Linear ベストエッセイセレクション
魂のありか〜その存在証明
Turn

縁とは何か
 以下は、科学哲学エッセイ 「Pairpole(ペアポール)」 からの抜粋である。
人は素質で走る
 マラソン選手は1位から100何位までの順番でゴールする。 皆1位を目指して走るのだが、皆1位になれるわけでなく,1位はただの1人である。 同様に98位もまた1人しかいない。 ここで私はふと思う。 1位を目指して1位になれないとき、選手は自分の努力の不足を嘆く。 闘志が足りなかった、あのときこうすればよかった等々。 しかし、これらが1位になれなかった理由の全てかというとそうではない。 選手は各々の個性と能力を付帯しており、足の長い人、短い人、太った人、痩せた人等、体形は千差万別である。 これらは自分の責任かと問われれば、否と言わざるをえない。 選手は自分で選んで足を長くしたり、短くしているのではなく。 生まれた時点で、もはや決定されているのである。 それは両親の遺伝子DNAのなせる業であり、素質なのである。 つまり、素質は選手の両親によって決定されるのである。 私の独断と偏見で言わせてもらえば、これらが7割を決定している。 あとの3割が選手の努力であり、云々である。 であれば選手はもはや親の責任で走っているといえる。 1位になれないのは、しいてはその大半が親の責任であり、選手の責任ではない。 過度に落胆し嘆くことはない。 そして親の責任は、さらにその7割はそのまた親の責任であり、そのまた親の責任は、さらにそのまた親の責任であり ・・ この責任転嫁は永遠に続く。 つまり、あなたの98位は、先祖伝来のものであり、いわば走る前から決定されていたのである。 しかし、この98位は堂々たる98位なのであり、これはあなたしかなれない98位なのである。 私の子供たちは、「私は自由だ」、「俺は自由だ」 と公言してはばからない。 だから 「何にでもなれるし」、また 「何でもできる」 と言う。 しかし彼らの自由とは、それほど自由かと言えばそうではない。 その自由は98%の不自由さの中の2%の自由である。 それはマラソン選手と同様であり、あなたが今の時代に生まれたのは、長野県の松本市に生まれたのは、そしてあなたが私の家に生まれたのは、私の娘や息子として生まれたのは、背丈や顔がそのように生まれたのは ・・ 云々。 全て自分で選んで生まれたのではなく、全て決定されて生まれたのである。 つまり98%の不自由さの中の2%の自由なのである。 これを理解せずして自由などは論じられない。 しかし、2%の自由さの中に永遠を夢みているのか、私が以上のごとく論じてみても、彼らはそれでも 「私は自由だ」、「俺は自由だ」 と言っている。
 描いた世界は、今でいえば 「親ガチャ」 の説明を聞いているかのようである。 「Pairpole(ペアポール)」 が発刊されたのは平成11年(1999年)であって、遡る24年余も前になる。 その頃にして、すでに現代若者気質のかくなる兆候が始まっていたのである。 ここで取り上げたのは 「親ガチャ」 の背景にある 「人が生きるにおいて不可欠な縁(えにし)」 について、一考してみたかったからに他ならない。 つまり、人が 「そこに生きている意味とは何か」 ということである。
縁の構図
 以下は 第731回 「フロイトとユング」 からの抜粋である。
 心理学者のフロイト(1856 〜1939)とユング(1875〜1961)の違いはどこにあったのであろうか? フロイト心理学は 「潜在意識とコンプレックス」 を中心にした意識メカニズムを課題とし、ユング心理学は 「集団的無意識と共時性」 を中心にした意識メカニズムを課題とした。 フロイトは謹厳実直で陰的な性格を保持し、過去にこだわり、ユングは奇想天外な陽的な性格を保持し、未来にこだわった。 第228回 「鬱病と分裂病」 では、鬱病は過去にこだわることにより発症する精神病であり、分裂病は未来にこだわることにより発症する精神病であるという精神科医の話について書いた。 この対比から考えるとフロイトの分析方法は多分に 「鬱病的」 であり、ユングの分析方法は多分に 「分裂病的」 である。 過去時空から心理学を創始したフロイトと未来時空から心理学を創始したユングの構図を、物理学的に考えると相対論を創始したアインシュタインと量子論を創始したボーアの対比構図に置換される。 アインシュタインは多分にフロイト的であり、ボーアは多分にユング的である。 フロイトとユングが互いに相手を否定したと同様、アインシュタインとボーアもまた互いに相手を否定した。 アインシュタインは 「神はサイコロを振らない」 という有名な言葉でボーアを批難したが、ボーアの反論は 「神に向かってとやかく指図するのはやめなさい」 というものであった。 「月は眺めているときには在るが、眺めていないときに在るかどうかはわからない」 などというボーアの確率論的な量子論の考え方を審美的な自然観をもつアインシュタインは生涯に渡って受け入れることができなかった。 同様にフロイトはユングの明るく開放的で未来性に富んだ心理学は受けいれがたく、ユングはフロイトの暗く閉鎖的で発展性がない心理学を肯定できなかったのである。
