Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 11 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2018.11.13 〜 2019.11.26
天然の力
 他力というともっぱら他者の力に頼ると解されてしまっているが、それは真の他力ではない。 科学的合理主義で統制された現代社会では、人は自己保存の法則に従って 「自らの都合で生きている」 のであって 「他者の都合で生きている」 わけではない。 往々にして人を動かすことが上手という人がいるが、それは自分の都合に合うように他者を動かしているのであって 「貴方の都合」 を考えているわけではない。 そのような人を他力と頼んでみても道はいっこうに拓けない。 真の他力とはそのような都合(思惑)から生まれる力ではなく、無私から生まれる力である。 言うなれば 「天然の力」 である。
そんなに急いでどこへいく
 あまりにさまざまな情報が飛び交って社会を交錯するようになると人は淡々とした変化少なき日常に満足できなくなってくる。 それは情報化社会の宿命であって時の流れが10年1日のごとくであった古き佳き社会にはなかった現象である。 変化激しき刺激に満ちた日々を生きることもまた面白き生活ではあろうが、これでは瞬く間に人生は終わってしまう。 ここは時の歯車を低速にシフトし人生を熟読玩味することが必要ではなかろうか。 言うなれば面白きことのない生活のすすめである。 そうかって流行った 「狭い日本 そんなに急いでどこへいく」 の標語のように。 変哲無き日々の中に面白きことを発見することもまた 「優れた能力」 なのである。
火野正平の風景〜ごめんね
 火野正平の唄う 「ごめんね」 は絶品である。 なぜってそれは火野正平が辿った波乱の恋物語そのものであって、出逢った哀歓が 「かつ浮かんでは かつ沈み かつ沈んでは かつ浮かぶ 浮き草」 のように漂っているからに他ならない。 かっては 「女泣かせの火野正平」 と浮き名を流した元祖プレイボーイも自称 「いい人」 に変身して今や御歳(おんとし)、69歳である。 寄る年波に逆らった、自転車で全国を旅する 「にっぽん縦断こころ旅」 では、お茶の間の人気者となって、今もなお老骨にむち打って 「球形の荒野」 を走り回っている。 それはまた、行く先々、津々浦々に散在する若き日の恋人たちにむかって 「ごめんね」 を行脚する 「お遍路さん」 のようでもある。 だがかくも 「長き不在」 を詫びる男も世間にそうざらにいるものではない。 やはり愛される男はどこかが違うのである。 とつとつと唄う 「ごめんね」 が胸を打つのは当然といえば当然の話である。
最大の資産はまた最大の負債でもある
 人間にとっての最大の資産は 「考える頭脳と思う心」 ではあるが、それは何のためのものなのか? 人間にとってこの世を 「つつがなく生きていく」 ことが最優先課題であることに誰しも異論なきところであろう。 であれば、最大の資産は人間がつつがなく生きていくためのものである。 だが時として考える頭脳と思う心が逆につつがなく生きることに大きな障害となってしまう。 空海の説く即身は 「想像と現実をひとつに統合する」 ことを意味するが、想像はともすると仮想に変質し、悪くすると妄想に陥ってしまう。 現実が妄想化してしまっては即身どころの話ではない。 迷妄の人生を生きることほど 「つらく かなしい」 ことはあるまい。 考える頭脳と思う心という人間にとっての 「最大の資産」 はまた使い方を誤ると 「最大の負債」 に転化することも胆に銘じて忘れてはならないのである。
現代若者気質〜まじっすか?
 現代若者気質を代表するものが表題にあげた 「まじっすか?」 である。 この言葉は現代社会の津々浦々で多くの若者から定常的に発せられる。 その用法は若者相手に何事かを掛け値なしに語った時に発せられる返事として使われる。 現代の若者は実在(リアル)としての 「実空間」 をあたかも仮想(バーチャル)としての 「虚空間」 のように感じているのであろうか? 「まじっすか?」 とは 「それって本当のことですか?」 という意である。 子供の頃からバーチャル世界のテレビゲームに慣れ親しんでいるうちにいつしか虚実が反転してしまったのかもしれない。 これもまた情報化時代特有の現象であろうが生物としては致命的な欠落症状である。 このままではその実存性において犬猫に遥かに及ばない生きものになってしまう。 「ボーっと生きてんじゃねえよ!」 とチコちゃんに叱られて喜んでいるようでは 「脱皮の道」 はいっこうに拓かれない。
危うきかな現代人
 情報化時代とは。 結局。 ここをさておき、あちらへと 「意識を拡散」 させ、何かを探そうとする時代であると総括される。 かくなる状況の変化は情報化時代が推進する 「情報メディア産業の隆盛」 であろうことは疑いがない。 それはテレビ報道、ウェブ発信、映画やドラマの配給、各種エンターテインメント等々の現状を鑑みれば難なく了解されよう。 問題はこのことによって我々のライフワークが 「自己をさておき」、他者をのみ偏重するものへと変化してしまったことにある。 かって縄文人が漆黒の森から瞬く星空を見あげながら 「自らの存在の意味」 を考え続けた 「自省の機会」 は今や痕跡もなく失われてしまった。 危うきかな現代人。 自らを失って、いったい 「何処へゆく」 というのか?
