Linear ベストエッセイセレクション
物質と空間
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時空間から物空間へ
 宇宙を 「時空間」 と呼ぶのは物理学では既定となっている。 しかし時間も空間もともに形無きものであって、存在を証明する根拠は人間が付帯する 「意識」 でしかない。 時間も空間も在るといえば在るし、無いといえば無いようなものであって、言ってみれば 「幽霊」 のような存在である。 幽霊がいるかいないかについては判断が分かれるところであるが、いると思えばいるし、いないと思えばいない。 それは般若心経が説く 「色即是空 空即是色」 のように、「有ると思えば無く 無いと思えば有る」 というような難解な存在感である。
 私は宇宙を呼ぶにおいて 「形在る物質」 と 「形無き空間」 で構成された 「物空間」 を推奨する。 「物質が空間と時間を発生させる」 は、私がとある中学校で講演した講演録からの抜粋である。
 以下の論考は物空間の 「物理学的意味」、「芸術的意味」、「社会学的意味」 を描いたものである。 宇宙を時空間から物空間へと思考転換したことで 「見えてきた世界」 が、いかなるものかをご理解いただければもって幸いである。
物空間の物理学的意味
 空間と物質は宇宙構造における基本的構成要素である。
 我々は通常、物質と呼ばれる 「物体」 が、空間と呼ばれる 「容器」 の中に存在していると考えているが、この容器がいかなる大きさで、いかなる形をしているのかを眺めた人はいまだにいない。 この容器を確定するためには、「宇宙の果て」 と呼ばれている容器の外殻の状態を明確にしなければならないが、いまだこの宇宙の果てを解明した者はいないのである。
 外殻(大きさと形)が判然としない容器を、はたして容器と呼べるのであろうか?
 もしも宇宙にたった1個の物体しか存在しなかった場合、そのたった1個の物体の周りに空間が存在するとする根拠は、いったいどこから生まれるのであろうか?
 それは 「在るとも」 言えるし、また 「無いとも」 言える。
 次に物体が2個存在した場合を考えると事情は異なってくる。 2個の物体の 「間に」 空間が突如として生まれるのである。 さらに物体が3個存在した場合、3個の物体相互の 「間に」 空間が次々と生まれる。
 つまり、物体の数が増加するに従って、空間は増殖的に生まれていくのである。
 天文学者は次々と高精度の望遠鏡(光学式、電波式等)を開発し、次々と遠くの物体を発見する。 この発見で宇宙空間は次々と広がっていく。 今までは何もないと考えられていた宇宙の各所で、ある物体(星団、星雲など)が発見されると、宇宙空間はそこまで広がるのである。 換言すれば天文学者とは、宇宙空間を発見し、宇宙空間を広げる人と言ってもよい。
 空間と物質の発生における主と従は、物質が主で、空間は従であり、「物質が空間を発生させる」 と考えた方が妥当である。 つまり、空間は容器ではなく物質に付着した付帯部品である。 その物質がそこに存在するがゆえに、その物質における付帯空間が発生しているのであり、その物質が消滅すれば、同時にその周りに発生していたその付帯空間もまた消滅するのである。
 無から有への発生過程は量子論物理学者ディラックが説明するところである。 無から発生する有は 「ペア粒子」 と呼ばれる。 ペア粒子は 「電子(物質)」 と 「陽電子(反物質)」 のペアで構成されており、この宇宙において単独(つまり、電子のみの状態、あるいは陽電子のみの状態)では存在することができない。 生まれるのもペアであれば、消滅する時もまたペアなのである。 ペア粒子の消滅は 「対消滅」 と呼ばれ、この時に光りを発する。
 ディラックのペア粒子の構造から空間と物質の宇宙構造を考えれば、物質である電子が物体であり、反物質である陽電子が空間と対比還元され、さらに物質と空間はペアであり、単独ではこの宇宙に存在できず、一方が消滅すれば同時にもう一方も消滅すると還元される。 つまり、「物質と空間の対消滅」 である。
物空間の芸術的意味
 現代人はもの(つまりは物質)への執着は強いが、ものの周りに存在する空間への執着は希薄である。
