Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 7 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2014.11.08 〜 2017.01.20
私の彼は
 助手席で流れ行く窓外を眺めながら「ああ、きれいなコスモスが咲いている」と私がつぶやくと、運転していた彼は「何だって、モスモスが咲いているって・・」と振り向いた。 そして、その彼は仏パン(フランスパン)のことを仏パン(ほとけパン)と呼び、食べる前には南無阿弥陀仏を3回唱える。 さらに私が「あんた、少しふとったんじゃない」と言うと、「おいらはデブじゃない、骨太なんだ!」と答えた。 現代書生気質の一端を垣間見るような風景であるが、それは辛い現実を何とかして明るく生きようとする思いから生まれた「若者たち」のせめてもの工夫であって、何とも微笑ましい 「傑作」 である。
知ることより考えること
 現代はあれこれ知ることより、あれこれ考えることが必要である。それは考えることで未来が生まれるからであり、しかして現代は未来が最も不足している時代だからである。だが考えることは知ること以上に難しい。なぜなら、知ることは頭を働かせなくともできるが、考えることは頭を働かせなくてはできないからである。だが難しいからと頭を働かさないで放っておいては、未来が生まれないばかりか、ますます考えることが困難となり、ついには何も考えられなくなってしまう。それは体の動きと同じで、苦痛がともなうからと運動をしないまま放っておいては、ついには一歩も動けなくなってしまうのと同じである。 ちなみに、アイデアは宇宙の彼方からもたらされるものだが、そのためには課題を日々考えつづけなければならない。不可能な壁は破れるまでは不可能に見えるが、いかなる壁も降ってわいたアイデアによって、たわいもなく突破されるのである。
科学的真理と社会的真理
 宇宙には「真理」がある。だが社会にはない。社会にあるのは「利害」である。もっとも社会では「真理」とは言わずに、等価的意味あいで「正義」という言葉が使われる。常日頃、我々は社会には正義があると思っている。だがその正義は立場によって異なる。日本が考える正義とは中国では正義ではなく、中国が考える正義とは日本では正義ではない。ともに「正義が一致」するのは「利害が一致」した場合のみである。つまり、正義は立場によって異なるし、仮に立場が同じであっても時代によって異なる。正義は立場によって時代によって変転するのである。ゆえに、正義を貫こうとするならば、まずは利害を一致させることが得策である。正義は多く哲学的であり、利害は多く経済的である。相異なる基盤に立つものを同列に考えることにはもともと無理がある。私は立場によっても時代によっても変わらない「絶対的真理」を「科学的真理」と呼び、立場によって時代によって変わる「相対的真理」を「社会的真理」と呼んでいる。
等身大
 人間の身体的な大きさには大差はない。しかし、人間の精神的な大きさには大差がある。つまり、人間の大きさと言う場合は、通常この「精神的大きさ」を指している。だが、精神的な大きさは身体的な大きさを測るような「ものさし」がない。精神的な大きさを測るものさしがないことは、この大きさがあるともいえるし、ないともいえるような大きさである。その大きさは、気持ち次第でガリバーのように大きくなったり、一寸法師のように小さくなったりする。しかして、自分を大きく見せようと胸を張り肩をいからせてみても、せいぜい数センチ程度の差しか生まれない。等身大とは言い得て妙である。
何かいぶかしかった
 久しぶりに会った友人が言った。昔は世間に「さからって」生きていた。そのときは「君には骨がある」と言われた。時代はめぐり、いつのまにか世間に「さからえなく」なった。そして今度は「君もまるくなった」と言われた。今はもう世間に「さからわない」ことにしたと彼は結んだ。「さからう」→「さからえない」→「さからわない」という言葉の五段活用のごとき変態はいったい何を述べているのであろうか? 彼の人格形成の過程を述べているのであろうか? それとも日本経済社会の変遷の過程を述べているのであろうか? それとも日本政治思想の変質の過程を述べているのであろうか? 何かいぶかしかった。
※)何かいぶかしかった / 立原道造の詩「はじめてのものに」に挿入された以下の一節から採った。
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  ― 人の心を知ることは・・人の心とは・・
  私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を
  把(とら)えようとするのだろうか 何かいぶかしかった
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千載一遇
 危機的状況はまた大飛躍のチャンスでもある。危機的状況とは、さまざまな事象が煮詰まって臨界に達した状況を呈しているのであって、言うなれば「千載一遇」の機会なのである。この機会を利用できるか否かで、事態は「天国と地獄の差」と「月とすっぽんの違い」を発生させる。
間違えた遠足
 すべての可能性が行き詰まり、未来への夢が閉ざされた現代社会はいったいどこに向かっているのであろうか? 物理学から哲学に転向したトーマス・クーン(米国1922〜1996)は科学が絶えず真実に近づいているという考え方を否定した。著作「科学革命の構造」の中で「科学が地球上の生命のように、何かに向かって進化しているのではなく、何かから遠ざかっているだけだ・・」と断言している。時代は常に最良に向かって進化しているように見えて、実は遠ざかっていることも充分にありえる。「現代よりも古代のほうが良かった」という追憶をいったい誰が否定できるであろう。進む方向を間違えた「遠足」の解決策は、まずは「立ち止まる」ことであり、次に「方向を考える」ことであり、わからなければ「引き返す」ことであろう。やみくもに前進することだけが「勇気」ではない。前進のみを唯一の価値と考えてきた人類にとってみれば、おいそれとその間違いを受け入れることはできない。それは自らの挫折と蹉跌を意味するからに他ならない。だが前進しても「輝く大地」がもはや地球上に残されていないとすれば「その選択」に否応はない。