失われたおもしろき世界
 おもしろきこともなき世をおもしろく。 この世を生きる者にとって最大の能力は 「おもしろきことの発見(あるいは発明)」 ではなかろうか。 情報化社会の波に飲み込まれ、他者を見習うばかりで自ら考えなくなってしまった 「危うき現代人」 にとって、かくなる能力の再生は喫緊の課題である。 おもしろき といっても、それは現代人が言うような 「おもしろさ」 ではない。 それは縄文人が言うような 「おもしろさ」 であって、そのような おもしろさ はコンピュータの中に構築された 「デジタル世界」 をいくら探しても見つからない。 縄文人がしたように満天の星空の中にある 「アナログ世界」 を探さなくてはならないのである。
現代社会は天国なのか地獄なのか
 オーストリア生まれの文芸評論家、エーリヒ・ヘラーの 「・・・ 技術的進歩とは、地獄をもっと快適な居住空間にしようとする絶望的な試み以外のほとんど何物でもありません ・・・」 という科学的合理主義の描像は危うき現代人の様相を簡潔にして直裁に表現している。 現代人が絶賛してやまない科学的進歩が実は地獄をさらに快適な居住空間にしようとする 「絶望的な努力」 であると痛烈に批判したのである。 だがその批判を 「その通り」 と受け入れる現代人はいまだ希少であろう。 なぜならそれは 「現代社会より縄文社会の方が優れている」 ことを認めることに他ならないからである。 情報化が進み 「仮想的豊饒」 で囲まれた現代社会を天国と考えるのか、それとも身のまわりに広がる 「実存的豊饒」 で囲まれた縄文社会を天国と考えるかは人それぞれで自由である。 だがその行き着く先は慎重に熟慮を重ね検討されてしかるべきである。
禍福はあざなえる縄のごとし
 現代社会は病んでいる。 それは精神的な病である。 その原因が科学文明の成功がもたらした物質的な豊かさと物理的な利便性の獲得にあったとは何と皮肉なことであろうか。 かってその豊かさと利便性がなかった時代、人々の精神は青空に輝いていた。 科学的合理性の発展が必ずしも人々の心を豊かにすることには貢献しなかったのである。 考えてみれば、それは当然といえば当然の帰結である。 物理学の基本的で根源的な法則とは 「エネルギ保存則」 である。 この世のエネルギは次々に姿形を変えて生成流転するがその変化の前後でのエネルギ総量は増えることも減ることもなく 「一定に保たれている」 という理がエネルギ保存則の骨格である。 かいつまんで言えば 「この世は何かが増えれば何かが減ってその合計は変わらない」 ということである。 つまり、科学文明によってこの世が物質的に豊かになっても、その裏では精神的に貧しくなって 「帳尻を合わせる」 ことはエネルギ保存則からすれば必然の成り行きなのである。 何かが良ければ何かが悪いのは、日頃我々がよく経験することである。 私はそれを 「禍福はあざなえる縄のごとし」 という箴言をもじった 「禍福一体の理」 と呼んでいる。 この 「大真理」 の前にして人はもっと謙虚でなければならないのである。
幸せさがして
 科学文明の繁栄がもたらした現代社会の中で人は限りなく 「幸福」 をさがしている。 だがその幸福が現代社会の中に見つかる可能性は予想する以上に低いであろう。 それは科学文明がもたらした現代社会の物質的豊饒が、必ずしも人々の生活に相応の幸福をもたらさなかったことを考えれば了解されよう。 逆に物質的豊饒が約束されなかった縄文社会の人々の生活が相応の幸福に満たされていたことを考えればさらに深く了解されよう。 つまり、人の幸福とは物質的豊饒以上に精神的豊饒により多く依存しているのである。 ゆえに、物質的豊饒に満たされた現代社会のどこを探しても幸福は見つからない。 見つかるのは物質的豊饒の世界から離脱した精神的豊饒の世界の中であるのだが、そのことを物質的豊饒にどっぷり浸かっている現代人にはちっとも分かっていないのである。
いつ生きるの? 今でしょう
 「いつやるの? 今でしょう」 は東進ハイスクールの講師、林修氏が放った 「名セリフ」 である。 氏はこのセリフをもってその後の地位を築いたといっても過言ではない。 予備校生に放ったこの一撃は漫然と生きていた彼らの意識と脳髄に強い 「覚醒の衝撃」 をもたらすに充分であった。 その名セリフはまた 「過去・現在・未来」 と連結された線形時間が存在せず 「時は流れない」 とした私の時空概念を表象している。 過去は記憶で未来は想像で構築されている意識世界であって、リアルとしての運動で構築されている物質世界である現在とは本質的に異なっている。 であれば 「いつやるの?」 と問われれば、仮想としての過去や未来などの 「虚空間」 ではなく、 実在としての今の今である 「実空間」 としての現在でしかないのは当然のことである。 だがこの名セリフが受験戦争のための名アドバイスとしてのみ称賛されていてはその覚醒ははなはだ矮小である。 しかり、人が生きる根源に向けた 「いつ生きるの? 今でしょう」 に展開されてしかるべきである。 東大に合格する以上に 「生きることへの覚醒」 は喫緊の課題なのであるから。
涙のスキップ
 本来。 生きることは 「悲しいこと」 なのかもしれない。 いやそんなことはない。 生きることは 「楽しくあるべき」 という人もいようが、万物流転し諸行無常の世界であってみれば 「流れゆく哀感」 は尽きることがない。 「有は無から生まれ、無は有から生まれる」 という必然の 「Pairpole」 からすれば、いくら 「楽しく生きる」 を極めても、最後は 「泣きたいよ」 となるのは必定の帰結であろう。 そうであれば 「逆もまた真なりの理」 のごとく 「悲しく生きる」 を極めたときに、あるいは生きることは 「楽しいこと」 に反転するのかもしれない。 現代人は 「楽しく生きる」 を追い求め過ぎて、逆に 「生きる悲しさ」 に陥ってしまっているのかもしれない。 あるいは 「人は涙を流しながらも笑顔でスキップするように生きていく」 ものなのかもしれない。
眠らない惑星
 インターネット社会ではさまざまな情報が地球上を所狭しと猛烈な速度で駆け回る。 物理的な世界と異なって情報世界は距離の制約がないだけにその速度は 「無限大」 に近づいていく。 かって高度経済成長下での東京は 「眠らない街」 と呼ばれたが、今や地球そのものが 「眠らない惑星」 になってしまったようである。 よもや達成されることはないと思っていた 「世界はひとつ」 という標語は今まさに現実になろうとしている。 それは人類がもった歴史の中では空前にして未曾有の出来事である。 かくなる達成が 「何を意味するのか」 を考えなければならないのであるが、達成を成し遂げた当の人類そのものが事の次第を量りかねている。 達成された世界は 「豊饒の大地」 なのか? それとも 「球形の荒野」 なのか? 問えども眼前に広がる空漠の大地は何もこたえてはくれない。
大いなる空白
 インターネットが創りだした 「眠らない惑星」 に特段の内実は存在しないであろう。 地域を失った全体とはいったい何を意味するというのか? さまざまな色を失った世界は 「大いなる空白」 でしかない。 そこにあるのはやはり 「球形の荒野」 である。 鵜飼い舟が浮かぶ長良川もなければ、こぶし咲く北国の春もない。 あるのは無味乾燥した空漠の虚無である。 この果てしない荒野を人類はいったいどのように開拓できるというのであろうか?
