Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 6 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2011.12.09 〜 2014.11.05
危ういかな人間
 情報化社会とは自己喪失の社会でもある。人々が氾濫する情報に依存するにしたがい個人としての独自性(アイデンティティ)が失われていく。人間は限られた地域性(環境)の中で生活している。その限られた時空間で必要とされる情報は本来それほど多いものではない。だが現代社会ではその限られた生活環境で必要とされる以上の情報が供給される。その過剰分はいうなれば「蛇足」ともいえるが、単なる蛇足であればそれほど害はない。だが限られた生活環境が圧迫されるようになると話は別である。その蛇足は有害に転ずる。その害毒の様相は今やあちこちに散見される。目前の生活をさておいての意味なき情報収集、中毒症状を呈する間断なき他者との交信・・等々。ついには現実世界(リアル)としての生活環境は喪失し、意識のみが仮想世界(バーチャル)に住み続けることになる。「危ういかな人間」、自己喪失まであと一歩の距離である。
経済的理由
 原発再稼働を決めた野田首相の国民へ向けた会見での主旨は「動かさないことで発生する経済的なリスクを考え・・」というものであった。言うなれば経済的理由である。つまり、日本国民の命運は「経済的理由」で決まるということである。
人間の評価
 人間に対する評価があるとすれば、それは「彼は何をしたか」ではなく、「彼は何をしようとしたか」であろう。前者は「結果」であって、「過去」であり「完了」である。後者は「原因」であって、「未来」であり「過程」である。人間は今を生きているのであるから「何をしようとしているか」が大切であって、「何をしたか」はさほど重要ではない。
このろくでもない素晴らしき世界
 トミー・リー・ジョーンズ演ずる宇宙人が言う「このろくでもない世界、だが〇〇はいける」という缶コーヒーのCMは現代社会を風刺して秀逸である。宇宙人ジョーンズのムッとした顔つきが「この世界はろくでもないのだが、素晴らしい世界でもある」ことを我々地球人に気づかせてくれる。
評論家の限界
 社会の問題を抽出することはさして難しいことではない。難しいのはその解決方法である。
想像の限界
 農耕社会に生きた人々にとって飛行機で種を蒔いたり、機械で稲刈りするなどという工業社会を想像することはできなかったであろう。同様に工業社会に生きている我々にとって来るべき情報社会を想像することはできない。わかるのは情報社会が充分に進んでかっての工業社会をふり返ることができる時点である。その時、いったい何を使って種を蒔き、何を使って稲刈りしているのであろうか? ひょっとすると、かっての農耕社会のように、手で種を蒔き、鎌で稲刈りしているのかもしれない。それぐらい次なる社会を想像することは難しい。
賽の目
 NHK大河ドラマ「平清盛」にサイコロを使った「すごろく遊び」がしばしば登場する。「遊びをせんとや生れけむ・・」の歌とともにこのドラマを象徴するシーンでもある。清盛曰く、「すごろくとは面白い遊びだ、出る賽の目で次なる展開が一変する、この世のことは賽の目のごとく人知では計り知れないものである」云々。それは現代も同様であって、科学技術の粋を結集したスーパーコンピュータをもってしても「明日の株価」を言い当てることはできない。現代人が信奉する科学的合理主義も肝心要のところでは破綻しているのである。新たな哲学思想が必要とされる所以である。
人間の能力
 面白きことのなき世を面白く。この世はただ放っておいては面白いことはない。意味なく存在するだけである。この世に意味を与え面白くするのは人間のみがなせる仕業であり、万物の霊長と尊称される所以である。だがこの世に意味を与え面白くすることはそう簡単ではない。頭脳を明晰に保つとともに、常に活性化させていなければならない。人間の能力とはあるいはここに端を発するのかもしれない。
それは興行か?
 日本の政界は政権争いに奔走する日々である。彼らはいったい日本国をどうしたいのであろうか? そのようなことはもともと考えていないのか? それとも「政界」とは今人気を集めている「AKB 48」と同じエンターテインメントに類する「興行」なのであろうか?
