Linear ベストエッセイセレクション
安曇古代史仮説
Turn

安曇野古代ロマンへの憧憬
 技術の研究は常に大胆な仮説を立てるところから出発する。 まず直観力により認識の飛躍を起こさなければ無から有を生むことはできない。 しかしながらこの飛躍は奇想天外なものであってはならず、常に発生した現象を過不足無く、かつ妥当性をもって説明できるものでなくてはならない。
 この稿は私の技術研究手法 「直観的場面構築」 をもって、今や安曇野の時空に隠蔽されてしまった過去の時空、言うなれば安曇野の 「点と線」 を推理してみたものである。 直観的場面構築とは意識の大海の中に埋没していたさまざまな認識の断片がある時、集合組成し、ある場面(シーン)が構築される 「意識メカニズム」 のことである。 私はこの手法を技術開発に応用し現在国内外200件以上の特許権の成立をみた。 このメカニズムが作動するためには多くの認識断片を意識の大海に 「蓄える」 こと、その断片認識を一体的に合成させる 「きっかけ」 のふたつが要点である。 前者に必要なことは多くのことを 「見聞き、読み、感じる」 努力であり、後者に必要なことは熟成の時を気長に 「待つ」 持続力である。 ここで構築された 「直観的歴史場面」 は信州真田の里で育った私が青春期を大阪、奈良で過ごし、今ここ安曇野の地に至ったことによる。 吉野、飛鳥、斑鳩、西の京、平城京奈良、奈良坂を越え平安京京都と彷徨した時期に蓄えられた認識断片と安曇野に至ったきっかけの僥倖が作用したものに他ならない。 その結果として顕れた 「安曇古代史場面」 はまさに日本民族のふるさと 「みずずかるまほろば」 の桃源郷の風景であった。 しかしながらこれらは 「仮説」 であり、仮説は長い地道な努力で実証されなければならないのである。 倉田兼雄氏の 「有明山史」 によれば出雲は安曇から出発し、出雲神話は安曇神話を基とし、有明山は昔、「戸放山」 と呼ばれ、天の岩戸の伝説は有明山が舞台であるとし、現在の戸隠山や姨捨の有明山は戦国期にかの地に移しかえられたものであり、創作された過去であるとする。 その多くの証拠書類、遺物、遺品は悲しいかな明治維新によって為された 「廃仏毀釈運動」 により方々に散逸してしまっている。 そして今、西暦二千年の安曇野はかってこの地にあったであろう縄文人の 「まほろばの世界」 や舟の民族と馬の民族の 「激しい戦いの世界」 の痕跡をすっかり時空の闇に没し去り 「なにくわぬ顔」 で横たわっている。 また生活する我々といえば日々なる 「頭のハエ」 を追うのに忙しく、その地を北に南にと走り回っている。 安曇古代史仮説は 「歴史ロマン」 でありロマンは我々の時空を限りなく広げ大いなる夢を抱かせてくれる。 多忙な我々ではあるがたまには悠久な歴史ロマンに思いを馳せるのも一興であろう。 この拙稿がその一興に幾ばくかの手助けになれば筆者として望外の幸甚である。 そして、いつかどこかでこの安曇人が辿ったであろう悠久な物語をしっかりと書いてみたいという気が今している。
松本市民タイムス紙連載 / 平成14年2月9日〜17日
安曇古代史仮説 「安曇野の点と線」
(一)舟の文化
 筆者は技術研究所を経営しているのであるが、県外の顧客に会社の住所にある安曇という文字を告げるのにいつも苦労する。 「あづみ」 がなぜに 「安曇」 になるのかが漢字文化に慣れている日本人をもってしても 「ピン」 とこないのである。
 安曇野の古代風景を語るには、まず日本民族成立の風景を描写しなければならない。 日本文化の根源には 「舟の文化」 と 「馬の文化」 のふたつがあると言われる。 舟の文化は南方系民族の文化であり、馬の文化は北方系民族の文化である。 縄文の原住民が狩猟採集生活をする日本に稲作文明を携え南方から舟に乗ってやって来た人々がいる。 日本人は 「しゃがむ」 という習性をもっている。 田んぼのあぜ道で隣人と話すにしゃがみ、最近では夜更けの街の歩道で若者がしゃがむ。 このしゃがむという習性は西欧や中国にはないものであり、特にインドシナ半島のタイやベトナムの人々に多く見られる。 