有限に近づいた永遠
 成長戦略といい、骨太の政策といい、構造改革といい・・アベノミクスはスローガンにことかかない。だが発見されるべきものがすべて発見され、書かれるべき本がすべて書かれ、描かれるべき絵がすべて描かれた現代社会において、どのような戦略と、政策と、改革があるというのであろうか? フランスの数理物理学者、アンリ・ポアンカレ(1854年〜1912年)は永遠の時間を想定すれば、あらゆるものはいずれは出発点に戻り「同じことを繰返す」ことを数学をもって証明してみせた。世に言う「ポアンカレ循環」である。ポアンカレが活躍した時代における永遠の時間とは文字通り「行き着くことなき永遠の時間」であったであろう。だがコンピュータを土台とした現代社会における永遠の時間とは「限りなく有限に近づいた永遠」である。あらゆる変化は急速に進行し物事は瞬時に行き着いてしまう。ひと昔前には「ネズミ講(無限連鎖講)」という商いが隆盛を極めた。ネズミ講とは市場がねずみ算式に飽和していく商売であり、商法で禁止された違法な商いである。だが今では言葉そのものが死語のごとくに忘れられて久しい。時代そのものがネズミ講の連鎖速度を超越してしまった現代では、その意味さえ失われてしまったのである。
眠らない惑星
 情報化社会は地球上のすべての人の意識を繋げてしまう。インターネットはかってなかったような利便性を提供してくれるが、その功罪はよく見積もって相半ばである。今や国という枠組みを越えて物事が進行する新たな管理システムが出現、国の指導者にとっては「自らの存在意義さえ喪失」しかねない問題に直面している。イスラム国のメディア戦略などはその代表例である。情報化時代の未来は実に混沌として視界不良である。言えることがあるとすれば、人間における活動の場が物質的世界から意識的世界にシフトしていくということである。今まで広がっていた「物質的世界」は急激に縮小して身の周り数キロメートルのローカル規模になっていくであろうし、「意識的世界」は急激に拡大して地球規模、さらには宇宙規模となっていくであろう。 こうなると、すべての常識は非常識に転換する。 地球は 「眠らない惑星」 となり、今日使う「爪楊枝」は地球の裏側から運ばれてくることになる。
ものぐさ太郎
 IT技術の発展で膨大な伝達情報による知識量が爆発的に膨張している中、人間の身体的活動が縮小していく社会は何をもたらすのであろうか? ふと古くより信州に伝えられてきた「ものぐさ太郎」という昔話が想起された。 翻って眺めれば、世はまさに「ものぐさ太郎的な生き方」を推奨しているかにみえる。かっての「ものぐさ太郎」は怠惰の象徴として語られていたのであるが、時代が変われば予想だにしない状況が将来される。
ホーキング博士の警告
 かってのSF(サイエンス・フィクション)映画に、人類がコンピュータに支配されてしまうというのがあった。この構図はその後、姿形を変えて何度も映画化されてきた。時に「コンピュータがロボットに」置きかえられ、時に「ロボットが猿に」置きかえられ、時に「猿がウィルスに」置きかえられ・・といったように。先頃、車椅子の天才物理学者、スティーヴン・ホーキング博士が「完全な人工知能の開発は、人類の生存に終止符を打つだろう」と警告した。最終的には科学技術による大惨事が「ほぼ確実に」起きると指摘し、避けるには人類が地球以外の惑星にコロニー(居留地)を建設する必要があると訴えた。かってのSF映画はSF的夢物語であったから笑って楽しめたが、現代では実現可能な現実的物語であって「身につまされて」笑えない。
春は来たものの
 南から桜開花の報が届き、陽光に明るさと温かさが増し、春はそこまでやって来た。だがこの期待感のなさはどうしたことか。時代が進めば進むほどに未来に対する期待感が枯渇していくように感じられる。理由は多々考えられるが、最大の要因はコンピュータの普及であろう。さらに言えば、時代を動かす原動力が人間からコンピュータに「パワーシフト」してしまったことである。今では人間が何もしなくてもコンピュータがかってに日常業務をやってしまう。人間のほうもまたその利便性にかまけてコンピュータに任せっきりである。かかる傾向はコンピュータ能力が増進すればするほど急速に進展するであろう。すべてお任せの「全自動洗濯機」が登場したごとく、やがては人間生活のすべてをお任せする「全自動生活機」が登場するであろう。この状態で人間に「未来に向けて夢をもて」、「期待しろ」と言ってみても、どうにも意気があがらない。
完全矛盾
 デフレ脱却を目指した経済政策「アベノミクス」は今、消費拡大のためには「給料を上げる」ことが必要だとして、あの手この手を使って東奔西走している。だが私にはどうにも納得できない疑問がある。仮にあの手この手がうまくいって給料が上がったとすれば、それは日本企業の人件費がさらに高騰することを意味する。企業の人件費が高騰すれば、日本の労働力の国際競争力はさらに低下し、低賃金労働力を保持する国々の労働力にとって代わられるだけであって、雇用の拡大にはつながらないのではないのか? 給料が上がったとしても雇用が奪われてしまっては本末転倒である。そのような帰結を多くの日本人労働者が望んでいるとは思えない。かといって給料が上がらなければ消費拡大など期待できないし、ましてやデフレ脱却など望むべきもない。右にも左にも行けない「完全矛盾」である。疑問とはそのことである。
夢に賭ける