考える葦
 この世に意味を与えるのは人間なのであるから自らの意味の与え方でこの世はどうとでも変わる。この世が無意味に思えるのは自らが意味を与えていないからに他ならない。言うなれば頭脳が働いていない証拠であって、頭脳が怠慢に逸すれば世界から意味が消失するのは当然の帰結である。「我思うゆえに我あり」とは「自らが何かを思う」ことで、「誰かが思ったことの何かを知る」ことではない。したがってIT機器を使ってあらゆる情報を集めたとしても、この世に意味を与えることはできない。「人間は考える葦である」とは葦自身が考えることであって、考えている葦の状況を考えることではない。いかに単純で、いかに些細なことであっても「自らが考えること」こそが、この世に重大な意味を与えるのである。
立ち尽くす明日
 亀山モデルを誇った液晶のシャープが苦境に立っている。日本の製造業が目指した「独自技術を高度に築きあげればやっていける」という金科玉条は今やその基盤がゆらいでいる。どこで道を間違えたのであろうか? ある評論家は国内製造にこだわったことが失敗であったと。人件費が安くて為替の影響をうけない中国等の国外で製造すればよかったと。もし、この論が正しければ、さらなる国内空洞化は避けられず雇用の回復などは望めない。かような状況の中で消費増税を目指す国家経営とはいったい何であろうか? 日本製造業は今、明日に向かって立ち尽くしている。
悠々自適とは
 先日、友人との歓談の中で「悠々自適」の話になった。60歳を過ぎて定年を迎える年齢になるとこの理想の老後生活をあらわすライフスタイルイメージが登場する。信州にはこの理想のライフスタイルを実現しようと都会から多くの熟年者がやってくる。高原に居住するもの、山麓に居住するもの、さまざまである。その誰もが「悠々自適」を自認し、幸せそうなのであるが、その風情はどこか装っているようで、なぜか寂しそうなのである。撮影で訪れた静かな湖畔の散歩道ですれ違った子犬を伴った夫人のかくなる「寂しげな風情」を話すと、寂しげなではなく「憂いにみちた表情で・・」と表現の訂正を求められた。彼はまだ「悠々自適」に若干の夢を描いているのである。寂しいは情緒であり、憂いは深い精神性であるというわけである。いずれにしても「悠々自適」とは、思い描くうちは夢と希望にみちた「愉しきライフスタイル」なのであるが、実現すると寂しさと憂いにみちた「哀しきライフスタイル」へと変じるもののようである。
のっぺらぼうな日本
 日本はTPPへの交渉参加を決めたようである。これで日本はますますグローバル化に向かって突き進むことになる。日本の特殊性はすなわち「日本らしさ」であって、それは日本文化や伝統の根幹を成すものである。TPPとは経済的合理性の名の下にその特殊性(地域性)を消滅させることを目的として考案されたものである。やがて日本の特殊性は解体を余儀なくされ、同時に日本文化や伝統もまた消滅していくであろう。後には何の変哲もない「のっぺらぼうな日本」がのこされることになる。
便利なだけで欲しいものなど何もない世界
 「便利なだけで欲しいものなど何もない世界」それは現代情報社会の実像である。この世界を生み出したものは近代の科学的合理主義であるが、人間の幸福を目指した科学文明が人間を虚無に導いてしまったとは何たる転倒錯誤であろうか。目をつぶってテレビを「聴いて」いると、流れ出る情報の無意味さに愕然とする。すべてはこんなに「簡単に」なりました・・すべてはこんなに「美味しく」なりました・・すべてはこんなに「愉しく」なりました・・すべては・・・。すべては必要であるというのだが、よく考えると必要なものなど何ひとつないのである。
希望だけはある
 昔の日本は貧しく何もなかったが「希望」だけはあった。今の日本は豊かで何でもあるが「希望」だけがない。中国では「無為自然」をもととする老荘思想(老子、荘子の思想)と「刻苦勉励」をもととする孔孟思想(孔子、孟子の思想)が時を置いて繰り返すという。国家政治の仕組みは大きな予算で運営する大きな政府と小さな予算で運営する小さな政府が時を置いて繰り返す。経済もまた景気の上昇と下降を時を置いて繰り返す。はたまた運さえも時を置いてついたりつかなかったりする。時の経過とともに万物事象が盛衰を繰り返すのは世の習いである。依って、次の日本は貧しく何もなくなってしまうとしても「希望」だけはあるということになる。
密度希薄な頭
 体が使わなくては強くならないように、頭もまた使わなければ強くならない。しかしながら昨今の現代人の頭はどうも弱くなっているように観える。これだけ情報機器が発達し、あらゆる情報に瞬時に接することができる現代社会において頭が弱くなるとはどうしたことか? 結論から言えば「頭を使わないから」である。情報を知ることと頭を使うことは似て非なるものである。朝からテレビの前で、あるいはコンピュータの前で情報を眺めていても頭を使っていることにはならない。体の筋肉が苦痛に耐えて鍛錬することで強くなるように、頭も苦痛に耐えて鍛錬しないことには強くならない。複雑なこと難しいことに向けて頭を使ってはじめて頭は鍛えられるのである。だが複雑なこと難しいことはコンピュータにお任せでは、人間の頭はますます軟弱化し、ついにはモヤシのように密度希薄な頭となってしまうであろう。願わくは、寒風に耐えて岩山にすっくと立つ青松のような頭ということになろうが・・さてその終着は如何に?
