Linear ベストエッセイセレクション
即身への道〜想像と現実の融合
Turn

意識跳躍
 想像は自由に飛翔することができる。 だがその想像の飛翔は現実によって制約される。
 「現実はそうあまくはない そんな夢のようなことを考えていたら 食ってはいけない」 というとき 「現実(食ってはいけない)」 という制約が 「想像(夢のようなこと)」 をたちまち幻想に貶めてしまうのである。 だが 「夢のようなことを考えなければ 現実は変えられない」 ことも事実であって 「現実は想像によって制約される」 とも言えるのである。
 以上の構図を還元すれば 「現実は想像を制約し 想像は現実を制約する」 となる。 と同時に視点を換えれば 「想像がなければ現実はなく 現実がなければ想像はない」 となる。 前者の視点は 「想像と現実の対立」 であり、後者の視点は 「想像と現実の融合」 である。
 科学的合理性に導かれた物質還元主義に傾倒する現代人からすれば 「想像よりも現実に重きを置く」 のが常識的見解であろう。 がゆえに想像と現実の対立では現実に軍配が上がり、想像と現実の融合では現実が主体となる。
 現代社会の様相はまさしくその通りとなっている。 現代若者気質の 「誇りで飯は食えない」 という口上がそのことを能弁に語っている。
 だが、科学的合理性に基づいた物質還元主義への度を超した傾倒が人類を無能化させ破綻点に導くことは、第1210回 「人類の破綻点〜尊厳の喪失」 で述べたことである。
 破綻点を回避するためには核心となっている 「物質還元主義への度を超した傾倒」 からの離脱であるが、具体的に言えば 「想像と現実を区別することなく均等に扱う」 ことである。 そこから導かれる帰結は 「想像は現実であり 現実は想像である」 とする 「意識跳躍」 である。 あるいは、その跳躍が量子論が説明する 「トンネル効果」 のような効果を 「破綻点突破」 にもたらすかもしれない。
空海が悟ったもの
 「意識跳躍」 を書いていて、想像と現実が融合した状態こそが、空海が言う 「即身」 の実体であるように想えてきた。
 例えて言えば、ある歌をある歌手が歌ったとき、その歌とその歌手が 「境目なくぴったりと融合している状態」 のようなものである。 そこには歌を超え、歌手を超えた 「何もの」 かが実現している。 おそらくそれはすべてのことに瞬く間に遡及する。 作品と作家が境目なくぴったりと融合したときに芸術は 「何もの」 かに昇華するのであって、作品のみをもって、あるいは作家のみをもっては 「何もの」 かは生まれない。
 即身を宗教まで高めたものが 「即身成仏」 である。 即身成仏とはそのままの生活をしながらであっても 「仏になる」 ことが、普通の社会生活を送りながらであっても 「菩薩の域に達する」 ことが可能であるとする。
 畢竟。 想像と現実を区分けしてあれこれ考えたり、為したりしている状態では即身はほど遠いということであろう。 真言密教から悟り(即身)に至る道は、認識を超越した意識跳躍を必要とするが、その神髄を会得することは空海の全生涯を体験するほどの困難さをともなう。 その神髄が言葉や認識でないところが難しいのである。 限りなく認識を追求した学僧、伝教大師最澄にして、その域に達することがかなわなかった訳とは実にそこにあった。 空海の天才。 最澄の秀才。 互いの道を分けたものはその才能の違いである。
永遠の生命
 即身ということ。 生きるということ。 空海の探求は遠大なループを描いてついに宇宙の源泉にたどり着き 「永遠の生命」 を獲得した。 そうであれば空海にとっては現世にいようがいまいがそう重要なことではなかったに違いない。 以下の事蹟がそのことを物語っている。