遺伝的視点で考えれば日本にたどり着いた南方系、舟の民族とはこのインドシナのタイやベトナムの人々であったかと思われる。 この地方は古代より 「タオイズム」 の精神が伝わってきた風土をもつ。 タオイズムはその地で 「ヒンズー教」 を、中国に伝わり 「道教」 を、その道教から 「密教」 を創始することにつながる。 タオイズムとは陰陽の2気によって宇宙が構成されているという思想であり、その宇宙は 「太極」 と呼ばれる。 ヒンズー教の男女交合神は現代感覚で見れば何と淫靡な像と言うことになるかもしれないがこのタオイズムで見れば、それこそが宇宙の姿なのである。 密教の一教典である理趣経は奈良東大寺において毎日あげられるお経であり、この理趣経が男女の交合を述べた内容であることを知る人はあまりいない。 このタオイズムの精神から考えられる人間像とは争いを好まず平々凡々のんびりと生きる自然人の姿である。 住み着いた稲作文明を基とする南方系民族のこの穏やかな文化は 「舟の文化」 と呼ばれる。
 また話は脇道にそれるが密教を日本で創始した空海こと弘法大師は四国讃岐の人であり、幼名を 「真魚(まお)」 と言った。 空海という名前もそうであるが彼の周りには 「海のイメージ」 が色濃く漂っている。 青年僧空海が道を求めての山野彷徨の途上、奈良橿原にある久米寺で密教の一教典に巡り合う。 瞬間に彼は仏法の神髄は密教にありとすべてを悟達したと言われている。 後に中国唐の都、長安におもむき当時の密教座主、恵果に対面した彼は即座に伝法灌頂を授けられている。 恵果はこの伝法を待っていたかのごとく、その後まもなくして静かに黄泉に旅立った。 この時をもって密教の法灯は中国から日本に渡ったのである。 これらの経過から素直に考えられることは空海自身がインドシナから密教の源流タオイズムの精神を背負って日本に渡ってきた舟の民族の末裔ではなかったかという推理である。 また讃岐にある金比羅宮は日本では珍しく舟を祀った宮寺である。 舟の民族は気候温暖な瀬戸内の讃岐に多く住み着いたということであろうか。
(二)馬の文化
 こうして穏やかに暮らしていた人々にもやがて転機が訪れる。 「馬の文化」 の到来である。 馬の文化は北方系民族、つまり中国大陸の北部アルタイ民族に源を発する騎馬民族であろう。 この北方系民族は南方系民族と異なり好戦的で気が荒い。 これは温暖と寒冷の両者の気候の異なりがこの人格形成に多大に影響したものと考えられる。 この騎馬民族が朝鮮半島を南下し日本に渡って来た。 そしてそこに暮らす穏やかな南方系、舟の民族を圧迫する。 この民族紛争の勝敗は明らかであり、好戦的で気が荒い北方系、馬の民族が勝利をおさめる。 この間のくだりを語るものが日本神話に遺る 「国譲りの話」 なのではないかと私は考えている。 また出雲の国に遺るさまざまな神話はその痕跡であろう。 出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた 「大国主尊(おおくにぬしのみこと)」 こそ舟の民族の族長であったのではないか。 この尊に漂う徳性を備えた穏健でゆったりとした人格こそタオイズムから発生する南方系、舟の民族の特徴である。 国の主権者はこの時をもって馬の民族に移り、その後この国には 「馬の文化」 が展開する。 神話時代以後、日本史に史実として登場する大和朝廷とはこの北方系、馬の民族の末裔が樹立した政権である。 現在の天皇家はこの血筋をくむものであるとされる。
 しかしこのふたつの異質の文化が極東の島国で出会い融合したことは歴史的に大きな意味をもった。 日本民族の優秀さはこの文化の二面性の融合にこそある。 日本人は温厚と過激の両面をもつ。 切腹や神風特攻隊のような過激な行動は世界にも例がない。 また広島、長崎に原爆を落とされても米国を強く恨むようなことをしない穏健さも兼ね備えている。 また緻密さといいかげんさの両面をもつ。 日本の工業製品の品質は世界一の緻密さから生まれ、日本の政治外交姿勢はまことにファジーそのものである。 文明的に立ち遅れていた極東の島国が明治維新以来の近代化をまれにみる短期間で成し遂げ、GNP世界第2位になるほどに発展したことは歴史的奇跡であると言われる。 