孤高のプレーヤ
 サッカー日本代表は昨夜、埼玉スタジアムで連続5回目となる2014年ブラジルワールドカップへの出場を決めた。最後は本田のPKであった。やはりこの男はただ者ではない。本田の強い気力はおそらく日本人の本質を見抜いているからであろう。日本人が信奉する権威主義の形骸化、モラルの脆弱さ、協調性をよそおったルサンチマン的な抜け目のなさ・・これらの無力を知っているからこそ、本田は孤高のプレーヤとして、自らの力を唯一無二と信じて闘っているのである。それはまた、かっての日本代表、中田の孤高に相通じるものでもある。
知と行
 人が体をもって行動するように、頭をもって人は行動する。陽明学を創始した王陽明は「知行合一」を唱えた。「知と行は一体であって、知って行わざるは知らぬと同じである」とする説である。現代人は行動も曖昧なら、思考も曖昧である。考えるように行動する者もいなければ、行動するように考える者もいない。当然にして行動も思考もともに現実に働きかける力を失ってしまった。現代社会は「力を失った行動」と「力を失った思考」の果てしないバトルロイヤルのような様相を呈している。
人生の企画書
 生きるのは「今の今」という刹那の宇宙であるが、人間が他の動物と異なるのは未来に向けた夢や希望がなければ生きられないことである。この夢や希望が何であるかを考えなくとも、すでにあるうちは人間は幸福である。だがこれがなくなってくると、生きるに必要な空気がなくなってきたように苦しくなる。人間が本当に生きるのはここからである。もし人間に必要な能力があるとするならば、この夢や希望を持ち続けることができる力である。もし優れた「人生の企画書」というものがあるとするならば、個々人自らが紡ぎ出した「手作り」の夢や希望に裏打ちされているかどうかである。
時代の進歩
 人類は「狩猟採集社会」→「農耕社会」→「工業社会」と生き方を変えてきた。そして今、情報社会に生きようとしている。イノシシを追って生活していた者には、畑を耕して生活する者の生き方が想像できない。同様に畑を耕して生活していた者には、ベルトコンベアでネジを締めて生活する者の生き方が想像できない。そしてネジを締めて生活していた者には、コンピュータを叩いて生活している者の生き方が想像できない。 これが「時代の進歩だ」と言うのだが ・・・。
根本的な違い
 情報社会が過去に人類が経験してきた「狩猟採集社会」、「農耕社会」、「工業社会」と根本的に異なるところは社会が基本とする対象物が、イノシシや麦や機械などの「有形なもの」から、情報という「無形なもの」に変わったことである。この形なき「もの」にいかにアプローチするのかが情報社会の課題である。有形なものは「昨日そこへ置いておいた」と言えば事足りるが、無形なものは「昨日確かにそこに置いておいた」と言えども、「どこに・・」と言われるのがおちである。
心凍らせて
 情報社会は姿形なき情報に基づいた社会である。「情報」という言葉は「意識」という言葉に、さらには「心」という言葉に置きかえられていく。とらえどころなきものをとらえるのがこれからの社会である。何処へ行ってしまうかわからない心をとどめるためには凍らせてしまおうという歌謡曲「心凍らせて」の歌詞は儚くも哀憐切実なる「かくなる努力」の一端をつたえている。 / 心 凍らせて 愛を凍らせて 今がどこへも 行かないように 心 凍らせて 夢を凍らせて 涙の終りに ならないように ・・・/
形を変えた侵略戦争
 「情報化」と並んで現代を特徴づける流れは「グローバル化」である。2つの流れは各々単独に存在しているのではなく密接に絡み合っている。その機能は相補的であって相互に補強しあっている。グローバル化とは「形を変えた侵略戦争」とみることもできる。20世紀にあった火力を使った戦争もまた多くは侵略戦争であった。だがグローバル化と銘打った侵略戦争の破壊力はかっての戦争の比ではない。地球の表面をまたたくまに燎原の火のごとく猛烈な勢いで焼き尽くしていく。グローバル化を侵略戦争だと言う人はいない。だが多大な惨禍と難民を発生させる結果そのものはかっての侵略戦争と何ら異なるところはない。また現代社会を難民社会だと言う人もいない。規模が大きすぎてそうと自覚されないだけである。
意味の消滅
