Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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現象とは何か〜哲学と物理学の邂逅
 現象というメカニズムを哲学的に最初に探求したのは 「現象学を創始」 したオーストリアの哲学者、フッサール(1859〜 1938年)である。 フッサールは世界があると素朴に信じる日常の 「自然的態度」 から、純粋な意識の内面に立ち返り、そこにあらわれる現象をありのままに記述しようとした。 意識は常にみずからをこえて、意識の外へと向かう志向性を持っているが、フッサールは、その意識が志向する外界の実在性についての素朴な思いこみをいったん保留し、内面的な純粋意識の事実に立ち返り、「現象学的還元」 と呼ばれる方法で、意識の現象をありのままに見つめ、かくなる純粋意識から 「世界が構成される」 しくみを解明しようとした。
 以下の記載は 第373回 「現象と心象の境界」 からの抜粋である。
 物質と意識は 「Pairpole」 である。 物質は我々が目にとらえ、手に触ることができる 「現象世界の主役」 であり、意識は我々が目にとらえ、手に触ることができない 「心象世界の主役」 である。 哲学者、ウィトゲンシュタインは 「主体は世界に属さない、それは世界の限界である」 という独我論を提唱した。 この世界の限界とはどこにあり、しかして世界の限界とはいったい何を意味するのか?
 私の見る世界の視野に、私自身の眼は含まれない。 私の眼はながめる世界の視野の限界に位置しているというときの限界とは、世界を眺めている私自身の 「眼」 である。 この限界(境界)の両側には、いったい 「何が」 あるのか? この限界(境界)の向こう側は、物質を主役とする 「現象世界」 であり、限界のこちら側は、意識を主役とする 「心象世界」 であり、その境界面(限界面)に、私自身の 「眼」 が位置している。 換言すれば、物質と意識の 「Pairpoleの狭間」 に、私自身の 「眼」 が位置している。 解りやすく表現するために 「眼」 という肉体的器官を用いているが、哲学的表現をすれば、それは 「自己」 と言っても良いし、「自我」 と言っても良い。 つまり、私という自己は、物質で構成された現象世界と、意識で構成された心象世界の接点(限界点)に存在している。 私という 「自己の外」 に構築されている現象世界は科学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核は物理学である。 私という 「自己の内」 に構築されている心象世界は哲学の方法論で分析され、記述され、認識され、その中核 は心理学である。 私という自己の役割は、外に広がった現象世界と、内に広がった心象世界を繋げることで、ひとつの宇宙を構成することにある。
 物質を主役とする現象世界は、ニュートン、アインシュタイン、ボーア等々の物理学者たちによって探索され、また意識を主役とする心象世界は、フロイト、ユング等々の心理学者たちによって探索されてきた。 その探索結果から得られた両世界の諸事相は、カント、ニーチェ、フッサール、ウィトゲンシュタイン、ハイデッカー等々の哲学者たちによって統合されてきたが、その探索と統合の試行錯誤は、この不可思議な宇宙の片隅の一部の世界を解明したに過ぎず、気の遠くなる程の広大な未知領域が未だ手つかずにのこされている。
 ただひとつ、彼等の探索と統合の報告書を読み比べてみると、あることに気づく。 それは両世界の構造が、きわめて相似していることである。 ニュートンの力学はカントの哲学に、ボーアの量子論はユングの心理学に相似する。
 以上を考える時、この知的冒険エッセイの主題である 「意識が物質を発生させるのか? それとも、物質が意識を発生させるのか?」 という根本義の何たるかが見えてくる。 つまり、「意識に物質が宿るのか? それとも、物質に意識が宿るのか?」 という根本的命題である。 (2003.11.13)
 上記の稿を書いた時点で、すでにして、「宇宙は現象である」 とする量子論的物理学の帰結が、哲学的現象学の探求において垣間見られていたことがわかる。 その哲学的帰結が物理学的帰結と邂逅するために20数年の時間の経過が必要であったということである。
 この宇宙は主観とは別に客観的に存在しているのか? それともそのような 「客観的な宇宙」 は存在せず 「主観的な宇宙」 をただ客観的な宇宙と錯覚しているのか? この正誤は永遠に判定できない。なぜなら主観的宇宙が自らの死後もなお存続し続けるのかは自らが亡くなってみなければわからないからに他ならない。 同様に客観的な宇宙もまた自らの死後も存続し続けるのかも自らが亡くなってみなければわからない。 自分以外の他者が死んでも客観的な宇宙は存続しているではないかという主張は証明にならない。 そこには 「他我問題」 の壁が横たわっている。 他我問題とは他人の心をいかにして我々は知りうるかという哲学的な難問であり、結論から言えば 「他人の心を直接に知る方法はありえない、なぜなら私は他者ではないからである」 というものである。 つまり、自分以外の他者が生きている世界もまた私の主観的な世界であって、私は他者ではなく、亡くなった他者の主観を直接的に知る方法はないのである。 結局、堂々巡りの末に、自らが死んでみなければわからないという、はなはだ曖昧模糊とした解決策に帰着してしまうのである。

2023.07.01


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