細部が失われた全体
 インターネットが創りだした 「眠らない惑星」 に特段の内実は存在せず、地域を失った全体の世界とは 「大いなる空白」 であって、そこに存在するものは 「無味乾燥の虚無」 である。 達成された 「世界はひとつ」 はグローバルスタンダード(世界標準)の名のもとに構築された巨大な経済システムであって、それを人類幸福のための 「世界はひとつ」 に置きかえることは、はなはだ浅慮であって、その思考は錯誤の道に迷い込んでしまう。 人類個々人はそれぞれ 「唯我独尊の顔」 をもっているのであって、それを金太郎飴のごとき 「どこを切っても同じ顔」 であるような 「世界標準の顔」 に代えてみても 「人間としての実存」 が得られないことは明白であろう。 無味乾燥の虚無とは、言うなれば、その独尊の顔を世界標準の顔にしようとするようなものである。 「細部は全体であり、全体は細部である」 とするフラクタル宇宙の構造法則からすれば 「地域を失った全体で構成されたインターネット社会」 とは 「細部を失った全体で構成された宇宙」 のようなものであって存在そのものさえ危うい状態にある。
笑えない惑星
 インターネットによって達成された 「標準化された全体」 とは言うなれば可もなく不可もない白紙のような存在である。 それは化石のように味気ない。 そのような化石を所有したと自慢してみても、心はすきま風が吹きぬけるだけで、何ら満たされることはない。 だがそれを分かってか分からずか 「かくなる所有」 を自慢する 「裸の王様」 があとをたたない。 これでは地球は 「眠らない惑星」 どころか裸の王様が所狭しと闊歩する 「笑えない惑星」 に逸してしまう。
このろくでもない、すばらしき世界
 間違いはどこまで行っても間違いであって反転することはない。 だが現代社会ではそれが反転してしまう。 それは国家間の交渉しかり、個人間の紛争しかり ・・ しかりである。 かって 「村内の論理」 と呼ばれるような 「ごく狭い領域に限って通用する」 かくなる反転もあるにはあったが、それが 「グローバルな領域にまで拡大する」 と冗談と笑っているわけにもいかなくなる。 間違いだらけの村は許されることがあっても間違いだらけの国は許されない。 さらに拡大して 「間違いだらけの地球」 になる前に改めないと大変なことになる。 米国俳優、トミー・リー・ジョーンズが演じる地球調査官 「宇宙人ジョーンズ」 が活躍する缶コーヒー BOSSのCMはこれらの 「間違い」 を宇宙人の視点で指摘していて考えさせられる。 毎シリーズともため息まじりでみているが 「このろくでもない、すばらしき世界」 というエンディングタイトルバックによって思いはかろうじて救われる。
期限の消滅
 「いつ生きるの? 今でしょう」 からすれば、生きるのは過去でも未来でもなく今この時である。 その今の今の連続がその人の生涯を構築することからすれば目指すものは 「その今を楽しむ」 ことに尽きる。 仮に明日に死が訪れようと、今の今は、こころ安らかにして面白く生きることに 「専念する」 だけで事足りているのである。 もとより生身の体であってみれば確実な未来など保証される者などこの世には存在しない。 であれば時間には 「これといった期限」 など存在しない。 いつまでにやるという 「未来の期限」 も、いつまでにしたという 「過去の期限」 も、ともに存在しない。 もし期限というのであればそれは 「今の今である現在」 である。 ゆえに 「いつやるの? 今でしょう」 という警句がぼんやり生きていた聴衆の脳髄に予想外の覚醒をもたらしたのである。
空海と最澄〜刹那と連続
 結局。 生きるとは今の今である現在、即ち運動をともなった実在である 「刹那の世界」 に生きることである。 「いつ生きるの? 今でしょう」 を描いた期限の消滅にして、「存在とは既にして時間である」 を描いた存在の時めきにして、「存在と時間の狭間」 を描いた永遠は瞬間にありにして、人が生きる実存とは今の今である刹那の世界にあることを高らかに主張している。 過去や未来で構成される連続の世界はその背景として描かれているに過ぎない。
 真言密教を創始した空海が唱えた求道の精神 「仏として生きる」 とはかかる刹那における動的存在者(存在の時めき)を述べたものであろう。 他方。 顕教に殉じた最澄が唱えた求道の精神 「仏に向かって生きる」 とは背景である連続における静的存在者を述べたものであろう。 それはまた 「思いの力を信じた空海」 と 「理の力を信じた最澄」 の違いであろう。 ふたりが対峙した 「顕と密の狭間」 とは、あるいは 「連続と刹那の狭間」 であったのかもしれない。
考えない工夫
 「仏として生きる」 を極めた空海が求めた 「思いの力」 とは単純に言えば 「そう思う」 ことである。 だがその思いは中途半端なものであってはならない。 自らを信じることはそう簡単なことではないのである。 それを願う仏教者が寝ずに経文を幾100万回唱え続ける難行苦行がその様相を物語っている。 空海が成した即身 「仏として生きる」 とは、頭で考えてできるものではない。 骨身にしみるほどに自らにたたき込まなければ実現しない。 道を求めて彷徨した若き日の深山幽谷での過酷な修行はそのためのものであった。 頭脳に勝る現代人はすべての理解をその頭脳から発する認識で行おうとする。 情報化時代に至ってその傾倒の度合いは鰻登りの勢いであるが、すべての理解を頭脳で処理しようとすれば、いずれはノイローゼに陥ることは必然の帰結である。 妄想は妄想を生みとどまることなく拡大し、やがてはその身を覆い尽くしてしまうであろう。 笑えない冗談のような話ではあるが、現代人は今や 「考える工夫」 をするよりも 「考えない工夫」 をしなければならないのである。
思いの力〜正念と信心