 株価は2万円を越えその加熱感にさらなる拍車がかかっている。宝くじの配当率(当選金額/発券金額)はおおよそ48%であると言われている。残りの52%は主催者の取り分となる。仕組みが異なるので軽々には比較できないが、競馬における主催者の取り分はおおよそ25%、パチンコはおおよそ10〜15%と言われる。宝くじは競馬やパチンコとは趣旨が違うと言われそうであるが、仮に賭け事と考えれば、その勝率は驚くほどに低いということになる。巷間よく言われる「それは宝くじに当たるような話だ」という比喩がそれを能弁に語っている。株式は投資であって賭け事である宝くじや競馬やパチンコと同列に論じることはできないとの主張もあろうが、「資本主義が終焉」したと言われる現代社会の状況を鑑みれば、その説得性には疑問符が付いてしまう。様相は限りなく賭け事に近づいているのである。であればその配当率とはどの程度なのであり、その興業の主催者とはいったい誰で何処にいるのであろうか? 以下蛇足ながら付け加える。株式や宝くじや競馬やパチンコには「夢」があるとして「私は夢に賭ける」と自負する人もいる。夢の主催者とは即ち「自分」であり、しかしてその勝率は夢の大小に応じてそれぞれ千差万別である。そもそも賭ける当事者もまた「自分」なのであるから配当率は100%である。これで賭け事と言えるのかとなるが、夢の実態とはそのようなものであって、資本主義も、経済原理も、そこには成立しないのである。もしもあらゆる矛盾が解消された純粋経済学(仮称)というものがあるとするならば、あるいはそのようなものなのかもしれない。
寄らば自分
 先日友人と時事放談風に世相の混沌を嘆いていた。 やがて話は「こうなると頼るものがないな」という帰結に至り、彼が発した「寄らば自分」という標語のような箴言で落ちとなった。寄らば大樹を変じたその表現の的確さを讃えると、日頃このエッセイ欄を読んでいる彼は「それ書いてよ」と言う。「書かなくてもその言葉ですべてが表現されている」と私。「題名だけでもいいから書いてよ」と彼。 そのときふと次の逸話を思い出した。 かってヤクルトスワローズで活躍した「のび太くん」こと古田捕手が後年プレイングマネジャーとして監督と選手を兼任していたときのこと・・選手交代で審判に告げた 「ピンチヒッター俺」 という話である。 とたん彼の表情が、したりとにんまりしたのは言うまでもない。
絶対とは
 かって原子炉の安全は絶対であるとする「安全神話」があった。だが2011年3月11日、福島第1原子力発電所で炉心溶融という前代未聞の大事故が起きた。安全神話の崩壊である。そのとき安全神話を記述したもろびとは「想定外」という論拠でその崩壊を取り繕った。そして今、停止されていた原子炉を再稼働するために、新たな基準に従えば原子炉の安全は絶対であるとする「新安全神話」を創出しようとしている。であれば「絶対」とは何であろうか? 「絶対」とは「想定外」という概念の下に位置するものなのであろうか? それとも「絶対」とは次なる「絶対」で浄化される概念なのであろうか? あるいは「絶対」とはもはや「相対」を意味するものなのであろうか? とき同じくして「集団的自衛権行使容認」の是非をめぐって国会論戦が始まろうとしている。ここでも中核的論拠は「絶対に戦争は起こしません」という「絶対」である。 絶対・・絶対・・絶対の連呼にはいい知れない危うさと虚しさが漂っている。
二者択一の理
 事の判断において「二者択一」をせまられたとき、人は如何にして決断するのか。たいていは現状を鑑みて優勢な方向を選択する。依るべき基準は「寄らば大樹」であり、「多数の賛同」であり、「目先の損得」であり・・等々である。だが栄枯盛衰の理は悠久な歴史時間を経過してなおいまだ覆ったことはなく、陰陽の波動循環は宇宙の真理である。したがって、現在の優勢は未来の劣勢であり、現在の大樹は未来の倒木であり、現在の多数は未来の少数であり、現在の得は未来の損となるは必定である。未来を考えるならば、選ぶべき方向は「寄らば小樹」であり、「少数の賛同」であり、「未来の損得」である。だがそのような選択をする人はまさに少数であって稀有な存在である。それがゆえにこそ未来における成功の確率が高いのである。
景気回復
 メディアは景気回復を伝えている。だが現実は回復しているようには思えない。この場合の回復とは何であろうか? ある部分では回復していて、ある部分では回復していないということなのか? あるいは誰かが意図的に回復していると偽報しているのか? 景気は気からと言われるから回復していなくとも回復していると伝えることで現実を回復に向かわせたいということなのか? であれば現代情報化社会における情報とは何であろうか? 一般にはメディアの報道情報は真実であるとされるが、上記を鑑みればどうにもこころもとない。真実を装った創作のようにも思えてくる。メディア業界ではそれを「やらせ」と呼んでいるのであるが ・・・。
危機の本質
 老齢化社会が進んでいる。若者の姿が老人の姿で覆い尽くされていく。成長が鈍化した日本におけるせめてもの成長産業が老人関連ビジネスであるとは時代も様変わりしたものである。かって古生代(約 5億 7000万年前〜約 2億 5000万年前)に生息した三葉虫が絶滅した原因が三葉虫自らの「大繁殖」にあったことは以前に述べた。そこでの首題は三葉虫を襲った絶滅へのメカニズムが急激な人口増加を続ける人類社会にも相似的に適用されるのではないかとする危機感であった。そこでは漠然たる人口増加を問題にしたのだが、さらに思考を先に進めると、その人口増加の内容に想到する。そう、冒頭に掲げた「若者を老人が駆逐」していく老齢化社会の進展である。
宇宙とは現象である
 ジョン・アーチボルト・ウィーラー(米1911〜2008年)はニールス・ボーアの弟子にしてアルベルト・アインシュタインの共同研究者でもあった。「詩心をもった物理学者」で「ワームホール」や「ブラックホール」の命名者としても知られている。 ウィーラーは「現実はすべて物理的なものではないかもしれないと問題提起した」最初の物理学者である。我々の宇宙は「観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」かもしれないというのである。ウィーラーは「人間原理」の普及にもひと役かった。人間原理とは「宇宙がこのような状態になっているのは、もし他の状態だったら人間がここにいて宇宙を観測することができないから」という人間主体の原理である。 空海が遺した「生まれる前に宇宙はなく、しかして死して後に宇宙はない」という「太始と太終の闇」を物理学的に換言すれば、ウィーラーが言うように「宇宙とは観測行為と意識を必要とする参加方式の現象」と訳されることになるのかもしれない。 つまり、「宇宙とは現象である」と。もっとも詩心をもった物理学者のウィーラーであってみれば、かくなる表現もまた、空海どうように多分に文学的なのかもしれないが ・・・。