 「戦後強くなったものは女と靴下」とは、女が弱かった頃のことであって、本当に強くなった現在では「死語」であると書いたのはいつのことであったろうか。また産業構造の変遷をとらえた「産業は労働集約型産業から設備集約型産業を経て知識集約型産業へと移行する」という表現もかってはもてはやされたが、本当に知識集約型産業が主流となった現在、「今は知識集約型産業の時代である」と言う人はいない。つまり、標語とはその内容が達成(実現)されていない時に意味があるのであって、達成されれば意味は消滅してしまうのである。人生の悩みもまた、悩んでいる問題が解決された時になくなるのではなく、問題そのものが忘れられ消滅した時に解決するのである。
機会利益と機会損失
 機会利益とは機会に遭遇することで得る利益とでも直訳できようか、その反対は機会損失である。今日本は2020年東京オリンピック招致に成功した高揚感の中にある。勿論、招致に成功したことによって発生する機会利益と同様に、招致に成功したことによって発生する機会損失もまたある。どちらを捉えるかは各々の立場や視点によって異なる。だが物理学の根本的法則である「エネルギ保存則」からすれば物理的エネルギ量は両者ともに同じであろう。違いがあるとすれば「気分」である。例えて言えば、この人と結婚して得た機会利益と、失った機会損失は「気分の違い」というわけである。
ビックデータとは
 コンピュータを基とした情報化社会が進行すればするほど情報データは幾何級数的に増加していく。今では「ビックデータ」と呼ばれる蓄積された膨大な情報データを社会に役立てようとする機運が高まっている。だが「社会学的不確定性原理」で述べたように、事態の変化速度が急速に上昇すると、とらえた情報がその時点ですでに陳腐化してしまっている。これは多大な労力をもってデータ収集に奔走したとしても日を置かずしてそれらの大半が「死にデータ(使えないデータ)」となってしまうことを意味する。そして情報化社会の進行速度があがればあがるほど、この割合もまたあがる。そのうち3日ともたなくなってしまうであろう。様相は1年前のデータを使ってとある会社に「○○課長さんをお願いします」と電話すると、「○○は3ヶ月前に退職しました」となり、「○○係長さんをお願いします」に「○○常務のことでしょうか」となったりすることになる。かくなる状況の中でビックデータとはいったい何を意味するのであろうか?
機会と人生
 機会利益と機会損失については以前に書いた。機会利益とは機会に遭遇することで得る利益、その反対が機会損失である。だが機会と遭遇することとは何か? それは人生そのもののようである。人間にとって最も根源的な機会とは、この世に生まれたことである。この根源的な機会には自らが選択できる余地はなかったはずである。だがその後において遭遇する人生の機会もまたよく観ると自らが選択しているように見えて、多くは与えられた機会であることが自覚される。人がそこで(空間)、そのとき(時間)、何に遭遇するかは「時空のめぐり逢い」である。そのめぐり逢いはその人のみの機会であって「唯一無二」のものである。日本の片隅にいる者が、同時に米国の片隅にいることはできない。同様に大工として生きる者が同時に首相として生きることはできない。できるのはいずれか一方である。これらを考えていくと、やがて両者の機会に優劣はないことが自明となる。なぜならば、一方の機会利益は他方の機会損失であり、一方の機会損失は他方の機会利益であるからである。それはまた「人間万事塞翁が馬」の真意でもある。
マッドマックス
 社会から人間に対する信頼感が失われつつある。この流れは経済の発展と逆行しているようにみえる。経済が発展すればするほど人間から信頼感が消えていくことはどうしたことか? かって人間には使命感があった。使命感とは「信義に応じてそれを為さなければならない」とする強い意思である。日本は今、経済的低迷から脱出しようと懸命になっているが、見据えるものは金銭的価値観に応じた経済的合理性のみのようにみえる。このまま進むと、都会は「東京砂漠」のような、田舎は「マッドマックス」のような、無機質で虚無的な殺伐たる風景に満たされてしまう。