この原因もまたこの南方系 「舟の文化」 と北方系 「馬の文化」 の融合にあったとすることができよう。 日本人の顔もこのふたつの民族の顔が併存する。 つまり 「狸顔」 と 「狐顔」 である。 前者は南方系、後者は北方系である。 この○と△の顔かたちでおおよその人格が確定する。 それは狸と狐に代表される性格の違いであり、遙か時空の彼方にあった南方系と北方系の民族の血の異なりである。 日本を訪れる南方系のベトナムやタイの人々の顔や北方系の韓国の人々の顔を眺める時、我々とのあまりの類似性に驚くのは私だけではあるまい。 それは日本民族が背負った遠い過去の記憶の断象である。 また日本人の宗教観も異質である。 仏教あり、神教あり、キリスト教あり、道教あり、儒教あり等々。 これらの宗教のすべてを許容する人間性はこれまた世界に例を見ない。 この人間性もこのふたつの文化の融合によるところ大であろう。
(三)文字の表象
 日本の古代風景の説明はこのくらいにして、いよいよ安曇野の古代風景を描写してみよう。 先年亡くなった歴史作家、司馬遼太郎氏によれば 「安曇」 とは海洋民族の一氏族であると言う。 この海洋民族こそ南方系、舟の民族であり、この氏族が内陸に移り住み地名として痕跡を遺したのである。 これと同様な地名として伊豆の 「熱海」、東海の 「渥美」 をあげており、ともに舟の民族の足跡を地名として遺している。 私はこれに 「奄美」 も入るであろうと考えている。 九州と沖縄の間にある奄美諸島の奄美である。 この島に伝わる風習や儀式の多くにインドシナ文化の特徴であるタオイズムが漂う。
 私は文字は時空の窓であると考えている。漢字は万物事象の形から創られた象形文字であり、文字自身が意味を顕わす「表意文字」である。かたや西欧の文字は「表音文字」と呼ばれ、音を顕わす文字でしかない。 漢字は現代人が忘れ去ってしまった幾つかの過去時空の物語を動物の化石や文明の遺跡と同じようにその文字の中に遺している。 難しく言えば時空が文字の中に 「表象」 しているのである。 文字を眺めているとその文字という窓から過去時空の風景がかいま見えてくる。 つまり、現代の日本人がピンとこない 「安曇」 という文字には安曇野が辿った過去時空が表象しているのである。 日本文化の中核を成す漢字文化はこの意味で貴重な文化遺産である。
 安曇野の人々の祖先は舟の文化を背負いインドシナ→奄美→渥美→熱海→安曇と遙かな歴史を旅をしてきた性格穏やかな南方系民族である。 安曇野のほぼ中央に位置する穂高神社では舟が祀られていると聞いた。 この島に渡った原因でもある舟を祀るのに何ら疑問はなく、これもまた安曇人が南方系、舟の民族であることの痕跡であろう。 安曇野には漢字よりも古い日本最古の文字 「アヒル文字」 が刻まれた遺石があることをかって何かの本で読んだことがある。 私は未だその遺石を目にしてはいないがおそらくその文字形は現在のタイ語などに表象されるヒゲ状の文字に似かよっているのではないかと想像している。 またタイやベトナムなどインドシナ半島の現代語の中に 「あまみ、あつみ、あたみ、あづみ」 などの言葉の音を捜してみるのも面白いと思う。 その音の言葉が何を意味するのかにも興味がある。 多忙な日常にかまけてこれらを探求する機会がいまだにもてない。 いつかゆっくりと考えてみたいものである。
 司馬遼太郎氏は渥美、熱海などの海岸線に住み着いた舟の民族が内陸に移り住み安曇に至ったとしているが私には釈然としない疑問が残る。 「海こそふるさと」 というその思いを捨ててまで海の無い内陸の安曇野に移り住むことにはそれなりの大きな動機がなければならない。 私はその動機を出雲の沖合いにある隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長 「大国主尊」 の物語の中に見る。
(四)八面大王