時空の喪失
 宇宙の発生には「観測」という行為が不可欠であり、その観測の継続によって新たな宇宙が次々に発生する「連続的メカニズム」が「時間の正体」であろう。さらに、このメカニズムを起動させる観測とは「あなたの観測」であって、あなたが観測を継続するかぎり、このメカニズムは稼働し続け、時間が流れるという感覚は、あなたの観測母体である「あなたの意識の流れ」そのものをあらわしている。つまり、意識の流れが停止すれば、時間の流れもまた停止するであろう。厚生労働省の推計(2012年時点)によれば、認知症高齢者数は、軽度者を含め約462万人に上り、予備軍とされる軽度認知障害の約400万人を加えれば、65歳以上の4人に1人が該当、この数はさらに増加していくという。認知症をもって軽々に「意識の喪失」とは断じがたいが、仮にそれによって意識的観測が停止してしまうと考えるならば、4人に1人の割合で周囲から宇宙が消失し、ともなって時間も消失してしまう。意識の喪失とは、すなわち「時空の喪失」なのである。かくなる喪失が人間社会にとって大問題であることには相違ないが、宇宙にとってはさらに事は深刻で重大である。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
 「物質と意識の狭間」を究極まで追いつめて得たものとは「身のまわりに広がる宇宙とは自らの意識が創りだした現象」というものであった。それはどこか「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という俳句のようなことわざに相似する。その意味は「幽霊かと思ってよく見ると枯れたススキの穂であった」というものである。さまざまな現象も実体をよくよく確かめてみると、何のことはない「ごくあたりまえ」の単純明快な帰結に至るということを暗示している。
全員参加型無責任時代
 世界情勢はますます不確定で不確実な状態になってきた。人間が始めた文明社会ではあるが、今やその社会を人間自身がコントロールできなくなりつつある。エントロピー増大による不確定性に支配されたカオスとは宇宙の本質でもあるが、その複雑系の拡大に我々人間自身が大きく荷担してきたことはまぎれもない事実である。増大させてしまったカオスを、その張本人である人間自身が制御できないとはどうしたことか? かくなる文明社会を率いる責任者たちは「いざとなれば私が責任を負います」と公言するが、カオス化した不確定性社会が抱える問題は、単に1個人が負えるような単純な問題ではない。そのことは多くの人が暗黙裏に知っていることである。 畢竟。 その公言は「いざとなれば私は責任を負いません」と広言しているに他ならない。他方。率いられる我々もまた、それに向かって声高に異議を唱えることもしない。つまるところ、世界は今、不作為の作為が蔓延する 「全員参加型無責任時代」 に突入しているのである。
宇宙を夢見た少年
 宇宙飛行士、油井亀美也さんが宇宙ステーションでのミッションを終えて地球に帰還した。その油井さんが帰還後の会見の中で、生まれ育った長野県川上村での子供の頃を回想して、「川上村の自然は私にとって科学の実験室であった」と話していた。川上村は長野県南佐久郡に属し、群馬県、埼玉県、山梨県との県境に位置する。全長 367 km、信濃から越後を経て日本海に至る千曲川(信濃川)の流れはこの村を源流とする。飾辞を排して言えば、山国信濃、長野県でも辺境に位置する寒村である。このような村から宇宙飛行士が誕生することそれ自体が「奇跡」のような出来事である。レタス農家に生まれた油井少年はまさにその曇りのない瞳で川上村に生起する万物事象をつぶさに観察研究したに違いない。そして夜ともなれば暗闇のレタス畑の中でひとり深夜まで望遠鏡で宇宙を眺めて飽きなかったという。そんな息子の姿を見続けてきた父はカザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船に搭乗して旅立っていった我が子を見上げながら、「息子は宇宙人になってしまった」とつぶやいた。宇宙を夢見た少年は45年の歳月かけ日本人最年長宇宙飛行士としてその夢を実現したのである。
借金を宝くじで返す
 かって、「借金を宝くじで返す」と豪語した彼がいた。その言葉通り、彼は毎月売り出される宝くじを根気よく買い続けていた。その後、かくなる方法で返済を完了したという噂を耳にしないことからして、彼には予定された幸運は訪れなかったのであろう。 ある統計によれば、日本国が抱える借金の総額は約1034兆円(2016年3月30日時点)であって、1世帯あたりでは約1956万円であるという。国民1人当たりの負担額は約815万5000円(2015年4月1日時点)である。その借金は今もなお年間で約26兆円増加し続けている。その額を換算すると、1日あたりでは約712億円、1時間あたりでは約29億7000万円、1分あたりでは約4950万円、1秒あたりでは約82.5万円となる。これらの長期債務はGDP比では150%に上り、先進国では類を見ないほどの大きさであって、今だに返済のメドはたっていない。 ちなみに個人の無担保ローンやキャッシング等の借入には2010年の6月18日の改正貸金業法で総量規制が導入され、債務の合計が年収の3分の1を超えてはならないと規制されている。仮に国の税収額、約54兆円を日本国という人格の年収と考えれば、規制に則った借入可能額は、約18兆円でしかない。だが現状は年収の約19倍にあたる1034兆円の借入をしていることになる。これでは冒頭で掲げた「借金を宝くじで返す」と豪語した彼を笑うことはできない。あるいはまだ彼の方が返済方法としての現実味があるように感じられるのは私だけであろうか?
