Linear ベストエッセイセレクション
秘密曼荼羅と量子論
Turn
 
内なる宇宙の大を図る〜即身の道
 真言密教を創始した弘法大師空海は 「即身の思想」 を説いた。 即身とは 「意識と身体を融合させる」ことである。 換言すれば 「想像と現実を融合させる」 ことである。 さらに還元すれば 「自らと宇宙を融合させる」 ことである。
 では自らの想像が現実と融合しないのはなぜか?
 この 「なぜ」 を考え始めることこそが、実に即身への最大にして最強の障壁である。 それは 「仏になろうとした最澄」 が採った 「修行の道」 の糧が 「なぜを問う」 ところを拠り所にしているからに他ならない。 その道はどこまでいっても 「自らが仏であるとした空海」 が採った 「即身の道」 とは交差しない。 仮に想像と現実が融合しないとする原因を探し当てその原因を修行によって克服したとしても 「融合が達成」 されるかの見込みはない。 なぜなら、ひとつの 「なぜの解決」 は新たな次なる 「なぜの始まり」 であって、その追求は尽きることがないからである。 空海はかくなる 「なぜの無限循環メカニズム」 の陥穽に気づいたのではあるまいか? 曰く。 この道では 「人は救われない」 ということを。
 空海にすれば、自らの想像と現実は 「すでにして融合している」 のであって、ことさら修行するまでもないことであった。 だが空海の 「即身の道」 は科学的合理性で思考が拘束されている常識人にとって納得することは 「至難の業」 であろう。 何の根拠も無しに、想像と現実が融合していることを 「信じなさい」 と言われても 「はいそうですか」 と納得する人は希なる者であろう。
 だがそれを超えて行くところに密教の奥義がある。 空海にしても、科学的合理性にまったく無知であったわけではない。 史実は優秀な土木技術者であり、建築家であり、能書家であり、芸術家であり、あらゆる技芸に通じていたことを伝えている。 その空海にして 「即身を説いた」 のである。 「なぜ」 を考えなかったはずはない。 何らかの方法をもってその 「なぜを超越」 したのである。
 その方法こそが、真言密教の極意である 「大いなる秘術」 なのであろうが、空海滅後1200年に至ろうとする今も尚、それを 「かくある」 と衆に啓示できる大師は現れていない。 空海の前に空海なく、空海の後に空海なし、ということであろうか?
 人間とは 「自らの外にある宇宙の大を図ろう」 と生涯に渡って粉骨砕身の努力をする者であろうが、かくなる試みに成功した者がいることを、寡聞にして、私はいまだ聞いたことがない。 空海の叡智は、そのことの不可能を悟ったうえで、表から突破できないなら裏からと 「発想を転換」 したことにある。 密教の奥義はそこにある。
 だがそのためには 「表である物質主体の現実世界」 と 「裏である意識主体の想像世界」 が 「同じもの」 であるとする 「意識跳躍」 を必要とする。 その跳躍のために要した修行は空海にしてなみたいていのものではなかったはずである。 だがそれを超克して遂に 「自らの内にある宇宙」 に跳躍する 「即身の道」 を拓いたのである。
 「自らの内にある宇宙の大を図る」 ことは、要領さえ習得すればそう難しいことではないであろう。 だが簡単なことこそ難しいのもまた事実である。 「大いなる秘術」 とは、そのようなものであるはずである。

2024.08.09

 
秘密曼荼羅と量子論〜永遠の生命
 空海が創始した真言密教の 「秘密曼荼羅の世界観」 は現代理論物理学が語る 「量子力学の世界観」 を観るようである。 密教の中心仏である大日如来は 「宇宙仏」 であるといわれる。 その宇宙を体現した大日如来を空海は 「零(0)」 であるという。
 それは 「最大であるとともに最小である」 という。 その構造はフランスの数学者、ブノワ・マンデルブロがいう 「細部は全体であるとともに全体は細部である」 とする 「宇宙のフラクタル構造」 に相似する。 さらに 「どこにもいてどこにもいない」 という。 その構造はシュレジンガーの波動理論がいう 「あらゆる場所に存在して、またあらゆる場所に存在しない」 とする 「宇宙の量子構造」 に相似する。 存在としての量子は 「波動と粒子の二重性」 をもっていて、意識的観測が成されるまでの量子は 「波動性をおびて」 宇宙空間の全域に広がり、そのどこにも存在し、かつまたどこにも存在しない状態である。 だがひとたび宇宙の局所で意識的観測が成されるや 「粒子性をおびて」 宇宙空間の局所(そこ)にしか存在できない。 空海が唱えた 「仏として生きる」 とする求道精神は、これらの量子性を体現したものであろう。
 生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 を書き終えた空海は、承和2年(835年)、62歳で高野山奥の院に入定(永遠の瞑想)した。 入定に先だち 「私は兜率天へのぼり弥勒菩薩の御前に参るであろう、そして56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する」 と弟子たちに遺告した。 弥勒菩薩とは、釈迦の弟子で、死後、天上の兜率天に生まれ、釈迦の滅後、56億7000万年後に再び人間世界に下生し、出家修道して悟りを開き、竜華樹の下で三度の説法を行い、釈迦滅後の人々を救うといわれている菩薩である。 空海は若き日より兜率天の弥勒菩薩のもとへ行くことが生涯の目標であった。
 以来、現在に至るまでの 「1200年間」 に渡って、空海は 「どこにもいてどこにもいない存在」 として、生き続けてきたのである。 56億7000万年後に必ずや弥勒菩薩とともにこの世に下生すると遺告した空海であってみれば、これから先も尚、「どこにもいてどこにもいない存在」 として生き続けることであろう。 すべては彼が画した 「即身」 のなせる業であるのだが、ここまでくれば、もはや 「永遠の生命かくあるか」 と称賛するしか他に言葉がない。