※)マッドマックス / 1979年公開のオーストラリアのアクション映画。主演のメル・ギブソンはこの作品で世に出た。ストーリーはともかく作品の背景として描かれた近未来社会の風景が強烈な印象として脳裏にのこっている。世界規模の大戦争が勃発して文明は崩壊。宇宙進出をめざすなどとした人類の近未来の想像を根底から覆す 「殺伐とした描写」 は世界各地に衝撃を与えた。
厳然たる事実
 眺めている世界と実在している世界は同じではない。網膜に写る世界とカメラレンズに写る世界が同じであることは容易に想像がつく。だがそこから先の視神経から脳細胞を経由して眺める世界が実在する世界と同じかどうかは定かではない。そこには脳細胞が構成する意識というフィルタが介在するからである。さらにその意識フィルタは人それぞれ互いに異なっている。
 以上の思考展開は「私が眺めている世界は実在している世界と同じではなく、それはまた貴方が眺めている世界とも同じではない」という厳然たる事実を自明化する。我々はともするとこの事実を忘れている。それは人間が生きていくのに必要不可欠な空気の存在が忘れられている状況と同じである。おそらく忘れていても特段の障害が発生しないのは「予定調和」のたまものであろうが、時にはこの事実を思い起こして、「この世界」を眺めてみることも必要であろう。
まず光ありき
 精神と物質。仮想と現実。これらは紙の表裏であって、どちらか一方であっては紙にならない。それは物体と影のような構図であり、「影のように寄り添う」とは言い得て妙である。精神は物質の影であり、仮想は現実の影である。情報化社会は影である精神や仮想を主体にした社会であるが、あまりに偏ると影を投じた物質や現実が失われてしまう。影は物体あっての影であり、影があっての物体ではない。だが物体があっても照らし出す光がなければ影は生まれない。 「まず光ありき」 とは言い得て玄である。
情報化時代の価値観
 何事かを判断し、決断するために情報は必要であろうが、その情報があまりに多くなると決断することができなくなる。良いとする情報と、悪いとする情報が互いに50%であったとき(情報化が進むと大半がこのケースとなる)、あなたはいかなる判断を下すのであろう。検討に検討を重ねた結果、その決断を回避することに至るのではあるまいか? したがって、情報化時代の価値観は「中立(ニュートラル)」が主流になる必然性をもっている。白黒がはっきりした社会ではなく、中間色のぼんやりとした社会である。いうなれば、やる気があるような・・ないような、愉しいような・・愉しくないような、生きているような・・いないような社会である。
現代社会の核心
 それぞれが「他を出し抜く」ことに日々専心する営為こそが「現代社会の核心」である。それを「自由競争」という経済原理に変換することで事の本質を隠してしまっているのである。自由競争の裏には「生存競争」という事の本質が隠されており、生存競争の裏にはまた「弱肉強食」という事の本質が隠されている。 結局。 人間の社会とて他の動物の社会と何ら変わるところはない。それどころか「世界で最も危険な動物」とは人間そのものなのである。そしてその本性が加速度的に先鋭化しているのが現代という社会なのである。
山は動かず
 原始時代であればともかく、時間が加速度を増し世相のカオス化が著しい現代社会においては、焦ってあれこれやってみても効果はたいしたことはない。かえって後退していることのほうが多い。安倍さん(安倍首相)は何をあわてているのか? 経済が成長したからといって、必ずしも人間が幸福になるわけではない。それは便利さが向上したからといって、必ずしも幸福がもたらされるものでもないことと同じである。何かをしないことは、何もしないことではなく、大きな何かをすることである。戦国武将の武田信玄は山のように動かないことで、敵を恐れさせ、国を繁栄させた。だがその嗣子、勝頼は無闇に動いたことで敵に侮られ、国を滅ぼしてしまった。山が動いてしまっては、もはや山ではなかったということであろう。
何もしなくてもいい囚人
 かって世界は「可能性」に満ちていた。本を読み、映画を見て、人々は「やればできる」と思っていた。また現に多くはやればできた。だが現代はその可能性が減少し、なかなか見あたらなくなってしまった。本を読んでみても、映画を見ても、人々はやろうとは思わない。また現に多くはやってもできない。いうなれば人間としての可能性が低下しているのである。その原因は、人間がやる前に機械がやってしまうのであり、人間が考える前にコンピュータが考えてしまうからに他ならない。これでは「何もしなくてもいい」と宣告された囚人のごとくであって、つまらないことこのうえない。回帰への道は、ささやかであっても「自らやってみる」ことであり、たどたどしくも「自ら考えてみる」ことである。