 思いには正念と邪念がある。 その2つの思いが入れ代わり立ち代わり心中に訪れる。 人間であってみればいたしかたがないことではあるが、邪念ばかりではその者の心は自壊してしまう。 それを回避するのが正真正銘の正念である。 同様に信心と迷心が入れ代わり立ち代わり心中に訪れる。 人間であってみればそれもまたいたしかたがないことではあるが、迷うばかりではその者の心は自滅してしまう。 それを回避するのが正真正銘の信心である。 空海が求めた 「仏として生きる」 ための 「思いの力」 とはかかる正念と信心であったかと思われる。
誇り高き人権宣言〜天上天下唯我独尊
 釈迦が言ったとされる 「天上天下唯我独尊」 とは空海の求道法としての 「仏として生きる」 を実現するための 「人格モデル」 であったのではあるまいか? 漠然と仏として生きると思ってみても具体的にイメージできるモデルがなければ思いようがない。 釈迦は思ったに違いない。 この世を生きることは 「この世を創ること」 であると。 そのためには眼前に広がる現象世界に意識が拘束されてはならず、常に自らが 「こう思う」 ことが許容される絶対的な自由意思が確立されていなければならないと。 言うなれば 「天上天下唯我独尊」 とは、いかなる人であっても 「この世の主体者である」 ことを衆に知らしめるために、釈迦が発した 「誇り高き人権宣言」 であったのかもしれない。
東北大震災から8年〜喪失感の核心
 東北大震災が起きたのは8年前の3月11日であった。 日本にとってそれからの歳月は大きな喪失感を背負った 「失われた8年間」 でもあった。 その後も各地で地震や風水害が頻発。 今や日本列島はさながら 「被災列島」 のごとき様相を呈している。 背負った喪失感は東京オリンピックの招致ごときの祭事では埋まらない。 勿論、さまざまな復興事業や給付金をもっても埋まるものではない。 もとより経済的成長を声高に連呼し続ける行政府の諸施策でも埋まらない。 なぜなら、それらは多くの被災者が求めているものではないからである。 もとより 「声なき声を聴く」 ことは古来より国家運営の要である。 その声に耳を傾けないかぎり 「ゆく道」 はさらなる迷路に踏入っていくばかりである。 東北大震災が我々にのこした喪失感とは巨大な地殻変動の中で垣間見た脆くも崩れ去っていった物質文明の姿ではなかったか? 実現した物理的利便性や物質的豊饒がこれほどあっけなく消滅することなど思いもよらなかったのである。 作りだした幸福とはいったい何であったのか? 喪失感の核心とはそのことである。
空海と陽明の同期性
 真言密教を創始した空海が提唱した 「即身(想像と現実の統合)」 と陽明学を創始した王陽明が提唱した 「知行合一(知と行の合一)」 は結局、同じことを述べていることになる。 論旨を整理すれば 「想像=知」、「現実=行」 ということになる。 知は多く想像であり、行は多く現実である。 さらに大意で整理すれば、想像と知は 「意識性」 であり、「無形」 であり、「バーチャル」 である。 他方、現実と行は 「物質性」 であり、「有形」 であり、「リアル」 である。 総括すれば 「この世」 は意識のみにあらず、物質のみにあらず、無形のみにあらず、有形のみにあらず、バーチャルのみにあらず、リアルのみにあらずということになる。 両者は一枚の紙の裏表のような構成であるからして物質世界と意識世界を別々に分離してとらえることができないのは必然の成り行きである。 同様に物質世界と意識世界が鏡像のごとく似かよっていることもまた必然の成り行きである。
これでいいのだ
 空海と陽明の同期性はさらに続く。 空海の求道法である 「仏として生きる」 はまた陽明の求道法である 「心即理」 に一致する。 仏として生きるとは人間は本来仏であって仏に成ろうとあれこれ考えずとも仏として仏らしく生きれば 「それでいい」 とする大きな意識跳躍をともなう超越的な教えである。 同様に 「心は即ち理である」 とする心即理は人間は生まれたときから心と理は一体であって心があとから付け加わったものではなくその心が私欲で曇っていなければ 「心の本来のあり方がおのずと理と合致する」 とするこれまた大きな意識跳躍をともなう超越的な教えである。 両者の教義をひとことにまとめれば 「そのままでいい」 ということに尽きる。 どこか漫画家、赤塚不二夫が生前に口癖のように放言していた 「これでいいのだ」 と通底で一致することに奇妙な感懐を覚えるのは私だけではあるまい。
最高のスキル
 この世を 「このろくでもないすばらしき世界」 と断言するサントリーの缶コーヒー 「BOSS」 のキャッチコピーはまた、維新の英雄、高杉晋作の 「面白きことのなき世を 面白く」 という人生観に通底で一致する。 だが 「このろくでもない世界」 を 「素晴らしい世界」 にするためには 「尽きぬ想像力」 と 「弛まぬ努力」 が必要不可欠である。 その想像力と努力はまた 「面白きことのない世界」 を 「面白くする」 ことにおいても同様に必要不可欠である。 この世を生きるにおいての 「最高のスキル」 というのであれば、かくなる想像力と努力であろう。 それ以外は2次的なスキルであって 「あってもなくても」 どちらでも構わない。
宇宙とは仕組みである
 「過去と未来は現在に含まれている」 とする構造は 「時間の重層的構造」 を述べ、「細部は全体であり全体は細部である」 とする構造は 「空間の階層的構造」 を述べている。 「時間も空間もない世界」 とは、重層する時間と階層する空間で構成された 「Pairpole 宇宙」 の風景である。 「Pairpole 宇宙モデル」 ではさらに還元して 「宇宙とは仕組みである」 という概念に昇華させた。
作用と反作用
