Linear ベストエッセイセレクション
空海への道〜三教指帰と虚空蔵求聞持法
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三教指帰
 以下の記述は、歴史作家、司馬遼太郎の小説 「空海の風景」 から18歳の空海が書いた 「三教指帰(さんごうしいき)」 に関する部分を抜粋して、私的に編集したものである。
 15歳の空海(幼名:佐伯真魚)は、一族の期待を背負って故郷讃岐をあとにして奈良の都に向かう。 国の高官養成所である大学で学ぶためであった。 大学では叔父の阿刀大足(あとのおおたり)の勧めで行政を学ぶ明経科に入った。 経学は儒学の基幹ではあるが、そこで説かれているものは 「処世の作法」 というものでしかなく、「人間とはなにか」 という課題には、いっさい答えていなかった。 それを学ぶことで、支配者の下僚として世間を支配する方法は習得できるにしても、人間と宇宙を成り立たしめている 「真実や真理」 などはすこしも語られていなかった。 目当てを失った空海は大学を退学して山林に姿をくらました。
 そのご18歳で、空海は最初の著作 「三教指帰(さんごうしいき)」 を書く。 戯曲構成で書かれた日本最初の 「思想小説」 である。 物語は儒教・仏教・道教の三教の代表としての3人の登場人物を中心にして展開する。 叔父の阿刀大足をモデルにした 「亀毛先生」 は儒教の、「虚亡隠士」 は道教の、空海自身をモデルにした 「仮名乞児(かめいこつじ)」 は仏教の代表である。 乞児とは食を乞うて身を養いつつ法を得ようとする小僧をいう。 仮名乞児のありさまといえば、本ものの乞食もあざわらうほどであって、大学をやめてから山林をうろつきまわっている空海自身をあらわしている。 紙子を着、茅で編んだござをかかえ、背中には椅子を背負い、足にはわら草履をはいている。 食を乞うための木の鉢を左のひじに懸け、馬の尻管のような数珠を右の手に懸け、頭といえば銅の盆のようであり、顔は瓦製の鍋のように黒ずみ、栄養の摂取がゆきとどかぬために色つやがまるでない。
 虚亡隠士がこの仮名乞児の登場を見ておどろき、「あなたはどこの国のひとですか、そしてたれの子で、たれの弟子ですか」 と問うと、仮名乞児としての空海は、「私がたれの子であるかということに、なんの意味があるのか」 と昂然とこたえる。
 人間というものは三界に家がないものだ、あると思っているのは錯覚だ、人間の住む六趣の世界をご存じであるか、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上の六つの世界のことだが、人間はこの世界をくるくると輪廻して定まるところがない、それゆえ私はときに天堂(天国)を国とし、あるときは地獄を家とする。 亀毛先生も虚亡隠士もぼう然としてこの乞食姿の若者を見つめた。
 あなたは誰なのかと問うと、カラカラと笑いながら 「あるときはあなたの妻になる、あるときはあなたの父に、あるいは母になる」 とおどす。 亀毛先生は 「あなたは私の妻か」 とおびえつつ、虚亡隠士と身を寄せあった。 さらに、その思想は何で、師匠は誰かを問うと、「あるときは魔王を師匠とし、あるときは鼻もちならぬ異端の修行者を友とする。 鳥もまた私の父であり、獣もまた私の妻であり、このことはあなたがたにとっても変わらない。 儒者よ、あなたは私より年長であり、年長であるからといって長幼の序をやかましく言い、その躾を核にして浅薄な思想を作りあげているが、それは錯覚である。 長幼の序などというそんなばかなものは実際には存在しないのだ。 時間には始めというものがなく、あなたも私も無始のときから生まれかわり、死にかわり、常無く転変してきたものである。 人はむろんのこと、時間も万有も円のごときもので、六道を轟々と音をたててめぐりめぐっている。 さればおわかりであろう、私が何国のどこで生まれ、親がだれであるかということは決まっているわけではないのだ」 とこたえた。
 空海はここにおいて、仏教というよりインド思想の基本的万有観を述べたのである。 宇宙の本質を表現した 「曼陀羅思想」 がいまだ組織的に入っていなかったにもかかわらず、若き空海は絶えまなく胎動する 「本質的世界」 を言語によってあらわしてみせたのである。 このインドの万有観を信じてしまえば、「歴史的時間」 というものは無意味になり、たれがどこで何をしたかという 「歴史的事実」 も虚仮なるものになる。 帝王も格別に尊貴なものでなくなり、まして帝王の手足である官僚がいかに高位にのぼろうとも、まったく意味をうしなってしまう。 乞食も魚も虫も樹木も石も、帝王や大官とともに六道を輪廻するだけの存在となり、この世のすべての 「価値的風景」 が消えてしまう。
 仮名乞児としての空海はかくなる舞台上で、インドの思想がいかにすぐれているかを説きつづけた。 インド人は物事を抽象化して考えることに長じ、現実よりも形而上的世界にのみ現実を見いだすという不思議な思想風土をもっているが、それを説明するのに論理以外にきらびやかな詩的表現をつかう。 このときの仮名乞児もそうであった。