 生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 と 「秘蔵宝鑰」 を書き終えた空海はその5年後、62歳で高野山に入定(入滅)している。 入定に先だち空海は 「私は兜率天へのぼり 弥勒菩薩の御前に参るであろう そして56億7000万年後 私は必ず弥勒菩薩とともに下生する」 と弟子たちに遺告する。 弥勒菩薩とは釈迦の弟子で死後、天上の兜率天に生まれ、釈迦の滅後、56億7000万年後に再び人間世界に下生し、出家修道して悟りを開き、竜華樹の下で三度の説法を行い、釈迦滅後の人々を救うといわれている菩薩である。 空海は若き日より兜率天の弥勒菩薩のもとへ行くことが生涯の目標であったのである。
 56億7000万年などという時間を身のうちに内蔵することなど常人の為せることではない。 だが即身で永遠の生命を獲得した空海であってみれば、それは 「1日の出来事」 であったにちがいない。
進化する頭脳の救済法
 進化する頭脳をもった人間にとって 「心と体を融合させてひとつにする」 ことには工夫がいる。 編集工学という分野を創始した松岡正剛はその著 「空海の夢」 の中で以下のように書いている。 少し長くなるが以下に引用する。 但し、その論を理解しやすくするために若干の削除・加筆・訂正を加えていることをご了承いただきたい。
 われわれの頭の中には知覚と学習とによって入力された情報が大量にたまっている。 これらの情報は 「価値の序列」 も 「時間の序列」 もあいまいで、まことにたよりない状態である。 おおざっぱな貯蔵領域は分かれているものの、やっと感覚器官との関係の混乱をふせいでいるだけである。 それは子供のおもちゃ箱のように多種多様にバラバラに入力されたままであるにすぎない。 これがヒトの脳髄の不幸であって、生物一般の不幸ではないことは、生物一般にはかなり厳密な情報入力にかんする制御性や選択性があることによる。 われわれの脳はそういう意味ではやや特殊に発達をしずぎたともいえた。
 依って、われわれに入ってくる第2次的な情報系はそのままではあまり役に立たないということになる。 第1次情報系とはヒトが生物史に内属して継承してきた情報系のことをいう。 この第2次的な情報系をすこし正確にストックするには 「ゆさぶる」 ことである。 ちょっと意外かもしれないが、あるものの状態を構造として整えこれを維持しやすいようにしておくには多少ゆさぶっておくことが必要である。 簡単な例でいえば、かたまったままではなんとも形容のつかない土のかたまりも、これを箱に入れてゆさぶってみるといくつもの大小の粒子によって構成されていたことが見えてくる。 そのような 「ゆさぶり」 はひじょうに普遍的な作用をもった力であるのだが、その性質が自然界でどのような役割をもっているのかはごく最近まで知られていなかった。 「構造の維持にはエネルギの散逸が必要である」 と主張したイリヤ・プリコジヌがノーベル賞をとったのはやっと1977年のことだった。 いわゆる 「ゆらぎ」 がにわかに注目されるようになったのはそれからである。
 情報にも 「ゆらぎ」 や 「ゆさぶり」 が必要であった。 第2次的な情報系はこれによって蘇生し、第3次的なノン・ローカルな序列のなかに位置づけられはじめる。 ここに情報組織ともいうべき姿がたちあらわれてくる。 ここから先の私の考えは話が長くなるので割愛するが、結論だけをいえば、情報組織はそのうちの適当な第3次的な情報系を選びながらこれを圧縮しはじめ(情報圧縮)、しだいに自己組織化をはたすというプロセスになる。 これがふだんは漠然と認識世界だとか思考世界だとかとおもいこまれている当の正体である。 しかし当の正体とはいっても、これはちょうどテレビのチャンネルを次々に早く切り換えてみたときに見える映像のようなもので、常時フラッシュのごとき断面像をみせる 「頭出し」 の部分にすぎない。 自分の認識世界であるというのに、これをゆっくり眺めるには、どこかのチャンネルを限定してつけっぱなしにし、切り換えの能力をあえていったん休止させなければならない。 おそらく 「止観」 とはこのことであったのだろう。