 「作用と反作用の法則」 については物理学を学び始める者がまず最初に教えられる基礎中の基礎である。 「手で壁を押したとき(作用)手もまた壁から同じ力で押し返される(反作用)」 はあまりにあたりまえの現象であって、法則などと教えられるまでもないことである。 だがその 「深い意味」 を理解するのはずっと後のことである。 私の物理学は高校入学と同時に信州大学の理学部を卒業して赴任してきた新進気鋭の先生の授業から始まった。 山岳部の顧問をしていて頼りになる兄貴といった風貌をしていた。 その兄貴が曰く 「街を歩いていて “ 眼をつけた ” と難癖をつけられることがあるが、難癖をつけた方もまたこちらに “ 眼をつけた” のであって非難されるにはあたらない。 作用と反作用とは、そういうことです」 と。 その絶妙な例え話の中に、私は得も言えぬ 「深遠な宇宙」 を垣間見たことを今も覚えている。
科学の敵ナンバーワン
  「科学の敵ナンバーワン」 という異名をもつオーストリア生まれの科学哲学者ポール・ファイヤアーベント(1924〜1994年)は、自らを科学の 「アナーキスト」 であり、「ダダイスト」 であると表現した。 彼は死の直前に自伝を書きあげている。 1995年に出版されたその自伝の題名は 「Killing Time (時殺)」、意訳すれば 「ひまつぶし」 である。 その最後を 「愛が人生のすべて」 と結んだ。 「愛と個人的な理解のほうがはるかに重要だ」 とする自らの主張を裏打ちするかのように 「私の大好きな活動、それは妻のために皿洗いをすることだ」 というコメントとともに、皿で一杯になった流しを前にしてエプロン姿で、にんまりと笑っている写真がのこされている。 それは希代の反科学哲学者の面目躍如たる 「辞世の風景」 であった。 波瀾万丈の人生を経て到達した世界の極北が 「妻のために皿洗いをすること」 であったとは、凡人では到底にして行き着き難き、科学の客観的真理を超えた先にある反科学哲学者ファイヤアーベントならではの 「最高の境地」 であったに違いない。
天網恢々疎にして漏らさず
 科学的合理主義万能への喧噪が始まった250年前にドイツの文豪、ゲーテが予言した通りに現代はすぐれた頭脳、理解の早い実用的な人間のための時代であって、たとえみずからは最高度の天分を有さずとも、ある程度の器用さを身につけているだけで衆に抜きんでると思っているようである。 それを現代風の表現に訳せば 「お調子者の時代」 ということであろう。 それは底の浅い人間ならではの思惑であって 「さまざまな試み」 はやがていつか破綻してしまうであろう。 科学的合理主義のあまりの成功に酔いしれ増上慢に陥った人間たちは、この世のすべてが人智をもってどうにでもなるかのごとく考えているのかもしれないが、人智をもってどうにかなるのは 「ほんのわずか」 などうでもいいような部分においてのみである。 その 「ほとんど」 は人智を超えた 「天の計らい」 であってどうにもならない。 「天網恢々疎にして漏らさず」 の喩えのごとく、かくなる 「天の計らい」 はあまねく宇宙全体に満ちている。 人智をもって策などめぐらすことなどもとから必要ないのである。
井の中の蛙は大海を知らず
 哲学者ニーチェや文豪ゲーテは 「科学的合理主義が行き着く先の世界」 を大いなる不安と危惧をもって予測した。 だが失望するには及ばない。 その世界もまた宇宙全体からみれば 「あるひとつの宇宙の中のささいな出来事」 にすぎないのであって、よしんばその宇宙が消えてしまったとしても、多世界宇宙解釈における宇宙から考えればどうといったことはないのである。 しかるにこの世の喧噪は何たることであろうか? かって、身のまわりの 「大変だ大変だ」 は日本全体にとっては 「それほど大変なこと」 ではなく、世界全体にとってみれば 「どうでもいい」 ことであると書いたことがある。 だがその世界全体が含まれている 「ひとつの宇宙が消えた」 としても何らも問題は生じないのである。 これらの多世界宇宙構造を解明する 「最先端量子論物理学」 など知ったところで金になるわけでもなし意味がないとする 「経済至上主義」 に汚染され尽くした現代社会の様相はあたかも 「井の中の蛙は大海を知らず」 の 「蛙の世界」 のようにも観えてくる。 意味がないのはあるいは経済至上主義の世界なのかもしれないのだ。
愚か者の弁明
 目先のことばかり考えて生きていて 「やがて行き着く終着点」 でいったい人間は何を考えるのか? それでよかったと考えるのか? それとも大いなる徒労であったと考えるのか? 現代社会の様相を鑑みれば、やがて行き着く先を考えて生きる者よりも、目先のことだけ考えて生きる者の方が大勢を占めるであろう。 理由は多々ある。 変化が激しい現代社会では先を考えることができない。 科学技術が発達した現代社会ではあれこれ考えたところで人間がやれることはたかがしれている。 見つからない未来の夢を探すよりも可もなく不可もない現代社会の現実の中でおもしろおかしく生きたほうが楽である。 等々。 どの理由も 「かくありなん」 とうなずかざるを得ないものばかりではある。 それがゆえに行き着く先のことを考えて生きるなどは 「愚か者」 のすることだとの帰結に至っているのである。 以下の記載は論語から引用した 「愚か者の弁明」 である。 人生の究極の目的である 「生きる意味」 を探して生きてみてもその途上で死んでしまったのでは徒労ではないかとの弟子の疑義にこたえて孔子は 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 と諭した。 意味は 「朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない」 というものである。 目先のことばかり考えておもしろおかしく生きる現代の賢人はこの孔子の言葉をいかに聞くのであろう。 しかして 「愚か者」 とはいったいどちらなのか?