あこがれが消えた街
 かって世界は「あこがれ」に満ちていた。東京は「花の都」と呼ばれ、人々はその「あこがれの都」をめざした。あこがれの東京が飽和すると、今度は、あこがれの「花の都」が、パリとなり、ロンドンとなり、ニューヨーク・・となっていった。そしてとうとう、めざすべき「あこがれの都」が見あたらなくなってしまった。現代人の閉塞感は、そこから発生している。あこがれとは甘酸っぱくもロマンに満ちたものである。今、あこがれを胸に秘めた若人はどのくらいいるのであろうか? あこがれが消えた街とは、華やかではあっても廃墟のようであり、あこがれが消えた野とは、美しくはあっても砂漠のようである。
謎の訪問者
 幹細胞の新たな製作法が若干30歳の女性研究員の手によって発見された。この幹細胞を「STAP細胞」と命名したとのことであるが、この方法は「iPS細胞」の製作法よりも自然であり、簡単であり、安全であるという。酸などのストレスを与えることで、なぜ細胞の初期化が起きるのかのメカニズムはいまだ分かっていないということであるが、人類はときとしてこのような発見に遭遇する。それは「瓢箪から駒」を地でいくような出来事である。こうしてみると、大きな発見とは人知を越えて何方からやって来る「謎の訪問者」のようである。理由はわからないが、それは「現れる」のである。同じように突然変異もまた、理由はわからないが突然に「起きる」のである。理由はわからないとしても、「現れたり」、「起きたり」したあとの世界は、その謎の訪問者によって大きな変化がもたらされることは「まぎれもない事実」である。
急ぎすぎ
 現代社会は「急ぎすぎ」である。新たな多能性幹細胞の製作法を発表して時の人となった小保方さんは今や非難の的である。コンピュータの速度があがったからといって、人間そのものが速度をあげる必要性などまったくない。人間がしなければならないことは、確かな「位置」と「方位」を知る、高い精度の「地図」と「羅針盤」を時間をかけて製作することである。地図と羅針盤のない航海など危険このうえない。下手をすると座礁転覆してしまう。常に視野を広くして、多くの選択肢を用意することこそが肝要なのである。
形骸化
 空海は隠された宇宙の真理に到達する方法を自ら発見して、その方法を信じた。彼が理解力に優れた頭脳を有していたことは疑いない。だが最も優れていたことは、明晰な理をもって突き詰めた結論を信じたところにある。現代人は複雑なことを考えて理論化するが、その理論によって導き出された結論を信じているかどうかは疑わしい。信じている「ふり」をしているだけかもしれない。そのような結論が、人間にとって「何の意味」があり、宇宙にとって「何の意義」があるのかわからない。その構図を簡潔に表現すれば、「仏作って魂入れず」ということになろうが、魂の入っていない仏の意味や意義を、どのように問うことができるのであろう? 形骸化とはまさにかくなる状況をいうのであろう。 他方。空海の方法は世にくまなく普及し、1200年余を経た今もなお、四国八十八ヶ所の霊場をめぐる巡礼者の列はあとをたたない。
時代を越えて生きるもの
 レイモンド・チャンドラーの代表作「長いお別れ」を「ロング・グットバイ」の題名でNHKがテレビドラマ化、今日からオンエアするという。物語の私立探偵、フィリップ・マーロウは、時代の流れに逆らい、ロサンゼルスの片隅で、孤絶したように生きている。時代が変質していってしまっても、ひとり信じた道を頑なに貫いて生きているのである。だが、そのことによって時代を越えて永遠のものとなった。60年以上たった今もなお、それは色あせることなく生き続けている。 他方、時代の変質におもねったものは、時空の彼方に消え去ってしまい、今は何ひとつ残っていない。つまり、時代を越えて生きるものとは、時代に「おもねり迎合したもの」ではなく、時代に「逆らい抵抗したもの」なのである。
 If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.