2024.08.10

 
究極の自由とは〜宗教と哲学の邂逅
 秘密曼荼羅の世界を永遠の生命として生きた、空海の 「どこにもいてどこにもいない」 とする生き方は 「究極の自由」 を体現したものであろう。 あらゆる拘束から脱した自在無礙を目指せば、かくなる生き方に漂着することは、空海にとってみれば 「必然の帰結」 であったにちがいない。 それはまた、即身の道の 「終着点」 でもあった。 存在を求めず ・・ 完成を求めず ・・ しかして、時間と空間をも超越した躍如たる 「空海の風景」 である。
 以下の記載は 第220回 「永遠回帰と無限変身」 からの抜粋である。
 永遠回帰は哲学者ニーチェが人生最後に行き着いた思想である。 我々は同じ人生を何度も何度も繰り返す。 二度と経験したくないつらいことも、この上なき至福の時も何度も戻って来る。 時間は円環を成し、未来に向かうと過去に至り、過去に向かうと未来に至る。 物事は永遠に回帰し、やがて再び戻って来る。 ニーチェは 「時よ止まれ、この幸福よ永遠なれ」 と一度でも願ったことがあれば、その人は永遠回帰を認めたのだと言う。
 円環を成す時間構造は、そう願った至福の地点に、未来に向かっても、過去に向かっても、ともに再び回帰して来る。 このニーチェの永遠回帰の思想は、人間の 「時間の束縛」 からの脱出であると、ニーチェ哲学の研究者で私の盟友でもある関西学院大学社会学部教授、宮原浩二郎は言う。 さらに彼は 「空間の束縛」 からの脱出としての 「無限変身」 という思想の可能性を提示する。 この永遠回帰と無限変身の2つの思想によって、人間が決定的に拘束されている 「時間」 と 「空間」 からの離脱が可能であるとする。
 我々が 「このようである」 という存在性は、突きつめると 「空間の束縛」 に至る。 私が日本にいて、私がこのような名前で、私がこのように生きていることとは、つまりは空間の束縛のなせる業である。 もし私が他の何者かに変身できるとする。 例えば哲学者ニーチェに、あるいは詩人ハイネに、また犬や猫に、そしてスーパーマンにと無限に変身できるとするならば、もはや空間の束縛は存在しない。
 ニーチェはイタリアの北部ポー河の畔、古都トリノで精神崩壊に至った。 宮原教授はニーチェがこの精神崩壊に至る人生最後の過程で、彼自身の身をもって、この無限変身の状況に帰着していたのではないかと言う。 もしそれが事実であるならば、彼は 「永遠回帰の思想で時間を突破」 し 「無限変身の思想で空間を突破」 したことになる。 時間と空間の束縛から解放されることが、人間にとって究極の自由と自立であるならば、彼の哲学はその究極に行き着いたことになる。
 ニーチェの身に起きた精神崩壊という現象は、単なるニーチェ自身の遺伝子が背負った精神病理質に起因した現象であったのか? はたまた、妥協を許さない厳しい彼の哲学が至らしめた時間と空間の超越現象であったのか? 永遠の時空の彼方にニーチェが去ってしまった今となっては、これもまた 「永遠の謎」 である。 (2002.10.28)
 今思えば、空海の 「即身の思想」 が行き着いた 「究極の自由」 は、哲学者ニーチェの 「永遠回帰の思想」 や、宮原教授の 「無限変身の思想」 が行き着いた 「究極の自由」 と根底で一致するものであったのだ。 別々の道をたどって、宗教と哲学が同じ地点に至るとは 「何とも不可思議な邂逅」 であって感慨無量である。 曰く、「どこにもいてどこにもいない」 とは 「無限変身の実体」 を表していたのである。

2024.08.19

 
即身の完成
 空海が創始した真言密教の中心概念は 「即身成仏」 であるとされる。 即身成仏とは、人間が現世で受けた肉体のままで仏となることと訳される。 だが私が言う 「即身」 とは 「身の内なる意識としての想像と身の外なる物質としての現実が一致する」 ことである。 そのような解釈が真言密教にあるわけではない。 かくなる解釈は、空海の足跡をたどることで知り得た書物や事跡を総括する中から、私が独自に創った概念である。 しいて言えば 「そのように解する」 ことで、空海が目指した 「なにごとか」 がより明確化され、もって私自身が得心させられるからに他ならない。
 だが想像と現実を一致させることが 「即身である」 と言われても、何を意味しているのか不明であるにちがいない。 それをより分かるように具体例をもって話をすれば、以下のようになるのだが、どうであろう?
 記憶に残る歌手には 「この一曲」 という歌唱がある。 それは歌が上手いということではない。 その歌手とその歌唱が完成しているということである。 たとえばそれは、居酒屋で歌っている酔客のカラオケが、ちっとも上手くないのになぜか完成しているように感じられるようなものである。 そこには想像と現実が一致した即身が実現しているのである。
 ここでいう想像とは、歌手がその曲に抱く想いであり、現実とは、それによって生まれた歌唱である。 時として、その想いと歌唱が現実として 「完璧に一致する」 ことがある。 その歌唱が永遠の時空に昇華し 「記憶に残る一曲」 となるのは 「即身が完成」 した証である。 かくこのように、即身は 「宇宙の局所」 でさまざまに発生する。 但し、あなたの想像と現実が完全に一致した場合にのみという条件付きではあるのだが ・・ 畢竟如何。

2024.08.21


copyright © Squarenet