Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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愚か者はかく語りき
 哲学者、ニーチェは 「ツァラトゥストラはかく語りき」 の中で神が死んだあとに出現するであろう 「末人(おしまいの人)」 の人間像を描いている。 それを転じて私は 第1039回 「末人とは獣人か〜仁義なき戦い」 で以下のように書いた。
 身の安全と安泰。 それは生きていくための基本的条件である。 それがなければ生きていけない。 だがその安全と安泰を得るために 「何のために生きるのか?」 という 「生きる意味」 を捨て去ってもいいわけはない。 生きる意味は、生きるために 「必要ない」 というのが現代人の通常の価値観であろうし、そもそも、すべての意味を、生きるに必要か必要でないかで考えるところに、現代人の特質が顕れている。
 この価値観に従えば、生きるに必要ないものは、すべて価値がないものとなる。 現代人が言う 「生きる」 とは、物質的に生存することを意味しているが、その物質的な人間が、生存するために最も重要視しているのが 「衣食住」 という物質的な機能である。 ゆえに、現代人は衣食住に最大の関心をはらっている。 他方、生きる意味は、それが無かったとしても生存が失われることはなく、逆にそれが有ったとしても、生存が保証されるものでもない。 ゆえに、現代人は生きる意味には多くの関心をはらわず、ときとして、いと易く捨て去る。
 生きる意味を捨て去る生き方とは、言うなれば、弱肉強食を信条とする獣のような生き方とそう大差はない。 哲学者、ニーチェが予言した 「末人」 とは、あるいは 「獣人」 なのであろうか? もし獣人であるとすれば、今後の世界は、生存を賭けた、信義も仁義もない戦いとなるであろう。 そこでは卑劣極まりない、あらゆる卑怯な戦法さえも用いられることになる。
 翻って鑑みれば、現代社会は虚偽と忖度が横行してはばからない社会である。 そんな生き方が推奨される社会ではそれが間違いであるとわかっていたとしても、人々はその則を逸脱することはしないであろう。 それは愚か者がすることであって、賢き者がすることではないからである。 公言される処世術とは、いかに愚か者にならないかの処世を示したものであって、そのためには 「こそこそ きょろきょろ おどおど」 と周りに気を配って朝から晩まで頭が休まることがない。 だがかくなる処世に終始していると、やがて虚無的で無感動な 「静かな暗闇の世界」 である 「心的死」 に至ることは、第1582回 「神は死に、しかるのち、心が死んだ」 で語ったことである。 「愚か者はかく語りき」 とはこのことである。

2022.01.27


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