     “ タフじゃなくては生きていけないが、やさしくなくては生きている資格がない ”
一輪の花
 情報化社会は全体への参加を呼びかける。呼びかけるまでもなくさまざまな手法で勧誘する。その中で、いつしかひとは我を忘れて、その全体性の中に埋没してしまう。全体性の価値観こそが、唯一の真実と思ってしまい、足下で咲く一輪の花を忘れてしまうのである。片隅で咲く一輪の花は、宇宙全体と対峙しているのであって、その他大勢の中のひとりでは決してない。
一将功成りて万骨枯る
 この世の成否が「人間の欲」と「宇宙の理」の対決構造に還元されることは以前に述べた。この対決構造はまた「経済」と「科学」の対決構造に置換される。経済学とは多く人間の欲について研究したものであり、科学とは多く宇宙の理について研究したものである。今や経済学の隆盛はめざましく他の追随を許さない。哲学も文学も芸術もまたたくまに経済学に飲み込まれていく。それはあたかもブラックホールのごとき貪欲さであって、まごまごすると科学さえも飲み込みかねない勢いである。 「一将功成りて万骨枯る」 とは言い得て妙である。
権力と金力の限界
 この世は権力や金力で自由になるように見えて、その実、よく考えてみると、1個の生物にとってはそれほど自由ではない。世の権力者や金満家がいくら自由になるからといって、身を超えて横暴を極めれば、たちどころに災いはその身に及んでくる。同様に自由になるからといって、身を超えて過食不養生に終始すれば、高いツケがその身に回ってくる。かくタンタンと生きることはなかなかに難しい。放置すれば欲に駆られてガツガツと生きることに逸してしまう。 しかるに・・現代人はそのことを知ってか知らずか、この身の破綻に向けて驀進中である。この世で栄華を極めても、それは「張子の虎」のごとく空疎であり、「砂上の楼閣」のごとくに空虚である。1個の生物にとっての自由はそこにはないのである。
最高の資産とは
 この世における最高の資産は 「考える頭脳と思う心である」 とは長きに渡る研究開発の日々の中から私が得たひとつの確信である。この資産が優れていることは、場所をとらないことであり、誰からも盗まれないことであり、固定資産税や相続税がかからないことであり、移動に費用がかからないことであり、使っても減らないことであり・・およそ他の資産とは比較にならないほどに優位性を秘めている。この世における最高の資産と確信する所以である。 ただひとつ惜しむらくは、資産の評価額が人によって変動し確定しないことである。玉なのか石なのかは、その人が「どう考え」、「どう思う」かにかかっているのである。 「打ち出の小槌」も振りかた次第といったところであろう。
想像の翼
 人は想像することで天高く翼をひろげることができる。かく人間に必要なことはこの想像力である。想像力は創造力となり、物的な現実世界を変えていく。現実世界を変えなくとも「その力を秘めている」だけで、人間は充分に魅力的である。人はその想像力に引きつけられるのである。想像力はまた「夢」という言葉に置きかえられる。夢もまた現実を変えていく力を秘めている。ゆえに夢がない人よりも、夢がある人のほうが充分に魅力的である。夢はまた「憧れ」という言葉にも置きかえられる。同様に憧れがない人よりは、憧れがある人のほうが充分に幸せである。
お願いします
 世はお願い事だらけである。右も左も「お願いします」のオンパレードである。謙譲の精神は日本古来からの美徳ではあるのだが ・・。 状況を素直に考えれば、「お願いします」とは、物事の主導権はこちらにはなく、すべては相手の思いかた次第という従属的な立場を表明している礼句である。存在の価値から考えれば、相手が考える価値が価値の基準であって、こちらにはその基準がないという構図である。日本人はいつのまにか相手の意向だけを斟酌する集団になってしまったようである。価値とは「必要性」から生まれる。斟酌すべきはこの必要性であって、「相手の意向」ではない。もっとも相手の意向もまた最終的には必要性に則っていることには違いがないが、自の主体性を放棄した「お願いします」では、何の価値も生まれない。だが問題は、現代社会ではかくなる必要性そのものが喪失の危機に瀕していることである。がゆえに思考停止した「お願いします」しか、為すすべがないのだと、提起は再び冒頭へ回帰してしまう。 回避するためには、次なる「価値とは何か」という根本的命題を考え直さなければならないが、それを可能にするのは自らに課せられた「主体性の回復」以外の他に道はない。
人間は進歩したか?