 現代社会において、次々とものを創り出すという人はあまたいるが、次々と空間を創り出すという人は希少である。
 松本出身の前衛画家に草間弥生がいる。 彼女の作品 「かぼちゃ」 は特に有名であるが、先日画商をしている友人からおもしろい話しを聞いた。 彼女(草間)はかぼちゃを描こうとしているのではなく、黄色や赤色や青色のカンバス地に、黒色の丸斑点で空間を描いているのだと言うのである。 黒色の丸斑点で多くの空間を描いた 「結果として」 黄色や赤色や青色の 「かぼちゃが現れる」 のだと言うのである。
 常識的に考えれば、我々が絵を描こうとする場合、物体を描こうとしているのであり、その周りの空間を描こうなどとは考えていない。 草間の例で言えば 「かぼちゃを描こうとする」 のである。 画家の視点は物体であるかぼちゃに向けられており、描かれなかった余白が、結果として空間として残されるのである。 そして、あまりに余白が多いと作品が未完成と感じられるため、その余白をさまざまなもの(物体)で埋め尽くし、空間をなくそうとするのである。
 近代日本画の逸材、菱田春草は信州飯田の出身である。 春草の師は東京美術学校(現東京芸術大学)を創始した岡倉天心であり、岡倉の下には春草のみならず、明治画壇の四天王と呼ばれた横山大観、下村観山、西郷孤月等が集まっていた。 岡倉はある日、春草等に 「空気を描いてみたらどうか」という天啓を与えた。 かかる飛躍的天啓を直観するところが岡倉天心の天心たる所以であり、また偉大さでもある。
 天心はものの周りの空気を描かせることで、それまでのものを描こうとする視点から、空間を描くことで結果としてものを描くという視点に180度転換することを画したのである。
 かかる天啓に春草は最も鋭敏に反応した。 その後 「空気はいかに表現可能であるか」 を日夜悩むことになる。 まず最初にものとものの間の空気を、霞や、霧や、雲などの気体(それでもまだ物質)を使って表現したが、その手法は 「朦朧体(もうろうたい)」 と蔑称されるに至り、評価を得ることができなかった。 霞や、霧などの気体を使って空気を表現しようとすると、どうしても絵が濁って暗くなってしまうのである。
 春草はかかる悪戦苦闘の研鑽の中で、ついにはものが見えない程の重度の網膜炎に罹ってしまう。 だが師である岡倉天心の 「絵はこころで描くもの」 という言葉に励まされ、ついにはその濁りと暗さを突破し、名作 「落葉」 を完成させ、36歳の若さでこの世を去った。 私はいまだその実物を目にしたことはないが、写真で見ても赤や黄色の鮮やかな落葉が閑寂な林間の空気の中にみごとに描き出されていることが見て取れる。 濁りや暗さは微塵もなく、しかしてその物体と物体の間には、深閑とした空間が凛として存在している。 天才春草にしてはじめて、生涯の最後に、空間を描くことに成功したのである。
 下村観山は人物画にその天賦の才を遺したが、描写しようとする人物がたどった人生の転変をくまなく知ることなしには絵筆をとらなかったという。 観山が描いた人物画には、単なる人物の物体描写ではない、かかる人物の人格、個性、気迫などの空気までが描写されている。 言うなれば、かかる人物の内面が描き出されているのである。 観山は観山独自な手法で、ものでない空気(つまりは空間)を描くことに終生の画業を費やしたのである。
 「麗子像」 で有名な岸田劉生もまた 「内面の美」 を描こうとした。 岸田も観山同様に、ものよりも空間を描くことに情熱を傾けた画家である。
 蛇足ながら物質と空間の視点で、日本画と洋画の比較に関する私見を書き添えれば 「洋画は多く物質」 を描き、「日本画は多く空間」 を描いている。 洋画の画面には余白は少なく、日本画の画面には余白が多い。 日本画で描かれる花鳥風月は空間にとけ込み、洋画で描かれる石積の城郭は空間を圧する。 東洋文化は空間を基とし、西欧文化は物質を基とする。 文明の Pairpole である。
物空間の社会学的意味
 人類は狩猟採集社会→農耕社会→工業社会を経て、現在、情報社会への移行を試みている。
