Linear ベストエッセイセレクション
時空の旅 アラカルト
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知のワンダーランドをゆく
 人は空間を旅しているのか? それとも、時間を旅しているのか?
 時空は時間と空間で構成されていることからして、時間を旅しているとすれば、私の時空の旅は、今までに費やした 「経過時間の合計」 であり、空間を旅しているとすれば、私の時空の旅は、今までに動きまわった 「移動距離の合計」 である。
 以下の 「線の旅人と面の旅人」 は、時空の旅を 「数学に基づいて」 描いたものである。
線の旅人と面の旅人
 「線の旅人」 とは、例えば 「代数学で旅する者」 である。 しかして、代数学とは 「数式」 を使用して問題を解決する数学的手法である。 代数学は 「数式を考える」 ところから出発し、その第 1方程式(数式)を解くことで、次の第 2方程式が導かれ、第 2方程式を解くことで、次の第 3方程式が導かれ ・・ というように幾つかのステップを踏んで問題の最終解に至る。 代数学の特徴は 「緻密で精確な解を得ることができる利点」 があるものの、「問題を線として考えているため」 第 00方程式を間違えると、以降の解はすべて間違いとなり、最終解がとんでもなく見当違いのものになる危険性をはらんでいる。 これを旅の様相に置換えると、数式を考えることとは、例えば ・・ 松本 → 新宿 → 江ノ島 → 小田原 → 箱根 ・・ というように 「旅程を立案する」 ことであり、第 00方程式を間違えるとは、第 00通過点の旅程を間違えることである。 旅程を間違えばとんでもない場所に行ってしまうことは日頃我々がよく経験することである。
 「面の旅人」 とは、例えば 「幾何学で旅する者」 である。 しかして、幾何学とは 「図形」 を使用して問題を解決する数学的手法である。 幾何学は 「図形を眺める」 ところから出発し、その図形に幾つかの補助線を引いて、いっきに問題の最終解に至る。 幾何学の特徴は 「緻密で精確な解を得ることができないという欠点」 があるものの、「問題を面として眺めているため」 最終解がとんでもなく見当違いとなる危険性からはまぬがれる。 これを旅の様相に置換えると、図形を眺めるとは 「地図を眺める」 ことであり、補助線を引くとは、その地図にルート線を引くことであり、そのルート線をたよりにして最終目的地への道を得ることである。 時として選択したルートによって旅程に変更が発生したとしても、最終目的地そのものには間違いなく行着くことができる。
 以上は、数式を 「考える」 ことと、図形を 「眺める」 ことの本質的な差異である。
 線の旅人は、点と点の間に引かれた線の上を行く 「1次元世界の旅人」 である。 ここで言う点と線とは、例えば、点とは観光地や名所旧跡等のビュースポットであり、線とはこの 「ビュースポットA」 と 「ビュースポットB」 をつなぐルート(道路や線路等)である。 1次元世界とは線の世界であり、旅の自由度はその線上を行くか、戻るかの 「2通り」 しか許されない。
 面の旅人は面の上を行く 「2次元世界の旅人」 である。 ここで言う面とは、例えば、地球の表面である。 2次元世界とは面の世界であり、旅の自由度はその面上 360度方向 「無限に」 許される。
 線の旅人は、目的地(点:例えば観光地AやB)を定め、かかる目的地に向かって、しゃにむに街道(線:例えば東海道)を急ぐ旅人である。 面の旅人とは目的地(点:例えば観光地AやB)を定めず、街道(線:例えば東海道)をはずれ、雲の流れるまま、気の向くまま、あちこちと回遊する旅人である。 線の旅人が街道(線)より目的地(点)を重要視するのに対し、面の旅人は逆に目的地(点)より街道(線)を重要視する。
 大別すれば、線の旅とは 「目的達成への旅」 であり、面の旅とは 「自己充実への旅」 である。 戦後始まった高度経済成長社会の中で、日本人はしゃにむに宿場から宿場へと 「街道を急ぐ」 線の旅人であった。 しかし、その経済成長も一段落し、当初の目的もある程度達成されたこれからは、街道をはずれ 「野に遊ぶ」 面の旅人の姿が、地球表面のそこかしこに散見されることになるであろう。
(2004.10.28)
 以下の 「経路積分紀行」 は、時空の旅を 「量子論に基づいて」 描いたものである。
経路積分紀行
 量子の世界では、物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。 但し、波動性を観測したとたんに粒子性は消え、粒子性を観測したとたんに波動性は消えてしまう。 同時に観測することはできない。 この状況を現実的に表現すると ・・ 私という物質は観測されるまでは宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない。 しかし、ひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し(あらゆる可能性は消滅し)、粒子性としての私は、その局所にしか存在することができない ・・ と表現される。
 量子の2重性を表現するもうひとつの方法は 「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」 というものである。 たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。 だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。 この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
 ここ10数年に渡って、私は研究開発している映像技術のために故郷の信州各地を巡り歩いてきた。つまり、私は波動のごとく信州全域に広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない状態であった。 「信州つれづれ紀行」 には、粒子としての私の局所における位置プロットデータが表示されている。 この状況を物理学的な解釈をもって解説すると、私はこの信州紀行を始める時点で、すでに 「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」 のであって、私の 「10数年に渡る粒子としての位置プロットデータの分布」 とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。 量子は一瞬の刹那に時空を超えて 「あらゆる可能性」 を把握し、体験してしまうのである。