 利便性に包まれた現代人の生活も「想定外」と呼ばれるような異常事態にはかいもく非力であって抵抗力がない。このような近代社会がはたして進歩した文明と言えるのであろうか? 確かに身の周りを囲む自動車、コンピュータ、家電製品等々の進歩はめざましいものがある。だがそのことと人間そのものの進歩とは直接的には関係がない。スマートフォンを手際よく操作できるからといって人間そのものが進歩したと自慢してみても詮無いことである。それどころか忍耐力は低下し、思考力は劣化し、想像力は枯渇し・・鉛筆では文字さえ書けなくなりつつある。このような状況をもって現代人がいかにして進歩したと言えるのであろうか? 進歩したのは利便性という名の道具であって、それらの進歩をもって人間そのもが進歩したと錯覚しているに過ぎない。逆に原始人が道具としての石斧や棍棒を振り回していたからといって、現代人より劣っていたとは断言できない。無から有を生み出す能力たるや現代人の追随を許さないであろうし、危機的異常事態における決断力はもとより、忍耐力、思考力、想像力・・等々。いずれの力をもってしても現代人は原始人に、はるかに及ばないであろう。
衣食足り過ぎて礼節を忘れる
 「衣食足りて礼節を知る」は、物的豊かさが不足していた時代には妥当なことわざであったが、過度に満たされてしまった現代では、「衣食足り過ぎて礼節を忘れる」かの様相を呈している。「過ぎたるは及ばざるがごとし」、ことわざはことわざをもって駆逐されるのである。打開の道は「価値観の転換」である。表裏一体の理に従えば、表でなければ裏であり、それは「精神的豊かさの追求」になることは必然の帰結であろう。経済の成長が必ずしも精神的豊かさをもたらさなかったことは、現代の社会世相を眺めれば誰しもが認めるところであろう。
脈動する心
 神戸市長田区の少女行方不明事件。少女が遺体で発見され近隣の男が捕まり事情聴取をうけているという。近代化した現実の「光」にはまた人知れない現実の「影」が横たわっている。陥穽に落ちた人間の心の闇は限りなく深い。GDPの数値はこれらの影や闇について何も語ってはくれない。姿なき数字に縛られた人間の心は化石のように干からび有機物としての生命を容赦なく切り捨てていく。今必要なものは有機物としての 「脈動する心」 である。
御嶽山
 御嶽山の噴火災害はまことにもって不条理な出来事である。おそらく入山した登山者の誰一人として、そのとき御嶽山が噴火するなどとは思っていなかったであろう。生死を分けたものとは、そのとき御嶽山に登っていたことであり、より言えば山腹の何合目にいたかである。なぜにそこにいたのかを問うてみても答えはない。ゆえに不条理なのである。かってとある法事で同席した僧侶にこの不条理について尋ねたことがある。「さまざまな事故や事件で不慮の死をとげる人の生死を分けた理由を仏教ではいかに説いているのでしょうか?」しばらく考えたあと「・・わかりません」と誠実に答えてくれた。善行には善の、悪行には悪の報いがあるというのだが、この世はそう単純ではない。善行、悪行に関係なく不慮の死は容赦なく訪れる。それは本能寺で信長が発した「是非もない」のごとくである。理由を現代人が崇拝する科学的合理主義に問うてみても答えが得られることはない。不条理とはそういうことである。これらの是非なく訪れる不条理に、人としてできることは、唯一 「祈る」 ことでしかない。ゆえに原始いらい、人は時に応じ、事に応じて祈ってきたのである。他の生物が「祈る」かどうか知るよしもないが、人は祈ることによって人であり得て、よっていかなる不条理をも乗り越えていく力を秘めているように私には思えるのである。山上で遭難したひとりひとりの最後の祈りが 「あらゆる不条理を超えていくもの」 であったことを願わずにはいられない。
人は死して何を残すのか
 虎は死して皮を残すと言われる。その鮮やかな毛皮は百年の歳月を経てもなお色あせることなく昨日まで生きていたかのようである。人は死していったい何を残すのであろう。曰く、名を残すと。曰く、財を残すと。だが、どうも虎以上に誇れそうなものは見あたらない。生涯を粗衣粗食にして渡る風のように生きた良寛和尚は 「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉」 という辞世の歌を残した。それは自然を友とした和尚が万物事象の中に残した清々粛々たる風韻の記憶である。

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