 「直観」とはこうした既定の情報組織のセットにたいし、ある別の第3次的な情報系に属しているシンボルがふいに介入したときに生ずる一種の断面図、わかりやすくいえば 「場面」 にもとづくものであろうとおもわれる。 ある別の第3次的な情報系とはサイ情報系というふうにも単に未知の情報とも考えられるが ・・ その強烈なシンボル群(信号)が既定の情報組織を一瞬にして組み替えてしまうところ、そこに直観の出現があった。 ふたたびテレビの例をとるとすると、各番組が一瞬ながらある必要な場面の 「ぬきあわせ」 によって新しい情報組織に変わってしまうようなものである。 むろんテレビにはそんなことはおこりそうもないが ・・ ここではとりあえず直観が新しい 「場面集(インターフェイス)」 であったことを指摘するにとどめることにする。
 他方 「方法」 とは、そうして入手されたいくつかの直観世界にラショナルなネットワークをかぶせるためにつかわれる。 直観が 「場面集(インターフェイス)」 であるとするなら、方法は 「回路群(サーキット)」 である。 これが私の考える編集(エディトリアル)というものにあたっている。 依って、次なる問題は右脳に直観、左脳に方法をもって 「直観」 と 「方法」 をいかに糾合させるかである。
 上記の文中、松岡は第2次的な情報系をすこし正確にストックするには 「ゆさぶることである」 と述べ、その働きがイリヤ・プリコジヌが提唱した 「散逸構造理論(自己組織化)」 であると指摘する。 それに対し私は「非平衡熱力学の散逸構造理論(自己組織化)」について以下のように説明してきた。
 イリヤ・プリゴジンはエントロピーが増大し、混沌とカオスが極限まで進行して臨界点に達すると 「自己組織化」 と呼ばれる再結晶化が起きることを発見した。 この理論により、1977年、ノーベル化学賞を受賞している。 それは生物学における 「突然変異」 のような現象である。 例えていえば、溶液にさまざまな薬品を混ぜていくうちに溶液の濁りが突然に消えて無色透明になるような現象(混沌からの秩序)である。 混乱も極まれば秩序が発生するのである。
 同じ現象も別の視点で考えるとかような次第となるという好例である。
 また無秩序に蓄積された情報系から直観によってある場面が象出するメカニズムはしばしば本稿でも 「直観的場面構築」 として述べてきたことであるが、松岡はその過程を巧みな表現方法をもって述べている。 これもまた 「機械メカニズムを探求」 してきた私と 「編集工学を探求」 してきた松岡との視点の違いであって本旨に差異はない。
 それはまた 「真理のかたち」 で論じたことであり、その末尾で私は以下のように書いている。
 「真理のかたち」 とはおよそこのようなものなのであろう。 どれもが真理の部分であって全体ではない。 真理に到達しようとすれば部分を統合しなければならない。 つまり、ディラックの予見、マヨラナの予見 ・・ 等々が統合されたとき、真理の女神は一瞬間こちらを振り向いて素顔でにっこりと微笑んでくれるのである。 それがいつになるのかは背を向けている女神本人に聞いてみなければわからないが、彼女の気分しだいというところが妥当な予測ではなかろうか ・・・。
 表現方法のあれこれはさておき、本題は冒頭に記した 「進化する頭脳をもった人間にとって心と体を融合させてひとつにすることには工夫がいる」 とするその工夫とは 「何か?」 である。
 松岡はその課題を 「直観と方法の糾合(融合)」 に改題し、直観が 「場面集(インターフェイス)」 であるとするなら、方法は 「回路群(サーキット)」 であると指摘する。 「方法」 は入手されたいくつかの直観世界にラショナル(道理をわきまえた)なネットワークをかぶせるためにつかわれる。 それが 「編集(エディトリアル)」 であるとし、右脳に直観、左脳に方法をもって 「直観」 と 「方法」 をいかにして糾合させるかであろうと結んでいる。
大いなる秘術
 即身とは 「意識と身体を融合する」 ことである。 換言すれば 「想像と現実を融合させる」 ことである。 還元すれば 「自らと宇宙を融合させる」 ことである。
 では自らの想像が現実と融合しないのはなぜか?