つれづれの日々は尽きない
 平成という時代は今日で終わり、明日からは令和である。 時代は人々の思いを乗せて急ぎ足で通り過ぎていく。 去りし日はかくてありなん、しかして来たる日もまたかくてありなむ、行き交う 「つれづれの日々」 は尽きることがない。 嗚呼! 人生は素晴らしきかな。
右脳の達人
 人間の知能が考え得る科学的法則の大半が発見し尽くされた今、「科学は終焉した」 と言われている。 実のところ科学は終焉してしまったのであろうか? 畏敬する物理学者、リチャード・ファインマンは物理学をチェスに譬えて 「我々はいったん基本的なルールを覚えてしまっても、まだその帰結を永久に探求することができる」 と語っている。 さすがに 「右脳の達人」 であって、その着想は常人の発想をもっては遠く及ばない。 ファインマンの意味するところを私流に説明すると以下のようである。 たとえ将棋のルールが完成されたからといって将棋そのものが終わったわけではない。 それどころかそのルールを使って行われる戦いは永遠に尽きることがない。 戦っても戦っても新たな棋譜は次々と生み出され、新たな名人は途切れることなく登場する。 であれば、将棋のルールを科学の基本法則に置きかえ、そのルールを使った将棋戦を宇宙の探求に置きかえ、その論旨に 「等価原理」 を適用すれば、「科学の基本法則が発見され尽くされたからといって、宇宙の探求そのものが終わったわけではない」 という論理が導き出される。 つまり、科学は終焉したわけではないのである。 以上の論理は何も将棋やチェスや宇宙の探求に限ったことではなく普遍的に適用される。 例えば、「基本的なビジネスモデルが考え尽くされたからといって、ビジネスそのものが終わったわけではなく、そのビジネスモデルを使ったビジネスの営為は永遠に途切れることはない」 等々。 ファインマンの右脳から発せられる直観にはかくこのような普遍性が内蔵されている。 天才たる所以である。
人に過酷な社会〜便利さの代償
 現代社会は便利ではあるが 「人に優しい」 とは言えない社会である。 科学文明の発展は確かに社会を豊かに便利にしてくれたがその 「文明の利器」 である自動車を暴走させて幼き子供の命を奪ったり、仕事の効率アップであったはずのコンピュータが、ともすると労働者を過酷な仕事へと追いつめ、ついには自死に至らしめる。 文明の利器も人間がその機能を理解して使っているのであればまだしも、利器の機能が高度に複雑化して人間の理解力を超えて 「何がなんだか解らない」 ままに使うとなれば、もはや利器どころか 「凶器」 である。 そんな凶器が巷に満ちあふれている社会など 「人に過酷な社会」 などという域を越えて、もはや 「人に危険な社会」 と言わざるを得ない。
最澄と空海〜知識と実践の狭間
 仏になろうとして生きた最澄。 仏として生きた空海。 両者はともに仏法の奥義を探求した求道者である。 だがその道は似て非なるものであった。 最澄は 「仏法の理想」 を求め、空海は 「仏法の現実」 を求めた。 理想と現実の差は天と地ほどもある。 両者が盟友であるとともに根本では最後まで理解し得なかったところはこの理想と現実の違いであったであろう。 それはまた学識と知恵の違いでもある。 学識に優れた者と知恵に優れた者は自ずから生きている世界が異なる。 学識に優れた大学教授が優れた知恵が求められる会社社長になれるものでもない。 言うなれば、最澄は大学教授のようにして、空海は会社社長のようにして仏法の奥義にアプローチしたのである。 結果、最澄が大学教授としての知識を重んじ、空海が会社社長としての実践を重んじたのは必然の成り行きであったであろう。 依って、後学として習得すべきは、かく両雄が開拓した知識と実践をいかにして 「ひとつに融合する」 かにかかっている。
即身の極意とは
 即身の極意は 「何も考えないこと」 にある。 「大いなる秘術」 とはそのための工夫である。 人間は有史以来、考え続けてきた。 その結果として現代社会がかくこのように存在しているのである。 考えることは人間にとっては 「最大の武器」 であるとともに、また 「最大の凶器」 でもある。 武器は身を守るためのものであるが、凶器は自らを傷つけるためのものである。 武器であり凶器でもあるという2面性こそが 「考えることの特異性」 である。 しかしてその武器と凶器の狭間をいかに制御するかが 「万物の霊長」 と尊称される人間に託された天の配剤なのである。 しかしながら現代社会の様相をつぶさに鑑みれば 「考えることの凶器」 が 「考えることの武器」 を凌駕しつつあることが観えてくる。 これを放置すればやがては人間自らが自らを滅ぼしてしまうであろう。 それを予知したがゆえに空海は考えることを停止させ 「仏として生きる」 という即身への道を決断したのであろう。
何も考えない何もしない
 即身の 「何も考えない」 という心の働きから 「何もしない」 という身の働きが導かれることは必然の流れである。 「心身合一」 を標榜する即身の主旨からすれば、陽明学の祖、王陽明が標榜した 「知行合一」 に一致することはまた 「理の当然」 であろう。 即身に至る道は心の内で 「何も考えない」 ことに徹するだけでなく、身の外で 「何もしない」 ことに徹することが車の両輪のごとく肝要となる。 何も考えない何もしないでは現代人からすればさらに馬鹿げたことに感じられて 「もはや思考は停止する」 であろう。 だがそれこそが 「大いなる秘術の核心」 なのである。
経済原理から生存原理への転換