 さらに言えば、フロイトの心理学は 「ペアポール宇宙モデル」 における時空を時間軸に沿って断面した時間が継続する因果律的な 「連続宇宙の世界」 の意識構造を表し、ユングの心理学は時空を時間軸に垂直に断面した時間が断裂した超因果律的な 「刹那宇宙の世界」 の意識構造を表している。
 フロイトの心理学が描く因果律的な 「潜在意識とコンプレックス」 の描像は、かくなる 「連続宇宙での精神風景」 であり、ユングの心理学が描く超因果律的な 「集団的無意識と共時性」 の描像は、かくなる 「刹那宇宙での精神風景」 である。
 以上の精神構造を、今課題としている 「縁」 をもって考えれば、因果律的なフロイトの心理学は 「過去としての親ガチャ」 の 「縁の構造」 を表象している。 曰く、「親の因果は子に巡る」 という図式である。 他方、超因果律的なユングの心理学は 「未来としての融通無碍」 の 「縁の構造」 を表象している。 曰く、「何ごとも生きてみなければわからない」 という図式である。
縁の総量
 とある場所で、とある 「思いの風景」 が想起されることがある。 その思いの風景がいつのことであったのか? 古い昔にあったことなのか? それとも私が生まれる前にあったことなのか? 判然としない。 前者は、心理学者フロイトがいう潜在意識としての因果律的な思いの風景であり、後者は、心理学者ユングがいう集団的無意識としての超因果的な思いの風景である。 それは一度も体験したことがないのにすでにどこかで体験したことのように感じる 「既視感(デジャブ)」 と呼ばれるような現象である。 縁の根底には、この既視感が横たわっている。 かくなる現象は、出逢った場所に限らず、出逢った人において、出逢った出来事において ・・ 等々。 さまざまな局面で発生する。 かってどこかで出逢った人であるかのような、かってどこかで出逢った出来事であるかのような感覚である。
 人生はこのような 「縁の総量」 なのではあるまいか? それはまた出逢った 「思いの風景の総量」 でもある。 芭蕉はその辞世において 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」 という句をのこした。 この句は亡くなる4日前に詠んだもので、芭蕉が残した生前最期の句といわれる。 今は旅の途中で病に臥しているが、まだ夢の中では、以前と同じく枯野を駆け回っているとする芭蕉の 「思いの風景」 が描かれている。 それは、日々旅にして旅を栖とした 「芭蕉の縁の総量」 であったに違いない。
 満たされた人生とは、言うなればかくなる 「縁の総量」 なのではあるまいか? 日々の生活の中に、さまざまな縁がダイヤモンドダストのごとく煌めいていることほど幸せなことは他にあるまい。 それは出逢った場所の中に、出逢った人の中に、出逢った出来事の中に、縁の総量の中から抽出された珠玉の 「思いの風景」 が映っているからに他ならない。
思いの風景
 詩人とは、縁の総量から抽出した思いの風景を 「描きて語らう者」 なのではあるまいか? 以下の2編の詩は 「夢みたものは〜立原道造のこと」 から抜粋したものである。 いずれも詩人であった立原道造の生活の中にあった縁が紡いだ 「思いの風景」 である。
  のちのおもひに / 立原道造
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
― そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
  夢みたものは / 立原道造
夢見たものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山並みのあちらにも しずかな静かな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざって 唄をうたっている
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘が 踊りをおどってる