 この 「なぜ」 を考え始めることこそが実に即身への最大にして最強の障壁である。 それは 「仏になろうとした最澄」 が採った 「修行の道」 の糧が 「なぜを問う」 ところを拠り所にしているからに他ならない。 その道はどこまでいっても 「自らが仏であるとした空海」 が採った 「即身の道」 とは交差しない。 仮に想像と現実が融合しないとする原因を探し当てその原因を修行によって克服したとしても 「融合が達成」 されるかの見込みはない。 なぜなら、ひとつの 「なぜの解決」 は新たな次なる 「なぜの始まり」 であって、その追求は尽きることがないからである。 空海はかくなる 「なぜの無限循環メカニズム」 の陥穽に気づいたのではあるまいか? この道では人は救われないということを。
 空海にすれば自らの想像と現実は 「すでにして融合している」 のであって、そのことは人智をもってしては理解されないだけのことである。 空海が62歳で高野山に入定(入滅)する5年前に書き終えた生涯を代表する大作 「秘密曼荼羅十住心論」 の要約版 「秘蔵宝鑰」 の序文最終行に記した 「太始と太終の闇」 と題された以下の偈は本稿で幾度も登場しているが、あるいはそのことを語っているのではあるまいか? その視点で読んでみると少なくとも私には納得がいくのである。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
 空海の 「即身の道」 は、科学的合理性で思考が拘束されている常識人にとっては納得することは至難の業である。 何の根拠も無しに想像と現実が融合していることを信じなさいと言われて 「はいそうですか」 と納得する人は希なる者である。 だがそれを超えるところに密教の奥義がある。
 空海にしても科学的合理性にまったく無知であったわけではない。 史実は優秀な土木技術者であり、建築家であり、能書家であり、芸術家であり ・・ あらゆる技芸に通じていたことを伝えている。 その空海にして 「即身を説いた」 のである。 「なぜ」 を考えなかったはずはない。 何らかの方法をもってその 「なぜを超越」 したのである。
 その方法こそが真言密教の 「極意(大いなる術)」 なのであろうが、空海滅後1200年に至ろうとする今も尚それが 「かくある」 と衆に啓示できる大師は現れていない。 空海の前に空海なく 空海の後に空海なし ということであろうか?
止観
 「進化する頭脳の救済法」 では、即身の核心である直観と方法をいかに融合させるかについて論考した。 その中では、直観を 「場面集(インターフェイス)」、方法を 「回路群(サーキット)」 と位置づけ、融合は 「編集(エディトリアル)」 によって成されることが述べられている。
 だが、研ぎ澄まされた直観(場面集)も確かな方法(回路)で制御されなければ、その制御系(回路)は発振(共振)してダウンしてしまう。 融合を安全に実現するためには、走り出した直観(場面集)を停止したり再起動したりする機能がその方法(回路)に内蔵されていなければならない。 間断なく切りかわる場面の切り換え能力をあえていったん休止させる制御回路の付加である。
 これ即ち 「止観」 の働きである。 (※ 止観とは : 一切の妄念を止め 正しい知恵で対象を観察すること)
三界の狂人と四生の盲者
 現代人が求めるものとは想像と現実が融合した即身の実現であろう。 それは人間が生きる原点の姿である。 原始人や縄文人に実現していたものである。 人間が進歩という幻想に取り憑かれて以来、想像と現実は乖離するばかりである。 肥大化した想像と巨大化した現実の出現である。 想像は現実に追いつけず、現実もまた想像に追いつけない。
 前述した 「大いなる術」 でとりあげた 「太始と太終の闇」 の偈に登場した 「三界の狂人と四生の盲者」 とはあるいはこのような現代人の姿を述べたものではなかったか。 それはまたニーチェが未来において登場を予言した 「末人」 の姿にも似る。 視点は少しそれるが、フランスの画家ポール・ゴーギャンは死に先立つ5年前に 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 とする生涯の代表作を描いている。
 これらを俯瞰するとき、宗教家にして、芸術家にして、哲学者にして、その語るところには 大きな隔たり は感じられない。
※) 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
 フランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて絶海の孤島タヒチで描いた絵画作品。 ゴーギャンが描いた作品の中で最も有名なもののひとつで、現在はボストン美術館に所蔵されている。 この大作の発するメッセージは何なのか? ゴーギャン自身はそれについて明確な説明を残していない。 だがこの作品は見る人それぞれのうちに様々な物語を誘発して私たちの内面の深い部分に常に何かを問いかけてくる。 この作品の強い喚起力は美術という枠組みを超え混迷を深める現代の社会にあってますますその存在感を高めている。