 なんともいえぬいでたちに不審をもった虚亡隠士が 「なぜあなたはそんなに数多くの道具をもっているのか」 と問うと、乞児は、「私は皇帝の勅命によっていそぎの旅をしている、これは旅姿だ」 とこたえた。 皇帝とは地上の皇帝ではなく、慈悲そのものの仏陀のことである。 仏陀が入滅されんとき 「自分の後継者は弥勒菩薩である」 と宣言されたのだ。 弥勒は釈迦没後五十六億七千万年経ってからこの地上に生まれ出てくる仏で、そのときこの弥勒が救う人類は、第一回に九十六億人、第二回に九十四億人、第三回に九十二億人であるとされる。 天はいくつもあるが、弥勒がいる天は 「兜率天(とそつてん)」 と呼ばれる。 空海はその兜率天にあこがれている。 「地球などはいつまであるかわからない、天にあこがれる以外に生きる方法はないのだ、この旅装はその兜率天へゆくためのものだ」 と仮名乞児はいう。
 空海が18歳で宣言したように、かれの生涯は旅であった。 のちに高野山で62歳で入定するに際しても、看病っている弟子達に自分の入滅の日時を告げ、「悲嘆するな、お前たちの一切衆生を兜率天から見守っている、五十六億七千万年ののちに弥勒菩薩がこの地上に下生するときには、ともにくだってくる」 と遺言した。
 空海は膨大な事業を地上にのこしたことをもって、その生涯ほど複雑なものはなかったが、同時にかれほど単純明快な生涯を送った者もいないであろう。 戯曲の中で仮名乞児が 「私は兜率天の弥勒菩薩のもとへいくいそぎの旅の途上にある」 と宣言したとおり、死に臨んでもその決意はいささかもかわることはなかったのである。
 空海が大学をとびだしてから入唐までの七年間の足跡はほぼ空白である。 その七年間とは仮名乞児のころである。 「わが仮名乞児よ」 と空海自身が可愛さのあまりそう叫んでいるかのような自らの青春のころのことである。 この空白の七年間について、晩年の空海は、ほとんど沈黙している。 空海はいったい何をしていたのであろう。
 戯曲 「三教指帰」 は自伝的要素がつよい。 「ここに一沙門あり」 と戯曲の中に登場する沙門は無名ではあるが、空海の生涯のわかれみちに立って影響をあたえた僧である。 その僧とは、山野を歩きまわっている乞食のような私度僧であったのか、それとも堂々たる官僧であったのかわからないが、この時期の空海の風景には私度僧のほうがよく適っている。 その沙門が 「学生よ。 お前がそこまで仏法のことに熱心なら、いい工夫を教えてやろう」 と万巻の経典をたちまち暗誦できるという秘術を伝授した。 これすなわち 「虚空蔵求聞持法」 である。 その方法とは虚空蔵菩薩の真言を 「特定の場所」 へゆき、一定の時間内に 「百万べんとなえる」 ことで会得できるとされている。 虚空蔵菩薩とは天地いっさいの現象(つまりは自然現象)の表象である。 その自然の理法を知り、それを動かす方法さえ会得すれば 「智慧の源泉である自然から」 かぎりない利得をうけることができるのである。 仮名乞児としての空海はかくなる虚空蔵菩薩の真言をとなえながら体のふるえるようなよろこびを感じたにちがいない。 空海とは別な方法で科学を知ってしまった現代人が、この空海の行状をあざけることは容易であろう。 だが密教の断片から科学の機能を見いだした空海のそれと、現代人が知ったつもりでいる科学との、どちらがほんものなのか。 つまり、自然の本質そのものである虚空蔵菩薩に真贋の判定をさせるとすれば、どちらがその判定に堪えうるかということになると、所詮は自然の一部であるにすぎない人間としては回答をだす資格を持たされていない。
 虚空蔵菩薩の真言が効力を発揮するためには宇宙の意志が降りやすい 「特定の場所」 へゆかなければならないが、沙門はその場所は空海自身がみつけることだといった。 大学をとびだしてから入唐までの空白の七年間はそのための旅ではなかったか。 当時の行者たちが霊山と評価した山々にはひとわたり登ったにちがいない。 そのような試みのあと、うまれ故郷の四国をめざした。 海峡を渡り、阿波の大滝嶽で修行し、山中の難路を踏み分け 「土佐の室戸岬」 に至る。 大地はそこで終わる。 あとは水と天空があるのみの 「絶海の涯て」 であった。 その断崖で風雨から身をまもるにたる洞窟をみつけたときには何者かが自分を手厚くもてなしていると感じたであろう。 そこで、その後の空海を空海たらしめる 「異変を体験」 する。 天にあった明星が動き、みるみる洞窟に近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。 この一大衝撃とともに、空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになったのである。 「兜率天から自分に対して勅命がくだった」 と戯曲の中で空海のモデルである仮名乞児が亀毛先生や虚亡隠士に胸をそらしてそのように言う情景も、鮮血があふれ出たようになまなましいこの衝撃が、仮名乞児を昂然とさせていたからに他ならない。