 穏やかな南方系舟の民族が気の荒い北方系馬の民族に滅ぼされた経緯が大国主尊の 「国譲りの話」 であることは述べた。 私は安曇人こそこの大国主尊につき従っていた舟の民族ではなかったかと考えている。 馬の民族に追われた彼らは北陸路を辿り、糸魚川から姫川を遡り、仁科三湖周辺に住み着く。 しかし追っての執念はすさまじくやがてはそこも危うくなる。 彼らはさらに南下し、ついには安曇野に至ったのではなかったか。 稲作は舟の民族が日本にもたらした最も偉大な文明であり、安曇野に至った彼らは葦原の荒野を見事な稲作田園にしあげたことであろう。 そして今もなお我々が見る安曇野は日本でも有数な米作地帯である。しかし、そこにもやがて気の荒い馬の民族が襲ってくる。 おそらく激しい戦いが幾度か繰り返されたことであろう。 日本の古代神話 「八岐大蛇(やまたのおろち)伝説」 は有名であるが、この伝説はおそらく舟の民族と馬の民族が出雲で戦った状況を伝えているのではないかと思う。 同様に安曇野には 「八面大王(はちめんだいおう)伝説」 がある。 この類似性はいったい何を意味するのか。 安曇野でも同様な戦いがあった証拠ではないのか。 「八岐大蛇伝説」 ではヒノ川の上流にいたという頭部が八つに分かれた大蛇をスサノウ尊が退治したとなっており、「八面大王伝説」 では有明山の麓、宮城にいた八面大王を坂上田村麻呂が退治したとなっている。 この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民族の族長の象徴であろう。 温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたのであろう。
 歴史は後の権力者に有利に記述されるのであり、自分たちに正当性をもたせるように表現されるのは歴史の必然である。 ゆえに征服者である馬の民族であるスサノウ尊や坂上田村麻呂が英雄となり、被征服者である舟の民族が八岐大蛇や八面大王になるのは当然である。 歴史の真相は時の権力者によって常に隠蔽される宿命をおびているのである。 おそらく出雲であった戦いと安曇であった戦いの構図は同じものであり、これらの戦いの物語が混合し、このように類似した伝説が後の世に遺されたのではなかったか。
 ともあれ、安曇野は渥美や熱海に住み着いた舟の民族が移り住んだのではなく、出雲から追われた舟の民族がようようにして辿り着いた場所とした方が話の筋がよく通る。 また 「出雲」 と 「安曇」 の文字に象出した 「雲」 の表象相似は私に強い直観を促す。 仁科三湖の 「仁科」 とはアイヌ語であり、「雲のごとし」 という意味をもつ。 また、「いずも、あづみ」 という音もかなり近いものが感じられる。 「あまみ、あつみ、あたみ」 は清音で構成され、「いずも、あづみ」 は濁音で構成されている。 この音の異なりこそが両南方系、舟の民族が辿った歴史の異なりを表象しているように見えるのである。
 私はこれらの直観から 「出雲は安曇」 であるとの大胆な仮説を立ててみたい。 それはまさにかすかに遺された 「安曇野の点と線」 の痕跡である。
(五)出雲と安曇
 出雲と安曇の表象相似の直観はさまざまなことを語る。 かって梅原猛氏の法隆寺論 「隠された十字架」 をさかのぼる30年程前に読んだ。 梅原氏は法隆寺は聖徳太子の遺徳を讃え建立された寺などではなく、太子一族をおそった非業な運命(太子の皇子である山背大兄王とその一族の斑鳩宮での虐殺事件、下手人は蘇我入鹿であるが裏で策謀したのは大化改新で活躍した藤原鎌足とされる)に対する太子一族の恨みの怨霊を封じ込める寺であることを隠蔽された歴史から解明し従来の通説を覆した。 梅原氏がそれを直観したのは法隆寺で行われる 「聖霊会」 の祭事であった。 法隆寺内陣、講堂の前で催される聖霊会は装束をまとった太子の聖霊が長い白髪を振り乱し狂ったように舞う。 これを見学した梅原氏はこれは 「聖霊」 などの姿ではなく恨みにもだえ狂う 「怨霊」 の姿であることを瞬間に理解したのである。 その後、法隆寺をつぶさに調査した梅原氏はそれを裏付ける幾多の証拠を見出し、この直観の正当性を確信するに至る。 一般に神社仏閣の門は奇数間で造られるが、なぜか法隆寺は偶数間で造られている。 偶数間で門を造ると門の中央に柱がきてしまい入出を拒絶するような構造になってしまう。 