即身は瞬間にあり
 それは先日のことであった。 ニーチェが提示した 「永遠回帰説の構造」 が何のことはない 想像と現実をひとつに融合する 「即身」 を述べたものに他ならないということに行きあたった。 以下は 第820回 「永遠は瞬間にあり〜永遠回帰に思う」 からの抜粋である。
 永遠回帰説の構造 とは、今の今という現在を起点として 未来に向かうと過去に至り その過去から再び今の今という現在に回帰する というものである。 今の今という起点は円環上のすべての点であって、そこは 「始点」 でもあり 「終点」 でもある。
 また 「存在と時間」 を著した同じドイツの哲学者ハイデッガーはその 「永遠回帰説」 について次のように述べている。
 未来において何が起こるかはまさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての 「この瞬間」 においてなのである。 永遠回帰におけるもっとも重い本来的なものは、まさに 「永遠は瞬間にあり」 ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく 「未来と過去との衝突」 であるということである。
 それに対する私の見解は以下のようなものである。
 人間以外の生物に過去や未来があるのかはわからないが、私には彼らが今の今というこの瞬間を永遠に昇華させているように観える。 人間より遥かに短い生涯しかもちえない彼らであってもその生はすでにして永遠に行き着いているように観えるのである。 なまじ認識力に優る人間であるがゆえに今の今という足下には目がいかず、遥か彼方の 「ありもしない永遠」 を求め続けているのかもしれない。 つまり、永遠は遙か彼方の先にあるのではなく、今の今であるこの瞬間に 「何を考え 何を為し 何を決断する」 かにかかっている。 それは取りも直さず 想像と現実をひとつに融合する 「即身の構造」 であって、その実現は今の今である 「この瞬間をおいて他にはありえない」 のである。 しかしてその即身の連続そのものが 「永遠性そのもの」 なのである。 依って 「永遠は瞬間にあり」 という定義は 「即身は瞬間にあり」 と改題されても 何らの支障 は発生しない。

2018.09.25

即身の秘術
 即身とは想像と現実の融合である。 融合とは換言すれば 「一致させる」 ことである。問題はその不一致をいかに克服して生きるに役立つ道具にするかである。 だがその克服はそう容易くはない。想像が過ぎれば 「現実は化石のよう」 であり、現実が過ぎれば 「想像は幽霊のよう」 である。 想像と現実の一致度合いに応じて、即身は人を化石から幽霊まで変化させる。 化石も味気ないが幽霊もまた味気ない。
 想像と現実は漫然と放置すれば乖離するのは自然の成りゆきである。それは宇宙の基本的法則である 「エントロピー増大の法則」 と等価であって、物事は放置すればより曖昧になり、事態は混乱と雑然に向かう。 即身もまた想像と現実の乖離を放置すれば、人はより曖昧になり、人生は混乱と雑然に向かっていく。 化石にも幽霊にもなりたくないのであれば 「即身の秘術」 を手に入れるしか他に道はない。
想像の夏と現実の夏
 私には 「さまざまな夏の思いで」 がある。 それらの夏は私の意識世界の中に記憶として保存されている。 そして今、目の前には現実としての夏が広がっている。 だがその夏は記憶として保存蓄積されてきた 「さまざまな夏」 のうえに立って眺めている 「想像としての夏」 である。 はたしてそれらの 「さまざまな夏の記憶」 に影響されない現実の夏というものは存在するのか?
 それは記憶喪失にでもならないかぎり不可能のように思える。 即身は想像と現実の 「一致」 を求めるが、今、目の前にする 「現実の夏」 は 「いかなる想像の夏」 と一致させたらいいのであろう。 勿論。現実の夏は物質的現象であって、私の意識的想像である想像の夏が含まれる余地はない。 現実の夏は 「ただそこに存在する」 だけである。 即身として、想像の夏と現実の夏を一致させようとすれば、今まさに目にしている現実の夏に、それ以外の想像の夏を対応させることはできない。 言うなれば、現実の夏に、かっての 「さまざまな夏の記憶」 を含ませてはならない。
 「即身の夏」 とは 「今の今である現実の夏」 と 「今の今である想像の夏」 の融合によってのみ象出する 「実在の夏」 である。 依って、その想像に向けての姿勢は 「虚心坦懐」 であり、その現実に向けての姿勢は 「一期一会」 でなくてはならない。
信長の即身〜是非もなし