 先日大阪で開催された 「世界経済に関する首脳会合G20」 では世界の90%の経済を司る主要20カ国の首脳が一同に会した。 世界の90%の経済活動が20カ国で占められるとは世界もそう大きなものではない。 だがそこで話し合われた 「あれこれ」 が従来の経済原理から逸脱してきていることは気がかりである。 「いいものを作れば売れる」 という長く続いた経済原則が通用しなくなってきた様相が垣間見えてきたのである。 代わって台頭してきた原則は 「経済とは弱肉強食を基とした支配関係である」 とする生存原理への転換である。 つまり、G20で話し合われた内容は互いの経済原理についての 「あれこれ」 ではなく、互いの生存原理についての 「あれこれ」 であったのである。 その会合を主導したアメリカのトランプ大統領がことあるごとに発する 「アメリカファースト」 の主張がそのことを能弁に語っている。
地図を失った旅
 世は参議院選挙の舌戦のさなかではあるが隣国、韓国は日本からの輸出規制措置に関する優遇国指定が解除されたことで喧噪のさなかにある。 世は総じてかくこのような味気ない風情のオンパレードに終始している。 現代人はいったい 「何を求めて生きているのか?」 考えても何も浮かんでこない。 こないほどに世界は退廃に逸してしまったのか? あるいは、それは、ずべてをやり尽くした後に到来する 「弛緩した気分」 とでもいうのか? それとも、刺激に麻痺した脳髄が何も反応しなくなってしまったのか? 地図を失ってしまった旅はもはや放浪である。 これではバタバタあがいてみても 「下手な考え休むに似たり」 のごとく何ら事態は打開されることはない。 ただ立ち尽くすのみである。 よしんば、軽妙安易に解決策らしきものを作り上げて実行してみても、それは気休めであって、あとには徒労が待つばかりである。
日陰はやがて日向になる
 長く続いた価値観が失われ、新たな価値観が生まれるとき人は何を為すべきなのか? 失われた価値観を信じて生きてきた者にとって事態は憤懣やるかたない。 強烈な挫折感に苛まれるであろう。 かって日本人は太平洋戦争前の価値観が敗戦とともに一夜にして失われ、新たな価値観への転換を余儀なくされた経験をしている。 その際に感じた虚しさとはあるいはそのようなものではなかったか? 歴史はかくこのような変遷を繰り返して今に至っている。 つまり、価値観には絶対はありえず、おしなべて相対である。 物事は生々流転し栄枯盛衰は世の習いである。 思い返せばそれこそが 「陰陽 Pairpole の核心」 ではなかったか。 であれば価値観が180度逆転してもそう驚くにはあたらない。 それは必然の成り行きであって 「日陰はやがて日向になる」 のは宇宙の内臓秩序なのである。
人が生きるとは世界を創ること
 人が生きるとは 「自らの世界(宇宙)を創る」 ということである。 人が生きるとはただ単に大金持ちになるため、大資産家になるため、有名人になるため、権力者になるため ・・ では生きる本筋がわかっていないといわれても仕方がない。 それどころかそれらは人としての卑しさを吹聴しているようなものである。 そんなものを求めて生きている人だらけの国にまともな希望など生まれるはずもない。 当然にして希望なき国に未来などはない。 それどころかそんな国は一朝にして無くなっても不思議ではない。 さらに高じて地球全域が生きる本筋が分からないような国々で埋め尽くされてしまっては、もはや人類に明日はない。
人生の珠玉とは
 人が自らの世界(宇宙)を創るとはいかなることか? 巷では人物名を冠した 「〇〇の世界」 と通称されることが多々ある。 〇〇の世界とは〇〇という人物が自ら創りあげた世界ということである。 司馬遼太郎の世界、ピカソの世界、石原裕次郎の世界 ・・ 等々、列挙にいとまがない。 そのどれもに創りあげた人物のゆるぎない人格的存在感がある。 その存在感はそれは創った本人が自ら覚悟し納得して貫いた生きる本筋の見事さである。 それこそがかけがえのない 「人生の珠玉」 であってその光彩は永久に消えることがない。
2つのライフワーク
 私は2つのライフワークをもっている。 ひとつは 「知的冒険エッセイ」 という散文エッセイの連載。 他のひとつは 「信州つれづれ紀行」 という映像紀行の連載である。 自らが生きる世界が 「想像から発した 「意識的場面(意識場)」 と現実から発した 「物質的場面(物質場)」 が互いに交錯し反響しあう 「曼荼羅世界」 であるとする帰結は、自らがたどった 「つれづれの日々」 に深い覚醒をもたらす。 書き続けてきた 「知的冒険エッセイ」 とは自らの 「つれづれの日々に投影された意識的場面の記録」 であり、撮り続けてきた 「信州つれづれ紀行」 とは自らの 「つれづれの日々に投影された物質的場面の記録」 であって、「2つの場面」 が互いに交錯し反響しあうことで自らの 「曼荼羅世界が構成される」 とする意識跳躍はかくなる覚醒によってもたらされる。
残し得るもの
 「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」 虎が死んだ後に美しい毛皮を残すように人は死んだ後に名を残すような生き方をすべきだという意である。 だがしかし、現代人は名を残すような生き方ができているのかと問われれば何とも心もとない。 それどころか現代人は名を残すような生き方そのものを、生きる価値と考えているのかさえ疑わしい。 別の視点から現代人の価値観をとらえた表題に 「信義で飯が食えるか」 という常套句がある。 この表題からすれば、生きるための価値観には 「死んだあとのこと」 などは考慮されていない。 今を生きるのに精一杯なのであって、今日食べることが何にもまして優先されるのである。 そのためにはお金が必要なのであって、それに供さない 「死んだあとに名を残す」 ことや 「信義」 などは単なる 「お題目」 にすぎないのである。 現代社会で横行する今日さえよければという倫理観の根底には、このような構図が歴々と横たわっている。 生涯を粗衣粗食にして渡る風のように生きた良寛和尚は 「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」 という辞世の歌を残している。 それは自然を友とした和尚が万物事象の中に残し得た清々粛々たる風韻の記憶である。
戦士の休日
