Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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日本精神のゆらぎ〜伝家の宝刀
 日本の体制は、上から下まで不作為の作為に支配された 「集団的無責任体制」 である。 不作為の作為とは、問題が起きるのが分かっていながら手をこまねいて何もしないという作為をもった不作為である。 それは、「誰かがやってくれる」 であろうという自己責任回避の無責任体制であり、いつか 「神風が吹いてくれる」 であろう式の根拠なき希望的観測に頼った無責任体制である。 「責任は誰にもない」 という帰結が、この体制の帰結であって、帰着した結果については、「しかたがなかったのだ」 という諦観(諦念)によって総括される。
 かくなる体制は今も尚、脈々と息づいている。 その原因は 「決断するにあたいする哲学がないから」、「決断するにあたいする覚悟がないから」、「決断するにあたいする勇気がないから」 ・・ 等々列挙されるが、最も根源的な原因は、「手をこまねいて何もしないことこそが最上の策である」 とする暗黙裏に裏打ちされた 「事なかれ主義」 である。 それこそが日本古来の 「伝家の宝刀」 というわけである。
 それはまた 第2080回 で論じた川端康成の 「美しい日本」 と大江健三郎の 「あいまいな日本」 の狭間に明滅する 「日本精神のゆらぎ」 である。
 以下の記載は山梨県北杜市小淵沢町に位置する身曾岐神社を訪れた際に感じた所感 「水にながす」 からの抜粋である。 かくなる 「禊の精神」 もまた日本古来の伝家の宝刀であるとともに、「日本精神のゆらぎ」 に他ならない。
 昨年訪れたこの神社を再び訪れたのは、この神社が掲げる祭祀の明るさに引かれてのことである。 その明るさとは ・・ 身曾岐神社の身曾岐(みそぎ)とは 「きれい」 になることであり、古来日本人は何事も 「きれい」、「きたない」 を考え方の根本に据え、西洋の 「善悪思想」 と異なり、たとえ仕事で失敗しても、大きな災難が降りかかっても、ある期間、しっかりとみそいで、真新しく 「きれい」 になれば、また新たな人生を踏み出せると考える ・・ との前向きな姿勢に起因する。
 ひるがえればこれらの精神構造は日本古来から延々と継承されてきた伝統のようにも思える構造である。 日本社会で往々にして採用される 「水にながす」 という紛争解決策は、イスラエルやパレスチナで今もくり返される中東戦争の和平案には到底採択されるものではないであろうし、そもそもこの解決策の真価を理解できるのは、世界広しといえども日本人ぐらいのものではなかろうか ・・ それは日本人の最も善き精神構造でもありながら、また決定的に悪しき精神構造でもある。 どこか親鸞が提唱した 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」 という思想に通じているようにも思える。
 能楽殿を囲む池 には神霊に仕える鯉が棲んでいて、与える餌が 「神魚の餌 100円」 と書かれた台に置かれていた。 訪れた参拝者がその餌を池に蒔くと、瞬く間に大挙して集まってきた。 撮影を終えてから、私も同じように餌を蒔いて、しばし彼らにつき合い、その後、本殿にお参りして1年間の身曾岐をすませたのである。

2026.05.11


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