
 この意味では「工学の開発」と「文学の創作」とは何ら異なるところはない。優秀な工学とはまた多く優秀な文学であり、優秀な文学とはまた多く優秀な工学なのである。
 但し、直観的場面構築によって現れた場面は一瞬間の場面であり、現れるやいなや再び混沌とした根源意識としてのディオニュソスの大海に消えてしまう。ゆえに、この場面を定着させるためには並外れた技量を必要とする。言葉をもって定着させるには「文豪ゲーテの記述力」が、形をもって定着させるには「巨匠ピカソの描写力」が、音をもって定着させるには「天才バッハの音楽力」が、必要とされるのである。
(※)ディオニュソス
 哲学者、ニーチェは認識的なものを「アポロン的」、情意的なものを「ディオニュソス的」というギリシャ神の名をもって分類した。アポロン的とは形而下的であり、言語的であり、ディオニュソス的とは形而上的であり、抽象的である。私はこの分類を日本の歴史時代の名をかりて、認識的なものを「弥生的」と表現し、情意的なものを「縄文的」と表現している。弥生的とは機能的であり、縄文的とは呪術的である。これらの対比を数学的概念で表現すると、アポロン的、弥生的とは「デジタル的」であり、ディオニュソス的、縄文的とは「アナログ的」である。

2002.10.15


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