梅原氏は怨霊が外界に出ることを許さない意図がこの門の構造に顕現していると言う。 またこの偶数間の社寺の例を他に捜すと島根出雲大社であると述べている。 出雲大社とはまさに恨みをのんで出雲沖、隠岐島で最後をとげた南方系舟の民族の族長 「大国主尊」 を祀った神社である。 表向きは聖徳太子や大国主尊の遺徳を奉るように見せて裏ではその怨霊封じ込めを画策するなど誰によって為されたのか。 それは彼らを滅ぼし大和朝廷を樹立した北方系馬の民族の権力者以外にいない。 太子一族虐殺の策謀者である藤原鎌足は姓は中臣、神事を司る官職から出発した人であり若い頃は中国の革命の書を読み耽っていたと言われている。 性格その他からして祖先は馬の民族であったと考えられる。 日本古代史を確定したとされる 「古事記」、「日本書紀」 は鎌足の子、その後の藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等の意向によって編纂されたものであるとされる。 この時をもって、それまでの多くの古代史の真実は時空の闇に消え去ってしまった。 ゆえに我々はその隠蔽された出雲神話や八面大王伝説の記述から真実を探し出さなくてはならなくなってしまったのである。
 倉田兼雄氏の 「有明山史」 によれば隠岐島で最期をとげた大国主尊の御子、建御名方命(奴奈川姫伝説〜隠された古代王国の謎を参照)は反骨の士であり馬の民族に何としても屈服せず諏訪大社に流罪になったとしている。 穂高神社はその御子の 「見張り所」 であり、穂高の 「穂」 は槍の穂先の意、「高」 は高見するの意である。 つまり、穂高とは槍を持ち見張るという意味になる。
 私にはこの反骨の御子と八面大王の顔がなぜか重なって見える。 そして諏訪大社で催される死をも畏れぬ勇壮な 「御柱祭」 があたかも法隆寺で催される 「聖霊会」 での太子怨霊の恨みの舞のごとく、非業の最期を遂げた大国主尊一族の怨霊、荒ぶる魂の七年に一度の狂乱乱舞の様に見えてくるのである。
(六)みすずかるまほろば
 この稿を稲作文明をもたらした弥生初期の 「舟の文化」 の風景から書き始めた。 それ以前にあった風景とは日本原住民が営んでいた一万二千年に渡る 「縄文の文化」 の風景である。
 その風景に映る安曇は安曇野と呼ばれる平野ではなく、北は大町から南は塩尻にいたる広大な淡水湖、「安曇湖」 が横たわる風景である。 高い山々に囲まれ、遠く鳥獣の鳴き声が響き、満々と紺青色の清水を貯えた静寂な湖の風景はまさに桃源郷と呼ぶにふさわしいものであったにちがいない。 縄文人はこの安曇湖の湖畔に定住し、この湖と山の豊饒な自然の恵みの中で安定した狩猟採集社会を営んでいたことが想像される。 松本の 「蟻ヶ崎」、明科の 「押野崎」 等は安曇湖に突き出た岬の意味であり、現代まで遺された文字の表象である。 また安曇松本平の山麓には縄文期の遺跡や古年代の古墳が多く散在する。 大正時代にはこれらの遺跡や古墳が鳥居龍蔵博士により調査され、前出の八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟はドルメン式古墳と称すべきものであり、日本全国においても他に容易に見ることが出来ないものであるとされた。 また穂高の山麓は養蚕の元祖である 「天蚕」 が始められた地域でも知られている。 縄文の文化は 「ディオニュソス的原始性」、その後に渡って来た舟の文化は 「タオイズム的自然性」 である。 この両者の文化を考えれば両民族は違和感なく融和したことであろう。 融和した穏やかな社会は人間の生活にとって理想に近いものではなかったか。 しかし、その社会はそれほど長くは続かない。 好戦的で性格が激しい馬の文化の到来である。 両民族の平和な営みは破壊され馬の民族の強力な軍事力に従属を余儀なくされる。 また馬の民族はそれに留まらず 「蝦夷退治」 と称して日本武尊や坂上田村麻呂を将軍とし東北地方まで追討の軍を派遣したのである。 現在、日本列島の最北の地、北海道の片隅に居住するアイヌ民族はその追討を逃れた縄文と舟の民族の末裔であろう。 アイヌ民族のもつディオニュソス的原始性とタオイズム的自然性はかっての両民族が遺した香しい遺伝子である。