 以上から導かれる帰結は、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは、1個の粒子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」 という運命論に近づいていく。
 経路積分紀行は、物理学者、リチャード・ファインマンの 「経路積分(歴史総和法)」 に基づいて思考されたものである。
(2014.10.31)
 以下の 「軌跡のない旅」 は、時空の旅を 「時間も空間もない宇宙構造に基づいて」 描いたものである。
軌跡のない旅
  時間が 過去→現在→未来 と連続的に流れているとする 「線形時間」 が存在しないことは 「時は流れず」 で論考してきたことである。 その論拠は 「過去は記憶意識」 で 「未来は想像意識」 で構成された 「無形の意識世界」 であるのに対し、運動をともなった実在としての現在は 「有形な物質世界」 であって、その構成が本質的に異なっていること、そしてそのような 「異質な世界」 を貫いて 「均質的な時間」 が流れているとは相当の妥当性をもって考えることができないことにある。
 時間が 過去→現在→未来 と線形的に流れているように感じるのは、時間というパラメータを使って、この世の出来事の経過を支障なく説明できるからに他ならず、それ以外に相当の妥当性を満たす理由を見いだすことはできない。
 またその論考の中では 「運動を時間で分解することはできない」 とも述べている。 運動とは森羅万象や空間の変化率を表現した言葉であるが、運動を撮影した映像がコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることはできない。 この意味では運動と映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのであって、停止するのは運動が終了して速度が 0 になった状態でのことである。 同様に投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、実在場であるひとつの現実空間の上にその軌跡を描けるわけではない。
 線形時間を使った 過去・現在・未来 とは時間をパラメータにして脳裏にある記憶としての1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、実在場であるひとつの現実空間の上に描いた軌跡ではない。 現実空間にあるものとは 「今の今」 という現在だけである。 現在とは速度をもった運動そのものであって、それを静止画に分解することなど、もとより不可能なのである。 「時は流れず」 とはそういうことである。
 その 「時は流れず」 の論考から 「過去と未来は現在に含まれている」 とする世界観が導かれるのであるが、その思考過程は多岐に渡るためここでは割愛する。 必要とあれば、第1150回 「連なった世界と重なった世界」、第1152回 「時間も空間もない宇宙構造」 等々を参照願えれば幸いである。
 芥川賞作家、小川洋子の同名の小説を映画化した 「博士の愛した数式」 は映画 「阿弥陀堂だより」 と同じく私にとっては何度も繰り返し観る記憶にのこる映画のひとつである。 物語は天才数学者であった博士(寺尾聰)が不慮の交通事故がもとで記憶が 80分 しかもたなくなってしまうことから始まる。 その博士のもとで働くことになった家政婦の杏子(深津絵里)とその10歳の息子(吉岡秀隆)との心の交流を描いたものである。 博士はその息子を ルート(√) と呼び可愛がる。 博士が教えてくれる数式の美しさや、キラキラと輝く世界にふれていく中で、2人は純粋に数学を愛する博士に魅せられ次第に数式の中に秘められた 「美しい言葉」 の意味を知る ・・ 詳細は映画を観てもらうとして、本題は以下のところである。
 80分 しか記憶がもたない博士は家政婦の杏子が出勤する度にきまって昨日と同じに 「君の靴のサイズはいくつかね?」 と聞く。 杏子が 「24です」 と答える。 「ほお 実に潔い数字だ 4 の階乗だ」 と褒める。 昨日の記憶がない博士にとっては、毎日がまったく経験のない 「新たな日々」 なのである。
 博士が生きている世界は、まさに冒頭に掲げた 線形時間 を廃した 「時は流れず」 の世界であり、「運動を時間で分解できない」 とする 今の今 の世界であり、過去や未来が重層的に内蔵された 今の今 の世界である現在そのものである。 博士の日々はその 「可能性の海」 に内蔵されている過去や未来から実在場としての 「その日(現在)」 に投影された 「場面」 である。 我々はなまじ 「記憶が持続」 するために現実空間に 「ありもしない」 昨日から今日に至る 「日常(運動)の軌跡」 を思い描いているにすぎないのかもしれない。
 博士の日常 と 我々の日常 を分け隔てているものは 「はなはだ曖昧」 で頼りない 「意識的記憶」 でしかない。 かく考えれば、映画 「博士の愛した数式」 は冒頭に前提として掲げた 論考 を証左するために企画された 「ひとつの思考実験」 のようにもみえてくる。 博士が生きた世界は常人であれば行き着くことができなかった純粋で透明な美しき数式の世界であったが、その投影された過去と未来の場面(日々)の中で 「充分に幸せ」 であったであろうし、その日々をともに過ごした家政婦の母子にとっても、それはまた同じであったに違いない。
(2018.07.23)
 以上。 さまざまな 「時空の旅」 を描いたが、この宇宙は 「存在の時めき」 にリフレクトする 「曼荼羅の世界」 であって、その世界のどこに生き、どこに遊ぶか、はみなさん 「ひとり」、「ひとり」 に与えられた自由な人生の賜(たまもの)なのである。

2023.03.28

思考実験としての 「時空のランダム選択」 体験サイト
 時空の消失点 「時間も空間もない世界」 で描いた 「過去と未来は現在に含まれている」 とする構造は 「時間の重層的構造」 を述べ、「細部は全体であり 全体は細部である」 とする構造は 「空間の階層的構造」 を述べています。 これらの時空概念は 「Pairpole 宇宙モデル」 で描いた宇宙像であって、そこではその概念をさらに還元して 「宇宙とは仕組みである」 という 「究極の概念」 に昇華させました。
 以下のサイトはこれらの宇宙構造の体感を目的として構築した 「思考実験システム」 です。 時間も空間もない世界とはいかなるものかを 「時空のランダム選択」 で追体験願えればもって幸いです。
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