告げて うたっているのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたっている

夢見たものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
 また以下の歌詞は、第874回 「井上陽水の世界〜なぜか上海」 からの抜粋である。 この歌詞の世界もまた井上陽水の生活の中にあった縁が紡いだ 「思いの風景」 である。
  なぜか上海 / 井上陽水
星が見事な夜です
風はどこへも行きます
はじけた様な気分で
ゆれていればそこが上海

そのままもそ もそ も もそっとおいで
はしからはしのたもと お嬢さん達
友達さそ さそ さ さそっておいで
すずしい顔のおにいさん達

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに

流れないのが海なら
それを消すのが波です
こわれた様な空から
こぼれ落ちたとこが上海

いまからまそ まそ ま まそっとおいで
ころがる程に丸いお月さん見に
ギターをホロ ホロ ホ ホロッとひいて
そしらぬ顔の船乗りさん

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに
海を越えたら上海
君の明日が終わらないうちに
 はじけた様な気分でゆれていれば 「そこが上海」 というのだが、「なぜ上海なのか」 は意味不明である。 以降、次々にイメージが現れては消えていく。 こうでなくてはならないというような拘束条件はいっこうに感じられない。 それどころか時間も空間も、さらには言葉さえも超越してしまっているかのようである。 まったくの自由な世界である。 作者である陽水でさえ時空間に浮遊しているかのようで、どこにもいてどこにもいない。 意図なき物語を、人はいかなる意図をもって、考えることができようか ・・ ただ感じるだけである。 このような作詞の世界は陽水独自のものであって、誰もがまねできるものではない。 それどころか陽水自身が自問してみても的をえた答えは返ってこないのかもしれない。 それは 「メロディに乗って彼方からやって来た」 というのが正直なところではあるまいか。
 縁の総量から生まれる思いの風景は、かくも豊饒なる 「曼荼羅の世界」 である。 その曼荼羅のどこに生まれ、どこに遊ぶかは、もろびとに与えられた自由な人生の賜なのである。
生き続ける魂のありか〜その存在証明
 アインシュタインの相対性理論からボーアの量子論への転換は、物質を主体とした物理学から意識を主体とした物理学への転換でもあった。 「新たな物理学への展望」 では、3人の最先端理論物理学者の視点から、かくなる 「物質から意識への展望」 を描いている。
 他方。 フロイトの潜在意識を主体とした心理学は、物質を主体としたニュートンやアインシュタインの物理学に相似し、ユングの集団的無意識を主体とした心理学は、意識を主体としたボーアの物理学に相似する。 フロイトは人間の顕在意識が無意識下にある 「潜在意識」 に左右されていることを明らかにし、ユングはさらにその潜在意識さえもあらゆる人間が共有化している 「集団的無意識」 に左右されていることを明らかにした。
 意識的想像は 「まったくの無から」 は生まれない。 想像の原点には、かって一度は想像した 「想像の元型」 のようなものがあって、ユングはそれを 「集団的無意識」 と呼んだのである。 縁の総量とは、この集団的無意識と等価であり、縁の総量から生まれる思いの風景とは、想像の元型と等価である。宇宙には 「意識の大海」 と呼ばれるような、あらゆるものの意識が集合されている大海が存在しているのである。
 それはまた、ドイツの哲学者、ライプニッツ(1646〜1716年)が提唱した 「予定調和」 の概念と等価である。 ライプニッツは、互いに個別な世界にいても 「同じ外界を見る」 のは想起する想像に対応関係があるからであって、これを 「予定調和」 と表現したのである。
 ここまでくると 「縁とは何か」 の解答が、おぼろげながら垣間見えてくる。 縁の根底に漂う 「体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる既視感(デジャブ)と呼ばれる現象」 は、かくなる 「集団的無意識」 としての 「想像の元型」 や 「予定調和」 に起因したものであって、その既視感こそが 「思いの風景」 の正体なのである。
 量子論では、物質としての身体が消滅しても、精神としての魂は存在し続けるとされている。 もしかかる予見が真理であるとすれば、前世で体験したかのように感じる既視感の存在は、その 「生き続ける魂の存在証明」 なのかもしれない。 「縁とは何か」 の探求が、めぐりめぐって、宇宙における魂の存在証明にいたるとは思いもよらないことであった。