 ちなみにアイヌという言葉は 「人間」 を意味する。 司馬遼太郎氏は縄文集落「三内丸山遺跡」をもち、今でも「マタギ」が生活する下北と津軽の両半島で陸奥湾を囲む青森の地を日本民族の「ふるさと」であるとし、「北のまほろば」と呼んだ。 だが私は日本列島中央に位置し峻厳な山々で外敵から守られ豊饒な自然に恵まれた安曇湖周辺に営まれた社会こそ日本民族の 「ふるさと」 であったと考える。 その桃源郷を私は 「みすずかるまほろば」 と呼びたい。 安曇湖が蟻ヶ崎により囲まれた内灘は現在の松本市街地であろう。 その内灘の奥、背後に美ヶ原をひかえた 「美須々ヶ丘」 の地は息をのむような景勝地ではなかったか。 私は信濃のまくら言葉 「みすずかる」 とはこの美須々から採った 「美須々かる」 をあてたい。
 もっともここまでくれば安曇古代史仮説と題するよりも 「安曇古代史幻視」、あるいは 「安曇古代史瞑想」 と題したほうがよさそうではある。
 歴史は史実に忠実でなければならないが、その史実から生き生きとした歴史場面を抽出するためには幾分かの想像が許されてしかるべきであろう。 でなければ時空の彼方に消えてしまった 「歴史物語」 を現代に蘇生させることなどできない。 本稿を書くにあたって 「仮説」 という形式をとったのはその想像がゆえのことである。 しかして 「歴史ロマンの本質」 とは、その想像に向けた 「意識跳躍への憧憬」 に他ならないのである。
(了)  
松本市民タイムス紙連載 / 平成14年5月16日〜18日
安曇古代史仮説 「後記」
(上)それぞれの歴史ロマン
 「安曇古代史仮説(安曇野の点と線)」 の掲載に対し、数多くの皆様方から多大な共感が寄せられました。 紙面をお借りして深く感謝申しあげます。 郷土の古代史研究家の皆様からのご助言、ご指摘をはじめ、多くの読者からの応答に接し、筆者として望外の幸甚に浴した次第です。 皆様からのご厚志に対し幾分かのお礼にと願い、安曇古代史仮説後記として、その後のこもごもについてお話したいと思います。
 研究家の皆様からのご意見としては、広大な安曇湖を安曇野に出現させるためには山清路の水位を数十メートルあげなければならず、筆者が言うような安曇湖は存在しなかったという地勢学的見地からのご指摘、「信州のアイヌコタン」 の著者、百瀬信夫氏から寄せられた 「古代語研究」 の視点から探求された安曇湖説、氏の長年にわたる古代史研究文献の数々からは筆者として多くの啓発を受けました。 一般読者からのご意見の多くを紙面上割愛しなければなりませんが、ともに七年に一度の善光寺御開帳と諏訪大社御柱祭の類似性、御開帳で建てられる一本の 「回向柱」 と御柱祭で社を囲むように建てられる四本の 「御柱」 から、馬の民族による諏訪大社に施された舟の民族に対する怨霊封じ込めを目した 「結界の構図」 をご指摘され 「ハッと」 させられましたし、松本の人々が馬刺を食べるのは舟の民族の末裔だからか? 韓国クラブへ行く人はタイクラブへは行かず、タイクラブへ行く人は韓国クラブへは行かない理由は舟の民族と馬の民族の遺伝子の違いか? 等々の質問には 「ウーン」 と唸ってしまいました。 これらのご意見のすべてが、郷土安曇野を愛する思いから生まれたそれぞれの 「歴史ロマン」 であり、かってあったであろう古代安曇歴史空間の扉を開く貴重なキーワードであると思います。 安曇古代史仮説の拙稿が、今後展開されるさらなる研究や論議の 「きっかけ」 となったならば筆者としてこれ以上の喜びはありません。
 今まさに日本のみならず世界を取巻く社会情勢は混迷を深め、未来社会の前途に暗雲が立ちこめている観があります。 戦後日本は貧困の中から立ち上がり、馬車馬のごとく物質的豊かさを求め、その達成に向けて脇目もふらずに邁進してきたのですが、この幸せの青い鳥を求めて世界中をさまよった旅の果てに見たものとはいったい何であったのでしょうか? それはニューヨークの世界貿易センタービルが瓦礫と化した荒涼たる風景であり、日本政治経済のどうしようもない荒廃の風景ではなかったか?