温故知新に代わるもの
 日本は、そして世界はどうなるのか? 今ほどこのことが問われている時代はない。孔子の「故きを温ねて新しきを知る」とする温故知新の教えは、歴史が教訓となっていた時代であれば妥当性があるが、教訓にならないとすれば意味を成さない。歴史の教訓が意味をなさなくなってきた原因は社会構造の変質にある。あらゆることを人力に頼っていた生活と、あらゆることを機械に頼る生活では自ずと社会のシステム構造が異なる。機械システムを基本構造とする現代社会に、人力システムを基本構造とした過去社会の教訓が役に立たないのはむしろ当然なのかもしれない。同様に、あらゆることを人間の頭脳に依存していた時代の教訓が、あらゆることを人工知能に依存しようとする時代の教訓にならないことも、また当然に予測されることである。であれば、かって孔子が為したように、現代人自らが「新たな教訓」を創らなければならない。そういう時代が到来したのである。
写実を超えたワンカット
 そのワンカットをとらえたのは、ある5月の連休でのことであった。安曇野を眼下に俯瞰するアルプス公園内にあるささやかな動物園の猿山でのことであった。私はいつものように映像技術開発のための素材を求めて、三脚に固定されたビデオカメラのファインダーを覗いていた。隣では母親に連れられた年の頃、5歳と6歳ほどの兄弟が手すりにもたれて「あれがボス猿だ」、「いやあれがボスだ」と言い合っている。いつも思うのだが、なぜかファインダーを覗いている撮影者は周囲からすると「物体でしかない」ようなのである。気兼ねすることなく思いのままの心情を吐露する。そんなさなか、長兄がつぶやいた「猿の人生は厳しい・・」は歳を超えて絶妙のアイロニーに満ちていた。餌を奪い合っている彼らをつぶさに眺めていたのであろう。だがそのあとに発せられた母親の「そうよ 貴方みたいなことをしていると将来そうなってしまうんだから!」という強烈な断言には笑いをこらえて覗いていたファインダーの映像が揺れたほどであった。言われた兄弟の憮然とした様はいうまでもないことである。映像はあますことなくすべての実在を写し取る。だが私がとらえた「ワンカット」には、その写実を超えて実在の裏側に漂うエモーションまでがとらえられていたのである。
0 の発見〜数学の源泉とは
 数学的な 0 の概念は「偉大な発見」であると言われる。数学自体は人為的な発明であるから、あるいは「偉大な発明」と言った方が妥当かもしれない。 0 を言葉で表せば「何もない状態」とでも言い得ようか。あるいはプラスでもマイナスでもない「中立の状態」とでも言い得よう。机の上に 1 冊の本が置かれている。では本が 1 冊も置かれていないとき「0 冊の本が置かれている」と表現する人はいるであろうか? だが数学的にはこれこそが妥当な表現である。 0 の意味は実にこの表現方法にこそ存在する。数学的概念とは、あるいはこのような抽象性を源泉にして発展したのかもしれない。「本など何もない」と言ってしまっては数学の発展などありえなかったのではあるまいか。 試みに 0 の数学的操作を「何もない」に置きかえて表現すると以下のようになる。 「0 を加えても引いても何も変化しない」は「何もないを加えても引いても何も変化しない」となり、「0 を掛けると何もかもが 0 になる」は「何もないを掛けると何もかもが何もないになる」となり、「何かを 0 で割ることはできない」は「何かを何もないで割ることはできない」となり、「0 を何乗しても 0」は「何もないを何乗しても何もない」となり、「何を 0 乗しても 1」は「何を何もない乗しても 1」となる・・等々。 0 とは実に般若心経の「色即是空」ほどに難解である。 0 の発見はインドの数学者によってなされたことを考えれば、あるいはかかる「空の思想」に密接に関係しているのかもしれない。
孤絶した風景
 相模原の障害者施設で発生した悲惨な事件は繁栄する現代社会の裏面で蠢く闇の深さを白日の下に晒した暗澹たる出来事であった。だがこの事件はその「蠢く闇」の氷山の一角であって、核心は日本の津々浦々、とどまることなく今も暗黙裏に燻り続けているのではあるまいか? 翻って、現代は個々人の繋がりが断ち切られた社会に変じようとしているかにみえる。一見するとネットなどの情報技術によって繋がっているように見えて、実はまったく繋がっていない。自然界の動物として眺めれば、人間はまれにみる大集団をなす生きものである。だがその大集団をなす人間が個々では繋がっていないとはいかなることか? 孤立した狼が仲間の群れと繋がっていないことは一目瞭然でわかる。だが仲間と繋がっているようにみえて孤立している人間の姿は見ただけでは判然としない。 かって、大都会での人間の孤立を称して「東京砂漠」と言われたことがあった。「集団の中の孤独」を表現したものであって、その孤独が「砂漠のごとく無味乾燥で無機質、虚無にも似たものである」ことを語っている。その光景は月に向かって山上の岩頭で吠える一匹狼の姿など遠く及ばないほどに 「孤絶した風景」 である。
天を畏れる
 「孤絶した風景」では大集団をなす人間社会が個々では繋がっていないことを述べた。ではそのような状況下で人はいったい何をよりどころにして生きたらよいのか? 行き尽きて最後にのこされるものとは「個としての倫理観」であって、しかしてそれは「天を畏れる心」ではあるまいか? その心には集団は関係しない。あるのは天と個の1対1の対峙のみである。かっての日本人には「お天道様は見ている」という素朴ながらも自己を厳しく律する確固たる倫理観があった。 幼き日、馬鹿なことをしていると周りの大人たちから「お天道様は見ているぞ、そんなことをしていると罰(ばち)があたる」と諭されたものである。子供心にも「天を畏れた」のである。それはお天道様の「絶対的な威力」を心のどこかでしっかりとわかっていたからに他ならない。 翻ってみると、現代人は天など畏れていないかのようである。はたまた天に唾するなど日常茶飯事のようでもある。いったいその畏れをどこに置き忘れてきてしまったというのか。その畏れなしに人間社会など成り立つはずもない。
このままでは
 あらゆる情報が地球上を飛び交う現代、人は何をどのように自らの内に取り入れ人生を醸成し完成させようとするのか? 飛び交う情報のほとんどは「既成」であって、自ら創りあげるものなど、なにひとつ見あたらないように思える。仮に運よく「何かが」見つかったとしても、たちまちのうちにそれは「市場化」され、「商品化」され、しかして「換金化」されてしまう。かって「生きて 何もしていないこのままでは 死ぬことなどできない」と嘆いた彼に出逢ったことがある。彼の嘆きからすれば「かくなる現代社会では」いかに死ぬことができようか? 戦国時代に生きた武士の大半は戦場で華々しく死ぬことを願った。畳の上で死ぬことなど不名誉このうえないことであったのである。今放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」に登場する面々などその代表的な人々であろう。なかでもドラマの主役である真田信繁(幸村)などは、後世「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」との誉れに満ちた人生を完成させた稀有なる幸運に恵まれた武将である。その最期は戦国最後の戦いとなった大坂夏の陣でみせた真田の兵法ここにありの空前にして絶後の激闘であった。享年49歳、確かに「戦の勝負」には負けたかもしれない。だが「人生の勝負」にはまさしく勝ったのである。 「いつかはみな死ぬ 今は苦しくても 死ぬときに誰も出来ないことをやったと思えたら それでいいじゃないか・・」NHKの人気番組「プロジェクトX」の登場人物がつぶやいた言葉である。
その創作は売れますか
 あらゆる情報が地球上を飛び交う現代において、何事かを創作しようとしたら、その何事かをその情報から引用することは徒労に逸する。オリジナリティ(創作)とは、パーソナル(独自)であるということである。であれば自らの脳裏から発した創意を自らの言葉で語らなければならない。情報化時代はあらゆる情報を容易に入手することができる。だからといって容易に創作できるわけではない。二番煎じの創作をもって、自らの人生を前に進めることなどできない。創作とは衆に語る前に、自らに語らなくてはならない。だが現代の創作は、自らに語るまえにまず大衆に語りかける。なぜなら創作の背景が「創作の商品化」にあるからである。「その創作は売れますか」という経済至上主義である。確かに、売れることで作家自身の経済的生活は豊かになるかもしれないが、作家自身の精神的生活は日増しに貧しくなり、やがては痩せ衰え枯渇してしまう。創作がめざすものは「創作の商品化」ではなく、自らの人生に反映させる 「創作の体現化」 である。 自らの人生を救うことができない哲学に、いったいどのような意味があるというのであろうか?