 かって、構築した 「ペアポール宇宙モデル」 を読んだ関西学院大学社会学部教授の宮原浩二郎君は、世界がこの宇宙モデルのようであるならば 「安心して生きられる」 と感想を述べた。 このモデルが正しいとか正しくないとかではなく、「安心できる」 というところに依って立つ彼の哲学の基盤がある。 あるいは彼が感じた安心感とは、生き続ける 「魂のありか」 を見いだした安心感であったのではなかったか? 今となって、「ふと」 そう思えるのである。
他我問題の解消〜意識と物質の狭間
 哲学の最難問に 「他我問題」 がある。 他我問題とは 「他人の心をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。 例えば、友人と赤の交通信号を見ている。 そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか? あるいは、友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか?」 という問いである。 その答えは 「他人の心を直接に知る方法はありえない、なぜなら私は他者ではないからである」 となる。
 だが、2023年11月30日。 量子科学技術研究開発機構などの研究チームが、心の中で思い描いた風景や物体などのメンタルイメージを、機能的磁気共鳴画像装置で取得した脳の信号から復元する新たな技術を開発したことを発表した。 この研究結果を使用すれば、「他人の心を直接的に知りうることが可能」 となる。 もしこれが事実ならば、長らく解けないとされてきた哲学的難問に解決の道が拓かれたことになる。 それは思いもしないことであった。
 以下の記述は、第1778回 「現象とは何か〜哲学と物理学の邂逅」 からの抜粋である。
 この宇宙は主観とは別に客観的に存在しているのか? それともそのような 「客観的な宇宙」 は存在せず 「主観的な宇宙」 をただ客観的な宇宙と錯覚しているのか? この正誤は永遠に判定できない。なぜなら主観的宇宙が自らの死後もなお存続し続けるのかは自らが亡くなってみなければわからないからに他ならない。 同様に客観的な宇宙もまた自らの死後も存続し続けるのかも自らが亡くなってみなければわからない。 自分以外の他者が死んでも客観的な宇宙は存続しているではないかという主張は証明にならない。 そこには 「他我問題」 の壁が横たわっている。 他我問題とは他人の心をいかにして我々は知りうるかという哲学的な難問であり、結論から言えば 「他人の心を直接に知る方法はありえない、なぜなら私は他者ではないからである」 というものである。 つまり、自分以外の他者が生きている世界もまた私の主観的な世界であって、私は他者ではなく、亡くなった他者の主観を直接的に知る方法はないのである。 結局、堂々巡りの末に、「自らが死んでみなければわからない」 という、はなはだ曖昧模糊とした解決策に帰着してしまうのである。
 この宇宙が 「意識的現象」 として存在しているのか? それとも意識に関係なく 「物質的現象」 として存在しているのか? かくなる問いが 「自らの生前に解明できる」 とすれば、まさに 「画期的発見」 以外の何ものでもない。
死後の世界の解明〜魂の復元
 「生き続ける魂のありか〜その存在証明とは」 では、「体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる既視感(デジャブ)と呼ばれる現象」 から物質的自我が消滅しても意識的自我である 「魂」 は生き続ける可能性について論考した。
 そして、「他我問題の解消〜意識と物質の狭間」 では、「心の中で思い描いた風景や物体などのメンタルイメージを機能的磁気共鳴画像装置で取得した脳の信号から復元する新たな技術」 について述べた。 この技術を使用すれば、宇宙が 「意識的現象」 なのか、それとも 「物質的現象」 なのかを解明することができるかもしれないのだ。
 そうであれば、「死後の世界」 の解明もまた可能なのかもしれない。 しかり。 時空間に生き続ける 「魂の意識情報」 を抽出して、現実世界に復元させることができても 「不思議ではない」 のである。
(※)以下は蛇足ながら
 かくなることをいつもの 「ともがら」 と論じていたとき、話はついに 「あの世の所在」 にまで及んでしまった。 私があの世(天国、あるいは冥界 ・・ 等々)は、天上にあるのではなく 「君の横」 にあるのかもしれないと言うと ・・ 彼は、出来うるならば 「斜め後方」 にして欲しいと要求した。 私が、仏像であれ、観音像であれ、光背の 「後光」 がその方向から照射されているのは、「そのせいかもしれないな」 というと ・・ 「そうでしょう」 ということになって、ことは円満に落着したのである。

2023.12.07


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