Linear ベストエッセイセレクション
シュールな世界の住人〜西脇順三郎・井上陽水・中森明菜
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西脇順三郎の世界〜超現実主義詩論
 昭和初期「超現実主義詩論」などの評論集を著し、わが国におけるシュールレアリズム(超現実主義)詩風の主導者として、あるいはわが国の現代詩史における昭和の詩的革命「新詩精神運動」の中核的な存在として、異才を放った詩人、西脇順三郎(明治27年〜昭和57年)。
 以下は「旅人」と題した西脇の初期作品である。
汝カンシャクもちの旅人よ
汝の糞は流れて、ヒベルニアの海
北海、アトランチス、地中海を汚した
汝は汝の村へ帰れ
郷里の崖を祝祭せよ
その裸の土は汝の夜明だ
あけびの実は汝の霊魂の如く
夏中ぶらさがつている
 シュールレアリズムの詩とは、人間意識の深層にある無目的の世界に「絶対の自由と美の世界がある」として、その世界をオートマティズム(自動記述)の方法で表現しようとしたものであるが、西脇は超現実主義者たちが無意識によって創ろうとしたこの自動的、本能的な世界を、意志の力によって創造しようとした。
 彼はその詩論の中で「予期するものは詩ではない、予期しない偶然に発見されるものが詩になり得る」と述べている。また「遠いものを連結し、近いものを切断し、あらゆる連想を避ける関係が詩的関係である」と言い、詩の中で「特定の道徳観、宗教観、哲学観につながる如何なる人生論をも詩のイメージとして拒否する」とした。 なぜなら、それらがことごとく通常的な関係の所産だからである。
 それゆえ西脇の詩には、言うに言えない、通常ならざる未経験な審美的調和の世界が描かれている。西脇の詩がまったくもって分かり易く、反面でまったくもって分かりにくい訳はここにある。
 西脇の詩は理解を拒むかのように一見すると無関係な言葉が羅列される。だがその言葉は時空の狭間にひょいと顔を出した宇宙真象の断片であり、互いの断片が対立するとともに協調し、一抹の風景を奏でている。それはまた私が多用する「時空のめぐり逢い」という概念に相似する。宇宙の彼方から飛来してきた認識断片が詩人の脳裏でめぐり逢いこころのスクリーンに「とある風景」を投影するのである。それは予期せぬものであり、遠いものを連結し、近いものを切断するものであり、絶対の自由と美にゆだねられた世界である。
 西脇順三郎はあたかも理論物理学者が未知なる宇宙を探求するがごとく、自らをとりまく万物事象の中に未知なる宇宙を見出そうとしたのである。 つまり、彼にとって詩とは「発見」以外の何物でもなかったのである。
井上陽水の世界〜なぜか上海
 「西脇順三郎の世界」はまた歌手「井上陽水の世界」に通じる。 井上陽水の作詞もまた一見すると無関係な言葉が羅列される。まともに読むと筋が通らない。だがその無関係とも思える言葉と言葉が、ある時は激しく対立し、ある時は鋭く反響し、予期しない独特な情感を発生させ聴く者を異次元の世界に誘っていく。 陽水作品の中からひとつを選択することには困難がつきまとうが、以下に「なぜか上海」をあげる。
星が見事な夜です
風はどこへも行きます
はじけた様な気分で
ゆれていればそこが上海

そのままもそ もそ も もそっとおいで
はしからはしのたもと お嬢さん達
友達さそ さそ さ さそっておいで
すずしい顔のおにいさん達

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに

流れないのが海なら
それを消すのが波です
こわれた様な空から
こぼれ落ちたとこが上海

いまからまそ まそ ま まそっとおいで
ころがる程に丸いお月さん見に
ギターをホロ ホロ ホ ホロッとひいて
そしらぬ顔の船乗りさん

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに
海を越えたら上海
君の明日が終わらないうちに
 はじけた様な気分でゆれていれば「そこが上海」というのだが、「なぜ上海なのか」は意味不明である。以降、次々にイメージが現れては消えていく。こうでなくてはならないというような拘束条件はいっこうに感じられない。それどころか時間も空間も、さらには言葉さえも超越してしまっているかのようである。まったくの自由な世界である。作者である陽水でさえ時空間に浮遊しているかのようで、どこにもいてどこにもいない。 意図なき物語を人はいかなる意図をもって考えることができようか ・・ ただ感じるだけである。
 このような作詞の世界は陽水独自のものであって、誰もがまねできるものではない。それどころか陽水自身が自問してみても的をえた答えは返ってこないのかもしれない。 それは「メロディに乗って彼方からやって来た」というのが正直なところではあるまいか。
中森明菜の世界〜シュールな歌姫の孤独
 「西脇順三郎の世界」は「井上陽水の世界」を通過し「中森明菜の世界」に至る。 より言えば、西脇順三郎の目指したシュール(超現実)な作詩の世界は、井上陽水が目指したシュールな作曲の世界を通過し、中森明菜が目指したシュールな歌唱の世界に至る。
 彼らは常人が容易に達することができない表現者であるがゆえの、その独創性なるがゆえの、孤高な世界に生きている。
 彼らは常に新たな発見を目指す。 それゆえに同じ事の繰り返しを拒絶する。 天才たる所以である。
 彼らは常に唯一無二の最高を追求する。 もし最高の詩が書けなければ詩人たるをやめるであろう。 もし最高の曲が書けなければ作曲家たるをやめるであろう。 もし最高の歌唱ができないのであれば歌手たるをやめるであろう。
 全盛を極めた中森明菜が突如として歌謡界から姿を消し歌わなくなった訳とはあるいはそのようなものではなかったか。 まだまだできる、まだまだ歌えるは、常人の世界では通じても、彼らの世界では通じないのである。 希なるシュールな歌姫がたどった孤高な道程である。
 南海の孤島(奄美大島)で生涯最高の絵を描くことに命を費やした日本画家、田中一村。 その一村が全霊を込めて闘鶏図を描いていたときのことである。 その闘鶏図は彼の最高傑作になるはずであった ・・ ところが、あと一歩というところで、普段は来るはずのない孤庵に来客があった。 張りつめた集中の糸はぷつりと切れ、その後再びその闘鶏図を描くことはできなかった。 常人の考えでは再び集中力を取り戻して描き続ければいいではないかと考えるであろうが、一村にとってみれば、その闘鶏は生涯二度と出逢うことがない「絶後の闘鶏」であって、その後に続けて描けばいいというようなしろものではなかったのである。 時空のめぐり逢いはいつも「一期一会」である。
 本物の創作者とは、かくも壮絶な「たった一回の時空のめぐり逢い」に賭ける人をいうのであろう。 それは西脇順三郎しかり、井上陽水しかり、中森明菜しかりなのである。

2015.05.31


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