果てしない叫び
 印象深い絵画に、ノルウェーの画家ムンクが描いた「叫び」がある。通常の絵画は自然風景を描くことに終始するが、この「叫び」は精神世界、言うなれば「心象風景」を描いたものである。ムンクはこの作品について日記で以下のように書いている。 「・・ 私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと町並みに被さるようであった。友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた ・・」 ムンクが聴いた「自然を貫く果てしない叫び」とは、現代人が抱える「理由無き不安」であり、突如として襲ってくる「得体の知れない恐怖」であろう。 他方、ドイツの哲学者ニーチェは1882年に刊行した著書「悦ばしき知識」の中で「神は死んだ」と叫んだ。奇しくも、それは画家ムンクが「叫び」を制作した1893年と同時期である。 ムンクが感じた「果てしない叫び」の正体とは、あるいは神が死んだあとにのこされた世界の様相であったのかもしれない。 そして今、哲学者と画家が所を変えて同時に感じた人間社会への「得体の知れない不安」の病巣は潜伏100年余りの歳月を経て、現代社会に顕現しようとしているかのようにみえる。
天の計らい
 歴史を俯瞰するとき、それぞれの歴史場面で彼らが「どう動き」、その結果として歴史が「どう動いた」かが問われる。放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」における豊臣から徳川への成り行きもまた同様である。その時、石田三成はどう動いたのか、そして徳川家康は、しかして真田信繁はいかに・・である。だが彼らにとって、かく為しえた選択肢の他に、いったいどのような選択肢があったというのであろうか? 事は必然の成り行きのようにみえる。すべては天の計らいであったと・・。 古代中国の皇帝は、天地万物を支配する神としての「天帝」を祀ることを義務とした。歴史の興亡はひとりの個の能力や計らいでどうなるものでもない。それは天の意志を担った皇帝によってのみ可能であったのである。もし個としての人間にできることがあるとすれば、自ら計ることではなく、天の計らいに同化することであったであろう。 天翔る人とはそういう人である。 ここに至って人は単なる生きものを超えた存在へと昇華するのである。
自由とは
 過去におけるどの時代よりも今の時代は自由である。なにを食べようが私の自由だ、どこへ行こうと俺の自由だ、なにを着ようが私の自由だ、どこに住もうと俺の自由だ、だれを好きになろうが私の自由だ、いつ遊ぼうと俺の自由だ、どう生きようが私の自由だ、なにをしようと俺の自由だ・・自由の連鎖はとどまることなくはてしなく続いていく。 ではいったい「何からの自由」なのか? 身体が拘束されることからの自由か? それとも時間で拘束されることからの自由か? はたまた空間で拘束されることからの自由か? これらの拘束のすべてから自由を獲得したとしても、たったひとつ、「心の拘束」からの自由を獲得することができなければ自由は完結しない。 だがこの自由の獲得は、他のすべての自由の獲得を合わせた以上に難しい。 ここに至って冒頭の提起は以下のように改題される。 過去におけるどの時代よりも今の時代は「不自由である」と。
充分に豊か
 現代人から生活が失われようとしている。生活をより豊かに便利にしようと考え出した数々の電化製品や情報機器、流通システムや交通システム等々に囲まれてはいても、そこにはかって感じたような生活感は希薄である。ここまでくると人間の幸せがしゃにむに目指してきた「利便性の達成」にあったのかどうか疑わしくなってくる。逆に、目指すまえにあった「不便な時代」のほうが、人間にとっては幸せであったようにも思えてくる。 だが裏腹に、世界はさらなる利便性の向上に向かって倍加する速度で驀進している。 株価は上昇しなければならない。 生産力は向上しなければならない。 給料は増加しなければならない。 消費は拡大しなければならない。 経済は成長しなければならない・・ならない・・ならない。 しかして、生活は豊かにならなくてはならない。 だが生活は今でも 「充分に豊か」 な気がするのであるが ・・ どうであろう。
努力とは〜金メダリストへの道
 努力とは
 努力して 努力する ことではない
 努力して 努力して 努力する ことでもない
 努力して 努力して 努力して 努力して ここまで努力すれば
 いかないはずはない というところまで 努力することである。
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 だが いくか いかないか は わからない
 いくんだったら いくし いかないんだったら いかない。
相互不信
 大衆の多くが自らのことしか考えない社会では、私のために「こうしてほしい」、「こうすべきだ」と口角泡を飛ばして訴えてみても、冷たく「無視される」のがおちである。 逆に貴方のために「こうしてほしい」、「こうすべきだ」と口角泡を飛ばして訴えてみても、振り込め詐欺に「間違われる」のがおちである。 原因は私と貴方の相互不信である。 かくなる不信がどこからきて、いつから始まったのかは模糊として不明である。
人間失格
 人類は機械を開発して肉体的労働から解放され、コンピュータを開発して事務的労働から解放され、そして今、人工知能を開発することで、知的労働から解放されることをめざしている。 しかしながら、肉体的労働、事務的労働、知的労働から解放された人間に、いったい何が「のこされる」というのか? リストラも限りなく追求すると、ついには自らをリストラしてしまう。続ければやがては「審判の日」を迎え「人間失格」の烙印を押されかねない。 「人間性の解放とは 即ち 人間性の収奪である」 という皮肉な自己矛盾である。かような矛盾を放置した「1億総活躍社会の実現」とは、いったい何を意味しているのであろうか? 言うなれば、人間としてのすべての労働を奪われた人々にむかって「何を どのように 活躍せよ というのか」ということである。
誰のための時代か