 想像と現実を一致させるとは 「1 の想像を 1 の現実とし、2 の想像を 2 の現実とする」 ことである。あたりまえのことであるがこれがなかなかに難しい。 危険度 1 の現実を危険度 10 の想像として大騒ぎしたかと思えば、逆に危険度 10 の現実を危険度 1 の想像として漫然と放置するのが人間である。 もし想像と現実の重みを 「当量に対応」 させることができたならば、それだけで 「即身は完成」 したようなものである。
 「掛け値なし」 という言葉がある。 もし日々発生する出来事に 「掛け値なしの重み」 をもって現実と想像を対応させることができればそれは 「超一流の人間」 ということができる。 本能寺で信長が光秀に急襲されたときに言ったという 「是非もなし」 とは 「信長の即身」 を述べたものであろう。 現実の事態に対し信長の想像が掛け値なしの重みで対応した結果としての 「是非もなし」 なのである。 光秀という緻密な現実からすれば事に臨んで手抜かりなどありえず、もはや絶体絶命であって窮地は免れない。 信長の想像と現実はここに一致したのである。
信じる者は救われる
 想像と現実を冷静に 1 対 1 に当量に量ることができれば 「超一流の人間」 であろうが、それを 「即身の秘術」 だとすれば、凡人は救われない。 がゆえに空海は 「人間は生まれながらにして仏である」 と宣言したのである。 換言すれば 「人間は生まれながらにして超一流である」 ということである。 ここのところは法然の 「南無阿弥陀仏」 と唱えるだけで極楽往生が約束されるという教えと相通じる。 成否の分かれ目はそれを 「信じるか」、「信じないか」 にある。 言うなれば、俗に世にいう 「信じる者は救われる」 という信仰心への帰依である。 だが信じなさいといわれたからといって 「はいそうですか」 と信じる者の数は希少であろう。 深く考える者であってみればなおさらである。 唯識の頂点を極めた最澄にして最後まで空海を信じられなかった事実がそれを物語っている。
 即身の秘術が 「鰯の頭も信心から(いわしのあたまもしんじんから)」 では何ともしまらない話であって、最澄が信じなかったのも無理からぬことで分からぬでもない。 だがそれだからこそ、いやそれがゆえにこそ、「大いなる秘術」 なのである。 馬鹿と天才は 「紙一重」 とは言い得て妙である。
繁栄の代償
 即身の秘術が考えることを排した 「信じる者は救われる」 であるとすれば、人間は救い難き存在である。 なぜなら人間の最も優れた資質が 「考える」 ところにあるからに他ならない。 地球上における 「生きとし生けるもの」 が為しえなかった大繁栄は考える資質をもった人間にしてはじめて達成されたものであろう。 だがそれゆえに 「考えることの弊害」 もまた応分に膨大であって、大繁栄の裏には大衰退が隠されていることは 「Pairpole 宇宙論」 の語るところである。 人間以外の生きものが 易々 と至れる即身に、人間がなかなか至れない理由はあるいはこのあたりにあるのかもしれない。
 人間以外の 生きとし生けるもの が、人間よりも劣る者であって、可哀想な存在であるなどと誰が決めたのか? 事の真相は逆で、人間こそが、劣る者であって、可哀想な存在なのではないのか? それをいったい誰が否定できるというのか? それが 「繁栄の代償」 というのであれば、人間は甘んじてその 「衰退のつぐない」 を引き受けなければならない。

2020.06.26

想像と言語の変換術
 「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する、私の心の限界が私の世界の限界である」 オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)の言葉である。 即身とは「意識と身体を融合する」ことである。換言すれば「想像と現実を融合させる」ことである。 その即身からすれば、ウィトゲンシュタインの 「私の言語の限界」 とは 「私の想像の限界」 を意味する。 そしてまた 「私の世界の限界」 とは 「私の現実の限界」 を意味する。
 私の想像を 「私の言語」 に置きかえ、私の現実を 「私の世界」 に置きかえれば、即身とは 「私の言語」 と 「私の世界」 を融合したものであるとなる。 この置換によって即身はより明確なものに転じる。なぜなら想像は多分に輪郭が曖昧な意識の抽象性であるのに対し、言語は多分に輪郭が明瞭な意識の具象性であるからに他ならない。リアルとしての現実に対応するにはより具体的な方法でなければ用を為さない。
 かくして、限界を超えた想像を拓くための限界を超えた言語が必要になる。 即身の 「大いなる秘術」 とは、あるいは 「想像を言語に変換する変換術」 のことなのではあるまいか? であれば 「限界を超える言語の創造」 こそが必要となる。
新たな言語の創造
 人間が創りだした 「術(ツール)」はさまざまあるが、その中から唯一無二のものを挙げよというならば 「言語(言葉)」 ということになるのではあるまいか?
