Linear ベストエッセイセレクション
思いの遍歴〜思いの美学〜思いの挙措
Turn

思いの遍歴
 人間何事かを実現しようとすれば「思い」が強くなければならない。 飢餓感、挫折感、疎外感 ・・ 等々。 これらの思いは人間が行動を起こすにおいて必要な根源エネルギである。 この世で何事かを為した人の履歴は、多くこの 「思いの遍歴」 を物語っている。
 近年、この思いが希薄化し、薄弱化しつつあり、ともなって、現在人が何事かを為すことは難しくなってきている。 視点を変えると、現代人が本当の悔しさ、挫折感、飢餓感等を感じなくなっているという状況を顕している。 現代人は哲学者ニーチェが予言したごとく「末人」に近づいているようである。 可もなく、不可もなく、無個性で、闘わずして妥協し、無理をせず、道を逸脱せず、昨日と同じ今日を過ごし、いつしか寿命が尽きるのを待つ、末人の人間像である。
 日本経済は低迷していると言われるが、その低迷の中で、国民の預貯金が1200兆円であるという。 ほとんど金利が付かない超低金利時代においてなおこの状況である。 しかして、その理由が「老後に備えて」ということであるらしいが、預貯金の目的が老後に備えることとは、いかにも「悲しい現実」である。
 ひとつ大切なことがある。 それは老後に備えて準備をしても、結局、その老後において人間は確実に死ぬという事実である。 この宿命からはいかなる人間も逃れることはできない。 いくら「老後に備えて」みても、それは「死への準備」でしかないのである。
 人間が「生きる為」に生まれて来たことにおいては誰も異論なきところであろう。 であれば、人間は生きる為に「奔走すべき」であり、生きることに「感動すべき」である。 生を完結させる死は自ずと訪れるのであって選択の余地はない。 ただ「受容する」のみである。
 出発である誕生から、完結である死までの、与えられた生活こそ、ひとりひとりに許容された、空白の原稿用紙であり、何も描かれていない無垢のカンバスである。 この空白で無垢な時空間に、いったい何を描くかが、人生の意味に他ならない。 こっけいな人生しかり、恥さらしな人生しかり、失敗だらけの人生しかり、いかなる人生をも、この空白な時空間は許容するのである。
 かくして、ひとつの人生は、ひとつの物語になるが、それはまた、その物語を構築せしめた、ひとつの「思いの遍歴」なのである。
思いの美学
 「行動の美学」と言われる美学があるが、これは古代ギリシアの彫刻の中で追求されたアポロン的な肉体美に基準をおいた美学である。
 物質的アポロンの対極は精神的ディオニュソスである。
 行動の美学があれば、同様に古代ギリシアの神話の中で追求されたディオニュソス的な精神美に基準をおいた 「思いの美学」 があってもよいであろう。
 私はアポロン的なものを、日本的表現として「弥生的」と呼び、ディオニュソス的なものを、「縄文的」と呼んでいるが、行動の美学の根底には、この弥生時代以降の価値観が多く含まれ、思いの美学の根底には、縄文時代以前の価値観が多く含まれている。
 弥生式土器に顕れたものは「物質的機能性」であり、この価値観から考えれば、行動の美学とは「行動の機能美」に還元される。 同様に縄文式土器に顕れたものは、「精神的情意性」であり、この価値観から考えれば、思いの美学とは「思いの情意美」に還元される。
 縄文式土器に顕れた様式や、描かれた文様は、土器本来の物質的機能の何たるかを顕わしているのではなく、縄文人の精神的情意の何たるかを顕わしているのである。
 我々は現在、物質文明繁栄の中に生きているが、今その物質文明社会のいたるところでさまざまな問題が発生している。 その問題の根源には、この「行動の美学」と「思いの美学」のペアポール構造がある。
 現代人の多くは物質的機能美と表層的な装いの美ばかりに目が奪われ、その内部に存在する情意的な思いの美に目を向けることがない。 簡潔に言えば、現代人は多くの物(土地、金、家、車、衣服、装飾品 ・・ 等々)を身につけることばかりに奔走し、多くの思い(人間性、誇り、尊厳、志操 ・・ 等々)を身につけることを忘却してしまっている。
 巷間、耳にする「誇りでお金が儲かるのか ・・?」、「尊厳でいったい飯が食えるのか ・・?」等々の捨てぜりふが、かかる状況の深刻さを物語っている。 「思いの美学」を忘れて現代人はいったい何処へ行こうとするのか ・・? まったくもって大きな欠落である。
思いの挙措
 行動に挙措の美があるように、思いにも挙措の美がある。
 行動における挙措の美とは、一連の動作がよどむことなく流れるように進行する中に顕れる美である。 日本の古典芸能である能や狂言、伝統芸道である茶道や華道は、このような挙措の美を追求したものであろう。
 行動における挙措の美は、その行動を発生させる思いの挙措の美でもある。 おそらく能や狂言、茶道や華道の中に顕れた「様式や礼法」は、この思いの挙措の美を追求したところに顕れた「挙措の方式」であろう。
 思いの挙措の美がなければ、かく単純化された、芸能や芸道が、現代まで連綿と存続するはずがないのであり、思いの挙措の美がないのであれば、茶道は単なる「おままごと」でしかないのである。
 様式や礼法に則った行動と思いの2つの挙措の美がよどむことなく一連に流れる 「場の構築」 こそ、能や狂言、茶道や華道が目指す世界である。
 アインシュタインが目指した「場の構築」は「重力場」と呼ばれる。 この場を前述の方式で記述すれば、重力場とは重力の様式と礼法に則った「物質場」であると還元される。
 この稿は、意識を主体にしてこの世を観察しているのであり、この視点で物質場を記述すれば、よどむことなく一連に流れる思いの挙措が 「意識場」 を構築し、その意識場がよどむことなく一連に流れる行動の挙措を発生させ 「物質場」 を構築させる ・・ となる。
 行動の挙措と思いの挙措は一枚の紙の表裏であり、行動の美は思いの美から顕れる。 この構図を理解しないで日本の古典芸能を鑑賞しても、また伝統芸道を修練しても、何ら得るところがない。
 爽やかな行動の美は爽やかな思いの美から顕れ、強き行動の美は強き思いの美から顕れ、優しき行動の美は優しき思いの美から顕れるのである。

2003.04.04


copyright © Squarenet