 世相はますます人間にとって生きにくくなっている。かっての時代は「人間の時代」であった。言うなれば「人間が主役」の時代である。現代は「科学の時代」である。言うなればそれは「機械やコンピュータが主役」の時代である。 ではそれは 「誰のための時代か」 と質問の方向を代えれば返答に窮する。人間の時代は言うまでもなく「人間のための時代」である。だが現代の科学の時代となると胸を張って「人間のため」と断言することに躊躇を覚える。文字通り言えば、それは「科学のための時代」ということになろう。人間はそのための従僕であり、アシスタントであり、支援者であり、協力者であり・・となる。 現代がもっとも特徴的なことはこの「誰のための時代」かという根本義がゆらいでいるところにある。それは政治経済から学術文化等々まで全般に至る。 つまり、「誰のための政治」なのか? 「誰のための経済」なのか? 「誰のための医療」なのか? しかして「誰のための学校」であり、「誰のための文化」なのか? 言わずもがな・・それは「人間のため」である。 巷間「世も末」が叫ばれるようになって久しい。だが「世も末とは また夜明けは近い」ということでもある。
マインドコントロールからの解放
 継続されてきた時空の探求は「意識に収束」しつつある。 時間も空間も「意識次第」ということである。人間における最大の資産は「考える頭脳と思う心」とした若き日の結言は、今となれば多分に表層的な理解であったことになる。その裏には「宇宙さえも」考える頭脳と思う心の支配下にあったことが埋没されていたのである。 現代人が悩めるものを取捨選択して突き詰めると「不安」ということになろう。原因の本質は多く意識的問題である。であれば意識を自在に操作できれば解決することであるが、ことはそう簡単ではない。最大の理由は「意識は自らが自在に操作できない」と考えていることにある。それを裏打ちするかのように周囲を眺めれば「操作されている意識」のオンパレードである。広告や宣伝による操作、権威や権力による操作、罵詈雑言や恫喝による操作・・等々。これらはすべて他者からの意識操作である。情報化時代ともなればその傾向は日増しに強力で強大になっていくであろう。これらの意識操作の構図は犯罪などに使用される「マインドコントロール」の構図そのものである。マインドコントロールからの解放なくして「自由な生き方」など保証されるべきもないこともまた同様である。必要不可欠で喫緊の課題は「セルフコントロール」の体現である。 分かり易く表現すれば 「あなたには “そのように言う” 自由はある」、しかれども 「わたしにも “このように言う” 自由がある」 とするスタンスの確立である。
不機嫌な時代
 社会世相は「不機嫌な時代」をもたらし、人々の心をいらだたせ、不寛容な精神が浸透しつつある。最近のアンケート調査によれば「生活が困窮した人を救済しなくともよい」とする意見のもちぬしは、ヨーロッパのドイツ、フランス、英国等で7〜8%、日本では38%という。ちなみに米国は20数パーセントである。日本はいつから経済的合理性だけで価値判断する社会になってしまったのか? このような社会では仕事がある人が「立派な人」であり、ない人は「駄目な人」である。その評価に能力はさして加味されない。加味されるのは、かってのような氏素性であり、学歴であり、コネである。これら諸相の直接的な原因は成長を続けてきた経済の行きづまりであるが、その根底には開拓すべき「新たな地平」が見つからないという精神的閉塞感が横たわっている。開拓すべき地平がなく、経済成長が見込めない社会では、もはや能力さえも必要とされないということであろうか?
永遠性の確立〜あの日のまま
 物質は時の経過とともに生々流転し変化は免れない。だが小説として文字で描かれた世界は時が経過しても何も変化しない。また絵画として図形で描かれた世界もまた時が経過しても何も変化しない。これらの世界は紙やカンバスに定着された「意識世界」である。 曰く、定着された意識は歳をとらない。さらに紙やカンバスを脳細胞に置きかえれば、記憶として脳に定着された意識世界は歳をとらないと還元される。 ゆえに定着された若き日の記憶の中では、貴方はいつになっても 「あの日のまま」 であって、未来にも、過去にも、どこにも往かない。 あるいは、ラ・マンチャの男(ドン・キホーテ)はそのことを知っていたのではあるまいか? それを抜きにして彼の 「永遠性の確立」 などありえなかったはずである。
人間の実存性
 世界は今、不確実性の世界に入り込んでいる。英国のEU離脱。米国の大統領選挙。ともに事前の予想からは大きく乖離した結果であった。 理由は何か? あらゆるものがコンピュータ化されたことによる社会の変質によるものか? はたまたあらゆるものに対する価値観が多様化したことによる人間そのものの変質によるものか? いずれにしても、今までのルールが機能しなくなってきていることは確かである。 では新たなルールとは何か? 状況を鑑みれば、論理に支えられた知性は力を失い、代わって現実的な実力行使が台頭していることが見て取れる。 「論より証拠」というわけである。 ニーチェが予言したしたように「神が死に」、今度は「知性までが死に至る」ということなのか? あり得ないような道筋ではあるが、今では充分にあり得る道筋でもある。人間にとって最高の資産とは「考える頭脳と思う心」であったはずが「考えない頭脳と思わない心」に変質してしまうとはいかなることか? しかしてそれが人類にとってみて進歩なのか、あるいは退歩なのか? 混沌として分からない。だが仮にこれが事実であれば、人類はそのことで崩壊してしまうのではあるまいか? しかしてその崩壊は人間の内部から外部から同時に訪れるように思える。人間としての知性や心を失ってしまっては、もはや人間とは言えない。その姿は迷妄する畜群のそれであり、魂を失ったゾンビ集団のそれのように写る。人間である以上、コンピュータに振り回されてはならないし、システムに脅迫されてはならない。 「否」という主体性は人間自らに存するのであって、コンピュータやシステムにあるわけではない。その地位は仮に天地が逆さになったとしても、決して失ってはならないものである。
科学と哲学