 今、人々は疲れ果て、その彷徨の旅から故郷に帰ろうとしているように筆者には見えます。 かってこの旅の出発点にあったであろう、大和民族の底流に流れていた貧しくはあっても熱き情感に満ち、臥薪嘗胆の矜持に裏打ちされた誇り高き人格に彩られていた社会への帰郷です。 おそらく、安曇古代史仮説に寄せられた共感とはこの荒廃した物質世界から 「まほろばの世界」 に向けての望郷であり、回帰への願いに他なりません。 その共感の多くが年輩者からのものであったことが、それをよく物語っているように思います。 いつも言われることではありますが、幸せの青い鳥は我が家の窓辺に憩い、さえずっているのです。
(中)飛鳥と信濃の点と線
 今、筆者にはふたつの印象的な場面が脳裏に映っている。 ひとつは青雲の志を胸に郷関を後にし、大阪での勉学生活を始めた頃に訪れた奈良国立博物館での風景である。 押しボタンによりパネル表示された寺院に創建年代順に赤い豆電球が点灯する装置があった。 最初のボタンで日本列島にふたつの点灯が表示された。 ひとつは摂津難波の四天王寺、他のひとつは我が信濃の善光寺である。 善光寺が奈良に点在する幾多の古寺より古いとは想像だにしないことであり、驚きとともに、郷関を出た直後の思いと重なり、大いに誇りを感じた記憶がある。 薄暗い館内で点灯していた、ふたつの赤い豆電球の場面は今も鮮やかに目に残っている。 もうひとつの印象的場面は八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟を訪れた時に蘇った記憶であり、奈良飛鳥の地にある有名な 「石舞台」 と呼ばれる蘇我馬子の石室古墳の風景である。 ともに横穴式石室、規模は石舞台の方が数倍大きいが、天井に大きな一枚岩を置いた構造は同じであり、筆者に奇妙な類似性感覚をもたらした。蘇我馬子とは名前の通り、馬の民族であり、飛鳥古代王朝における蘇我氏の権力を確立させた大王である。 その馬子の子が蝦夷、蝦夷の子が大化改新で中大兄皇子(後の天智天皇)によって誅殺された蘇我入鹿である。 馬子は天皇ではないにしろ、大王と呼ぶにふさわしい権力者であり、日本史における 「蘇我物部の戦い」 が彼の名を有名にしている。 この戦いは大和の古豪族であり、自らも天神の子として神を擁護していた物部氏と渡来系の新興豪族であり、当時伝来した仏教を擁護する蘇我氏との勢力争いを背景とした 「神仏宗教戦争」 であった。
 筆者は法隆寺の近く、大和川が巻くように流れる王寺の高台に3年間ほど住んでいたが、蘇我馬子と物部守屋はこの付近の大和川を挟んで対峙した。 その戦役では蘇我軍の中に若き日の厩戸皇子(後の聖徳太子)も従軍している。 聖徳太子は蘇我系の皇子であり、その戦いの後、推古天皇の摂政として大臣馬子とともに仏教を基とした大和民族統治システムを創立することになる因縁がここから始まったと言ってもよい。 その戦場からほど近い、斑鳩の地に斑鳩宮(後の法隆寺)を建立した遠因もここに感じる。 そして、その戦いの戦局が不利になった時、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」 と誓願され、その後、戦局が有利に転じ勝利したことにより、前述の四天王寺が建立されたとされる。 一方、破れた物部一族の弓削氏からは、後に弓削道鏡が輩出してくる。 弓削道鏡とは、咲き匂う奈良の都と称された平城京が隆盛を極めた頃、孝謙天皇に呪術でとり入り、自らが天皇になろうとした極悪人として歴史に刻まれた僧侶である。 孝謙天皇とは東大寺大仏を建立した聖武天皇と光明皇后の娘として生まれた女帝である。 呪術的加持祈祷は舟の民族特有のアミニズム的風習であり、物部氏が舟の民族の末裔であることを深く印象づける。 仏教は馬の民族が、稲作は舟の民族が日本に伝えた最大の文化遺産であろう。 極論すれば、このふたつの文化遺産からその後の日本人の生活文化や精神文化のほとんどすべてを読み解くことも可能であろう。 また古代飛鳥王朝において、蘇我氏を馬の民族の代表とするならば、物部氏は逆に舟の民族の代表であり、飛鳥の地で行われた蘇我物部の戦いは安曇の地で行われた戦いと同じ構図であったといえよう。