 それは、即身の「大いなる秘術」などと銘打つまでもなく、もとより 「自明」 なことである。 だがその自明性によって言語本来の威力が覆い隠されてしまったのかもしれない。 それは生きるに必要な空気の存在が忘れられている状況と相似する。
 拓かれる新たな意識の地平が見つからないというのであれば、新たな意識を拓く 「新たな言語」 を創造するにしかずである。その新たな言語とは「想像と言語の変換術」で述べた 「限界を超える言語」 のことに他ならない。 その創造は、無から有を生み出す「発明」のようなものかもしれないし、無形の抽象性から有形の具象性を生み出す「芸術」のようなものかもしれない。 あるいはそのふたつを融合したものかもしれない。

2020.07.10

絵に描いた餅
 即身とは想像と現実を一致させることである。 だがこれを現実を主体にして行おうとすれば 「想像を現実に一致」 させようとして、その生き方は 「現実主義」 になってしまう。 逆に想像を主体に行おうとすれば 「現実を想像に一致」 させようとして、その生き方は 「夢想主義」 になってしまう。 いずれも即身は完成しない。 では想像を 「思い」 という言葉に置換したらどうであろう。 現実を 「こうしたい」 とする思いである。 その思いが強ければ現実は 「そうなる」 のではないか? それは多くの求道者が依って立つ精神である。
 空海は 「思う」 ことをさらに進めて、すでにして 「こうなっている」 と 「信じる」 ことに置換した。 これが 「仏に成ろうとした最澄」 と 「仏に成った空海」 の決定的な違いである。 空海はついに 「大いなる秘術」 を手に入れたのである。
 だがこれを実行するには強大な想像力が必要になる。 仏として生きるとは、仏に成った自分を揺るぎない実在性をもって想像できてはじめて可能となる。 かくなる想像ができなければ即身は 「絵に描いた餅」 でしかないのである。
創造と想像
 「創造」 と 「想像」 は似て非なるものである。 創造は精神の集中をともなう意志的な意識操作であるが、想像は精神の拡散をともなう情操的な意識操作である。 創造は顕在意識を主体とすることで認識的・左脳的・デジタル的であるが、想像は潜在意識を主体とすることで直感的・右脳的・アナログ的である。 創造は意図と工夫が要求されることで能動的であるが、想像は意図も工夫も要求されないことで受動的である。 これらの比較の羅列は尽きることがない。 これだけの違いがあるものを同じとは言えない。 即身に必要なものは、かくなる 「想像」 であって、創造ではない。 あるいはそれは 「瞑想」 や 「思惟」 と呼ばれるような精神状態に近いものかもしれない。
夢見る人
 荘子は夢で胡蝶となって自由に飛び回っていたが、目覚めてみると紛れもなく荘子である。 いったいそれは、荘子が夢で胡蝶となったのか? それとも、胡蝶が夢で荘子となったのか? 荘子の思想を象徴する寓話とも言われる。 「胡蝶の夢」 の説話は 「荘子」 の中でも重要とされる 「斉物論篇」 を締めくくる位置にある。 「斉物論」 とは 「万物は全て斉しい(等しい)とする論」 とされ、是非、善悪、彼我を始めとした区別は絶対的なものではない事を主張している。 この説話でも夢と現実(胡蝶と荘子)の区別が絶対的ではないとされるとともに、とらわれのない無為自然の境地が暗示されている。
 想像と現実を一致させる即身に向けて空海の講じた 「大いなる秘術」 は仏に成った自己を揺るぎない実在性として信ずることであった。 荘子の 「胡蝶の夢」 では 「荘子が夢で胡蝶となったのか? それとも、胡蝶が夢で荘子となったのか?」 荘子はそれを確定できない。 この構図を空海の状況に置きかえれば 「空海が夢で仏になったのか? それとも仏が夢で空海になったのか?」 となる。 はたして空海はこの是非を確定できたのか? おそらく空海もまた荘子のごとく確定できなかったであろう。 だがこの世の実践者(生きる者)としての空海であってみれば迷ってばかりでは何も解決しない。 がゆえに 「あえて信ずる」 ことでかかる是非の彼岸を超えていったのではあるまいか? 夢想主義者であった荘子と現実主義者であった空海の違いである。
 だが常住坐臥に応じてふと訪れる瞑想や思惟の中では空海もまた荘子のように 「夢見る人」 であったに違いない。 でなければ56億7千万年後に弥勒菩薩とともにこの世に甦ることなど信ずることは到底にしてできなかったはずである。

2020.09.23


copyright © Squarenet