 科学で重要なことは解釈であり、哲学で重要なことは納得である。 より丁寧に言えば、科学は現象を客観的に観察することで得られた結果をどのように解釈するかを追求するものであり、哲学は人生を主観的に思考することで得られた結果をどのように納得するかを追求するものである。例えて言えば、アインシュタインの相対性理論から得られた科学的帰結である「空間は変形」し「時間は伸縮」するという現象をどのように解釈するかであり、 フッサールの現象学から得られた哲学的帰結である「現象世界は意識が編集した心象世界である」という観念をどのように納得するかである。 これらの解釈や、納得は、それほどに簡単ではない。「空間が、捻れたり、歪んだりする」ことや「時間が、伸びたり、縮んだりする」ことを、自らの頭脳をもって解釈できている人の数は驚くほどに希少であろうし、「目にする現象世界が、自らの意識が編集した心象世界である」ことを、自らの心をもって納得できている人の数もまた驚くほどに希少であろう。 だが、科学にして、哲学にして、その現象や、観念を、知っていること自体にはそれほどたいそうな意味はない。決定的に重要なことは、その解釈であり、その納得である。それなき科学や哲学は、魂が入っていない仏のように「無意味」であって、その追求はやがて「大いなる徒労」に逸する。
2 つの天秤
 この世を量る天秤には相対的な価値を判定する「人倫の天秤」と、絶対的な価値を判定する「宇宙の天秤」の2つがあることは度々論じてきたことである。そして今、世界は「人倫の天秤」1極だけの時代に入ろうとしている。言うなれば、すべては「人間が決めればいいのだ」という時代である。人間こそが全てで絶対だという価値観の台頭である。人類は気づかぬうちにいつの間にかはなはだ傍若無人になってしまったようである。だが人倫の天秤は「宇宙の天秤」の下に位置する天秤であることを忘れてはならない。米国のトランプ次期大統領がいくら「水は低きから高きに流れる」と声高に主張してみても永遠に流れることはない。それは宇宙の天秤に支えられた「絶対的真理」であって、一介の人間がどうこうできるものではない。人倫の天秤は「限定された村内」でしか通用しないはなはだお手盛りの天秤なのである。それは人間生活にまつわるこまごました雑事を推し量るものであって、その値は時として、場所として、生々流転してひとときも定まらない。したがって、この天秤隆盛が行き着く先は「朝令暮改の流行」である。予測不能なトランプ氏の行動にゆいつ予測可能なことがあるとすれば、かくなる「朝令暮改の行動様式」であろう。このような流れは米国にとどまらず今後は「世界の趨勢」になっていくであろう。結果、世界の津々浦々で誘起される諸事相の推移はこれからさらに「場当たり的」に、「変則的」に、なっていくであろう。他方、宇宙の天秤には多数決がない。ゆえに情実も打算も働かない。あるのは真実のみである。是も非もない非情な天秤ではあるが、宇宙の天秤を見つめるその眼差しは常に澄んでいる。
世界の変質
 世界は人間の予測を超える速度で変質している。その変質を人間自身が察知した時すでに世界はそこにはない。背景にあるのはコンピュータの進化と、それにともなった情報化の進展である。事態を簡潔に表現すれば、コンピュータの能力が人間の能力をすでにして超えているのではないかという仮説である。もしそうであれば、有史以来の人類の歴史において空前の出来事である。これが何を意味するのかを調査するにはコンピュータに「知られないように」、極秘裏に慎重に行われなければならない。事態はSF小説のごとくに馬鹿げているが、それが今、目の前にする現実の姿である。
本を読まない時代
 巷間、本を読まなくなったという嘆息が頻繁に聞こえてくる。その理由はさまざまあろうが、ひとことで言えば読む意味が見いだせないからであろうし、さらに付言すれば現代の社会システムそのものが本を必要としないからである。今まで本が担ってきた「知の習得」の手立ては、インターネットやスマートフォン等々の情報機器の普及で一変してしまった。これらの器機は本に較べて「内容が豊富」で、「項目選択がスピーディ」で、「携帯性に優れ」、「多機能」であり・・格段の優位性をもっている。これらの優位性をまえにして本を読めと言うほうが、あるいは無理な話なのかもしれない。むしろそれは必然の帰結であろう。今や本は「話題作り」のツールであって、各々が読むものではなくなってしまったのかもしれない。また本に求められていた「人生を知る」という最大の存在意義も現代社会の価値観の変質とともに低減してしまったのかもしれない。かって語られた人生の箴言はかっての社会システムでの有意性であって、現代の社会システムではその有意性はないとする感受性である。 新しき時代では新しき箴言が要求されるというわけである。
行きすぎた成功
 「選択と集中」という経営戦略が喧伝されたのは30年も前になろうか。米国GEのCEO、ジャック・ウェルチが採った戦略として瞬く間に世界中を席巻した。「選択と集中」とは、多角的に行っている事業のうち業界「No.1〜3」の事業に経営資源を集中させ、それ以外の事業は他企業へ売却、あるいは廃止等のリストラを行うという経営手法である。GEはこの手法を用いて事業再編と資源再分配を行い業績を飛躍的に向上させた。かくなる戦略は経営資源の集中にとどまらず、「富の集中」の原動力として機能し、同時に「勝ち組、負け組」という格差社会を拡大させる原因ともなった。「選択と集中」とは視点を変えれば「市場の占有(囲い込み)」である。囲い込みが自らを衰退させてしまうことは「囲い込み理論」で述べたことであり、大繁栄をとげた古生代生物、三葉虫(約 5億 7000万年前〜約 2億 5000万年前)絶滅の原因がその大繁栄(大繁殖)にあったことは「繁栄の代償」で述べたことである。今世界を覆っている不安と混乱と戸惑いとは、あるいはかくなる「行きすぎた成功」への違和感なのかもしれない。
詩心をもった人工知能
 顕微鏡は人間の視力ではとらえられない「微細な宇宙」をかいま見せてくれた。 望遠鏡は人間の視力ではとらえられない「遠方の宇宙」をかいま見せてくれた。 そして今、コンピュータは人間の頭脳ではとらえられない「複雑怪奇な宇宙」をかいま見せてくれようとしている。 複雑怪奇な宇宙とは「カオスと複雑系の宇宙」である。 コンピュータは膨大なデータをすばやく処理し、高度な計算も瞬く間に行ってしまう。 だからといって非線形的な詩心をもっているのかどうかは不明である。 言うなれば 「詩心をもった人工知能」 が実現可能かどうかである。

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