(下)特別の意味をもった地
 「扶桑略記」 の仏教渡来の記述によれば、信濃善光寺の草創の年次は明らかにしえないが、欽明天皇の代に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇の代に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ、信濃国に送ったと記している。 さらに同書は 「善光寺本縁起」 を引用して、欽明天皇の代に、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇の代に信濃国、水内郡に移ったとしている。 また 「伊呂波字類抄」 には推古天皇の代に信濃国、麻績村へ如来が移され、さらに皇極天皇の代に、水内に移り善光寺が創建されたと述べている。 これらの記述は、いずれも伝説的であって、その是非をにわかに定めることはできないが、境内から出土した瓦は白鳳期のものであり、その創立は七世紀後半と推定されている。
 また善光寺信仰の勧進教化の説話には善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされ、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させるという話が遺されている。 これらの経緯からは仏教伝来草創期における摂津四天王寺と信濃善光寺に引かれた点と線がかいま見える。
 さらに八面大王の石窟がある宮城の地を地元の人は 「みやしろ」 と訓読みするが、音読みすると 「きゅうじょう」 となる。 古来、きゅうじょう(宮城)とは唯一、天子が起居する館の呼称である。 であれば、何故にこの地を宮城と呼び、大王蘇我馬子と八面大王の石室古墳が同じ構造であったのか。 推古帝、聖徳太子、蘇我馬子が創立した古代飛鳥王朝と古代安曇の地に引かれた点と線の痕跡をここに見る。
 安曇古代史仮説では、出雲と安曇に引かれた点と線をたどり、安曇の地にあった馬の民族と舟の民族の戦いを描いた。 しかし、どうやらその裏には飛鳥の地でくり広げられた馬の民族と舟の民族の戦いであった蘇我物部の神仏戦争や、摂津四天王寺と信濃善光寺にまつわる仏教伝来の点と線が複雑に入り組んでいるようである。 いずれにしても、みすずかるまほろば信濃安曇の地とは大和国家成立にとって、特別の意味をもった地であったことに疑いはないようである。 しかしながら歴史の闇は未だ多くの謎を秘めてこの地を深く覆っている。 今後の研究が待たれるところである。
 最後に松本市の74歳、K子さんからのお便りをご紹介し、この稿を結ぶこととします。
 ・・ 母が南安曇の生まれでしたので嫁にきてからも 「安曇はいいよ」 と言葉のはしはしに云っておりました。 「松本の土とはちがうよ、石ころもないしネ」 と畑の石をひろい 「土地の人情があったかいよ」 とも。 今、この十年ほど私はよく有明の温泉へ行くのですが、その間の景観がずい分変ってきました、こんなふうにもう数年変っていったらどうなるでしょう、私は眉間にしわがよってしまいます ・・・
 安曇野に生きた母と娘との 「とある日の情景」、その母の思いを背負って今を生きるK子さんの心情はかってあったであろう 「安曇湖桃源郷の風景」 を筆者にかいま見せてくれてあまりあります。 ありがとうございました。

2025.12.16


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