Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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寺田寅彦の風景〜懐手して宇宙見物
 「天災は忘れた頃にやってくる」 とは自然災害の恐ろしさは忘れた頃に再び起こるという戒めで、物理学者であり随筆家でもあった寺田寅彦の言葉とされている。 それとともに国家を脅かす敵として天災ほど恐ろしい敵はないことを説いている。 戦争は避けようと思えば人間の力で避けられなくはないだろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか容易に予知することもできない。 最後通牒も何もなしに突然襲来するのであるから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はいないと断じた。 さらに文明が発展すればすほどに、天災による損害の程度も増大することを充分に自覚して、平時から高度に発展する現代社会に対応した防護策を講じなければならないと警鐘を鳴らした。 事実の裏に隠された真理を見抜くその観察眼の確かさは敬服にあたいするものである。 経済成長と戦争に明け暮れる現代人の盲点を鋭く切り裂いた 「寺田寅彦の慧眼」、まさに畏るべしである。
 以下は第1854回 「頭のいい人と悪い人」 に記載した寺田寅彦の随筆 「科学者とあたま」 からの抜粋である。 そこには寺田寅彦が目指した 「知的探求」 の何たるかが垣間見えている。
 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。 人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたのちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。 頭の悪い人、足ののろい人がずっとあとからおくれてやって来て、わけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。 富士はやはり登ってみなければわからない。 頭のよい人は、多分に頭の力を過信する恐れがある。 その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」 かのように考える恐れがある。 まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。 これでは自然科学は自然の科学でなくなる。 一方でまた、自分の思ったような結果が出たときには、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
 しかして、寺田はその随筆の末尾を以下のように結んでいる。
 最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。 それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。 科学は孔子のいわゆる 「格物」 の学であって 「致知」 の一部に過ぎない。 しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。 芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。 そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。 理屈ではない。 そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。 これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人は、きっとうらやむべきすぐれた 「頭のいい学者」 であろう。 またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、またきっとうらやむべく 「頭の悪い立派な科学者」 であろう。 これを読んで何事をも考えない人は、おそらく科学の世界に縁のない 「科学教育者か科学商人の類」 であろうと思われる。 (昭和 8年10月)
 寺田寅彦は自らの観察姿勢を 「懐手して宇宙見物」 と表現した。 その風姿は物理学者として随筆家として独立自尊を貫いた躍如たる 「寺田寅彦の風景」 であるとともに、それはまた 「優雅なる異端」 として、かかる 「知的冒険エッセイ」 を書き続けてきた私自身の姿と何ら変わるものではない。

2025.07.07


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