 オーストリア生まれの文芸評論家、エーリヒ・ヘラーは、科学的合理主義の行き着く先を 「・・ 技術的進歩とは、地獄をもっと快適な居住空間にしようとする絶望的な試み以外のほとんど何物でもありません ・・」 と簡潔にして直裁に表現した。 進歩はさらなる進歩を促し拡大はさらなる拡大を促すことで事態は遠大な 「無限循環」 に帰着する。 このレースに終わりは訪れない。 戦士の休日は 「走り続けるかぎり」 永遠に訪れることはないのである。
足を知る
 世界は原子核反応のごとく増殖の連鎖はとどまるところを知らない。 世に連呼されるのは 「成長! 成長! 成長!」 であり 「拡大! 拡大! 拡大!」 である。 まるでコントロールを失った原子炉のような様相を呈して自らの身を焼き尽くさんばかりである。 はたして原子核反応のごときの 「無限連鎖反応メカニズム」 は人間社会に適用可能なのであろうか? そろそろ核反応の速度を低下させる段階に来ているのではあるまいか? 今、世に連呼されるべきは 「後退! 後退! 後退!」 であり、「縮小! 縮小! 縮小!」 ではあるまいか? 曰く、「足を知る」 である。
木枯し紋次郎〜時空の旅人
 木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたという。 十才の時に国を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。 天涯孤独な紋次郎がなぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない。 その生い立ちをさらにつまびらかにすると、舞台は天保年間、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれた紋次郎は生まれてすぐに 「間引き」 されそうになる所を姉のおみつの機転により助けられ 「間引かれ損ない」 として薄幸な子供時代を過ごしたとされている。 ぼろぼろになった大きな妻折笠に薄汚れた道中合羽、ニヒルな表情に長い楊枝を咥えた風貌はこの男のものであって、終生変わることはなかった。 劇中で紋次郎が口にする決め台詞 「あっしには関わりのないことでござんす」 は当時の流行語にもなった。 だがそうは言うものの、紋次郎は決して非情な渡世人ではなく、結局は深く関わっていってしまう。 あるいはそれは彼流の照れ隠しのようなものであったのかもしれない。 この作品で時の流行作家となった笹沢左保は、その晩年において紋次郎の出生地 「三日月村」 に似た 「三日月町」 が実在する佐賀県に移り住み、その地で執筆活動を続けた。 ちなみに筆名の 「左保」 は夫人の名前からとったものである。 笹沢左保の死去と呼応するように木枯し紋次郎もまた時空の彼方に去っていった。 寒風吹きすさぶ荒野の街道を急ぎ足で遠ざかっていく紋次郎の肩には主題歌 「だれかが風の中で」 の上條恒彦の野太い歌声が響き続けてどこまでも追伴していくかのようであった。 かくしてその後に辿った彼の生涯の末路を知っているものは誰ひとりとしていない。 かく観れば、木枯し紋次郎という孤高の渡世人は、あるいは希代の 「時空の旅人」 であったのかもしれない。
大いなる秘術
 空海が目指した即身とは想像と現実を一致させることである。 しかしながら 「こうでない現実」 を 「こうである現実」 と想像することは類い希なる精神的努力が不可欠である。 だがその煩悶と葛藤によって肝心の 「生そのもの」 が衰弱してしまってはもともこもない。 まして現実はこうでないことばかりであって、問題の種は尽きることがないのである。 おそらく空海が目指した即身はかくなる精神的努力なしに達成されるものではなかった。 そこに即身のための 「大いなる秘術」 があったのではあるまいか? こうでない現実をそのままに、想像をもってこうである現実に変換してしまう秘術とは何か? それは 「現実を是と想像する」 ことである。 言うなれば 「失敗も成功と想えば現実は成功に一致する」 ということである。 そんな都合のいい話はないと反論されるであろうが、そのような都合のいい現実にするためには、並はずれた想像力が不可欠であって、そのための強靱な意志力がなければ達成されることはない。 空海にして深山幽谷での言語を絶する厳しい鍛錬があって、はじめて実現されたものであることを念頭におかなければならない。
水車のある村
 黒澤明 監督の映画 「夢」 の最終章に登場する 「水車のある村」 は安曇野の水郷で撮影された。 原発の恐怖を描いたストーリーは、寺尾聰 が演じる主人公が 「何があったんですか?」 と逃げ惑う大勢の群衆をかきわけていくシーンから始まる。 根岸季衣 が演じる子連れの女性が 「あんた知らないの? 原発が爆発したんだ」 と話す。 「原発は安全だ 危険なのは操作のミスで 原発そのものに危険はない 絶対ミスを犯さないから問題はない」 とぬかしたヤツラは許せないと根岸が絶叫する。 生前、黒澤は原発に対して声高に反対を示し 「原発は人間では制御できない性質を持ってるわけで それを作るっていうのが そもそも間違いだ」 と断言するとともに 「日本は地震も起こるわけだし いつ旅客機が墜落してぶつからないとも限らない もし日本でそういうことが起こったら日本だけの問題じゃない」 と警鐘を鳴らしていた。 まさにその後に起きる福島第1原子力発電所の事故を予知していたかのような話である。 映画 「夢」 は1990年公開というから遡る30年ほども前である。 もしこの作品にこめられた黒澤の警鐘に少しでも耳を傾けていたならば、現在の日本の姿も大きく変わっていたのかもしれない。 残されたロケ地の水郷は少しも変わることなく横たわっている。 滔々と流れる清流が当時の息づかいを今に伝えているのがせめてもの慰めである。

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