 若き空海は 「虚空蔵求聞持法」 に導かれた室戸岬の 「絶海の涯て」 で遂に天地いっさいの宇宙の理法を知るとともに、それを動かす 「大いなる秘術」 を会得したのである。 虚空蔵菩薩の真言をとなえながら感動にうちふるえる空海の姿が彷彿と浮かんでくる。 そのごのめざましい活躍のすべては、その秘術のなせる業によるものであろう。 戯曲 「三教指帰」 は空海になるためにたどった 「空海への道」 のすべてを伝えている。 司馬遼太郎がのこした 「空海の生涯ほど複雑なものはなかったが、同時に空海ほど単純明快な生涯を送った者もいないであろう」 とはそのことである。
 以上。 18歳の若き空海が書いた 「三教指帰」 にまつわる世界を大急ぎで駆け抜けてきた。 省みれば、私がこの戯曲を読んだのは遡る50年程も前の若き日のことであった。 そのときの空海は、このような本を書いていたのかぐらいの記憶しかのこっていない。 今、あらためて読んでみると、その後の 「空海のすべて」 がここに書かれていたことに恐懼してしまう。 当時の私はもっぱら唐に渡って名を高めてからの 「空海の風景」 を追ってきただけであって、「空海の本質」 を見失っていたのかもしれない。 あるいは、日本仏教の双璧である伝教大師最澄と弘法大師空海の対比の中で、いつしか空海の本質がその業績のなかに埋没してしまっていたのかもしれない。 とまれ空海の空海たる所以は、この 「三教指帰」 の中にすべて描かれている。 それは18歳の名もなき若者が過ごした 「青春の日々」 であるとともに、兜率天にあこがれ 「弥勒菩薩への憧憬」 となって、今もなお天空に煌めいている。
 
虚空蔵求聞持法と直観的場面構築
 虚空蔵求聞持法とは記憶力や知恵の増進を目的とした真言密教の修行法で、弘法大師空海が若き日に行ったとされる。 強い集中力と精神力が必要とされ、達成すると一度読んだ経典を忘れず、瞬時に理解できるとされる。 空海が書いた 「三教指帰」 には、「ここにひとりの沙門あり、余に虚空蔵求聞持を呈す。 その経に説く、もし人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、すなわち一切の教法の文義、暗記することを得る」 と記されている。 空海はこの虚空蔵求聞持法を使って、万巻の書物を記憶したとされる。 その内容は明かされていないが、空海のその後の行状を鑑みるとき、私が編み出した 「直観的場面構築」 との相似性に驚かされる。 私はこの発想法を使って、多くの 「技術開発」、「著作」、「随筆」 等々を創出してきたのである。
 直観的場面構築をひとことで表現すれば、「様々な認識断片を集合組成することで場面を構築し、構築された場面から瞬時に解を得る方法」 とでも要約されよう。
 私がこの手法を見いだしたのは奇しくも空海が虚空蔵求聞持法を会得したと同じ 「18歳頃」 のことであった。 その頃に受けた各種の試験のための学習法は常に 「丸暗記」 を旨としていた。 それは言葉を基とした暗記であったため、過度に行うとやがて胃がもたなくなる。 その方法が極限に達するにしたがって、暗記法は 「言葉から場面(画像)」 へと移行していった。 この場面に基づいた暗記法は、教科書のページを写真に収めるがごときのものであって、出題された問題の解答は記憶されたその場面の何ページかを 「呼び出す」 ことでなされる。 出題がページの備考欄からのものであっても、その備考欄の場面が記憶されている限り、しばらく瞠目して場面をサーチすれば、やがてはそこに焦点がフォーカスされるように 「目的の場面」 へと到達できたのである。 その効果は絶大であった。
 のちに友人とともに体験したさまざまな事象を詳細に記憶していることに 「どうして覚えているのか?」 と不思議がられたが、それもまた 「体験を場面として記憶」 していたからに他ならない。 その場面を想起すれば、その場面に写っているもの 「すべて」 について語れるのは当然のことのように感じられた。 その時に壁に掛かっていた絵画にして、棚のうえに置かれた人形にして、また同じである。
 その記憶法が技術開発において、また小説や随筆を書くにおいて、絶大な効果を発揮したことは前述した通りである。 目的の世界が 「場面として構築されている」 のであるから、ことさらに考える必要はなく、その場面を説明(解説)するだけで事足りたのである。 第2046回 「安曇古代史仮説」 などはその典型であろう。
 そして今も尚。 日々為すべきは、直観的場面構築が起動するために必要な認識断片を集合(蓄積)することであるとともに、場面を組成するきっかけ(機会)を気長に待つことであって、私の日常は若き日のそれと何ら変わりがない。

2026.01.28


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