 たどったそれまでの社会はすべて 「物質を基本」 とした社会であり、21世紀に至って初めて物質ではない情報という 「空気のようなもの」 を基本とする社会に入ろうとしているのである。
 前項の 「空間と物質」 で述べたごとく、物質でないものとは反物質であり、しかしてそれは空間である。
 以上から考えれば 「情報と空間は等価的」 である。 つまり、情報社会とは反物質的社会であり、それは言うなれば 「空間的社会」 と還元される。
 空間的社会などという表現では、いったい何を意味しているのか意味が不明であろうが、前項の例で考えれば、空間とは菱田春草が描こうとした物体の周りに漂う 「空気」 であり、下村観山が描こうとした人物が秘めた 「内面的人格」 であり、岸田劉生が描こうとした物体が内蔵する 「内面的美」 である。 より簡潔に言えば「雰囲気」である。
 つまり、情報社会とは空間的社会であり、それはまた 「雰囲気的社会」 である。
 現在の日本社会は工業社会から情報社会への時代転換にともなう世相の混乱に喘いでいる。 しかしてその脱出への対応策は 「構造改革」 であり、「リストラクチャリング」 である。
 だがこれらの対応策はいまだ物質的視点に立脚したものであり、構造改革とは物質の秩序配列の改革であり、リストラとは物質の足し算と引き算である。 これらの対応策は、いまだ菱田春草が、下村観山が、岸田劉生が 「物質を描こう」 としているに等しい。 大切なことは 「空間を描く」 ことであり、結果として空間の中から 「物質が現れる」 ようにすることである。
 物質の足し算と引き算であるリストラ策を実施しても、本当に必要な物質が残るのかどうかは保証の限りではない。 空間を創造することで結果として現れた物質こそが、真に必要不可欠な 「もの」 なのである。
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 僕らは すべてを 死なせねばならない
 なぜ? 理由もなく まじめに!
 選ぶことなく 孤独でなく ・・・
 しかし たうとう何かがのこるまで
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 夭折した詩人、立原道造の詩の一節である。 空間を追求すること、空間を創造することの何たるかをよく描いている。 とうとうのこった 「何か」 こそ、この世における必要不可欠な 「もの」 なのであろう。
 我々は生きるにおいて、多くの 「もの(物質)」 を追求しすぎたのではなかろうか?
 巷間口にする、こうあるべきである、こうでなくてはならぬ等々は、すべては物質の足し算と引き算であり、よくて物質の変形(デフォルメ)でしかない。
 しかして、かかる物質の足し算、引き算、変形 ・・ 等々が功を奏さなければ、我々は落胆し、挫折し、後悔し、懺悔する。
 だがいったい何に対して落胆し、懺悔するというのであろうか?
 物質のみに向けられた視点で、この世の必要不可欠を抽出することは不可能である。 なぜなら紙の表を創りだしているのは紙の裏であり、善の価値を保証しているのは悪の価値であり、物質を存在させている原因は物質ではない反物質(空間)の存在なのである。
 この世における真に必要不可欠な 「もの」 は、落胆や挫折や後悔や懺悔で描き出された空間の中から必然的に現れる。
 美しき女性は、彼女を装う豪華絢爛たる宝飾で創られるのではなく、彼女の周りに漂う美しい空気(空間)によって創られるのである。
 魅力的な女性とは 「たたずまい」 がいいのであり、魅力的な男性とは 「雰囲気(ムード)」 がいいのである。
 同様に、文豪は 「文字が書かれていない行間」 で文学を語り、大作曲家は 「音のない休止符」 で音楽を語り、名優は 「セリフなき演技」 で人生を語るのである。
 現代若者気質は 「言ってくれなければ解らない」 が仕事上のスタンスであり、「好きなら好きと言ってよ」 が恋愛上のスタンスである。
 だがしかし、言われない言葉を理解することが 「仕事の核心」 であり、好きと言わない心情を察することが 「恋愛の核心」 なのである。

2023.06.13


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