Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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終焉の時代〜その系譜とは
 今、世界は 「終焉の時代」 を迎えている。 以下は本稿が描いてきた終焉の系譜である。 少々長くなるが時に応じて時代を俯瞰することも未来を予測するためには必要なことである。 道に迷ったら視野は広く高くすることが最善の策であることは古今に渡って誰もが承知してきたことである。
資本主義の終焉
 「資本主義の終焉」 を書いたのは 2014年7月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 投資しても収益があがらなければ資本主義の根幹が揺らぐのは当然であって、それでもなお投資するというのであれば、それは資本主義とは別の 「何か」 である。 あるいは資本主義はもはや物的生産活動とつながっていないのかもしれない。 そのことは物質的収益より金銭的収益が重視される現状を眺めれば了解されることであろう。 つまり、目指しているのは 「収益のための収益」 である。
 収益のための収益では意味をなさないが、その無意味なところが、現代経済学の特徴である。 つまり、「バーチャル(仮想)」 なのである。 それはあたかもテレビゲームのような世界であり、何らの物的生産性がなくとも存立しうるのである。 物的な確証がない以上は、ある日突然に、その世界が消滅しても何ら不思議ではない。 物的価値を表さない株価が激しく上下するのは 「収益のための収益を目的とする経済メカニズム」 の為せるところである。 それはかってあったバブル経済と同様で、違いは 「チューリップの球根」 や 「土地」 などを対象としたバブルではなく、収益という 「はなはだ存在があいまいなもの」 を対象としていることである。 だがバブルである以上は、いずれ破裂するであろう。 だがそれでもなお日銀は資金を無制限に供給し続けている。 「資金のための資金」 とはいったい 「何で」 あろうか?
 同様に企業は商品の売上げ拡大を目指して 「広告につぐ広告」 を続けている。 広告しても売上があがらない構図は、投資しても収益があがらない資本主義の構図と同じである。 だがそれでも広告するのは、悪いのは商品ではなく、「広告の方法」 が悪いのだと思っているからに他ならない。 あの手この手で広告するうちに、やがてバーチャル(仮想)な世界に入っていくのもまた資本主義の状況と同じである。 商品という物的価値は置き去りにされ、広告というバーチャルな世界こそが、企業活動の主戦場であるかのように事態は変質していく。 つまり、「広告のための広告」 である。
 目的が失われれば 「手段が目的化する」 のは最初からわかっていた話ではあるのだが、手段が目的化した世界が 「どのようなものなのか」 はかいもく視界不良で未知数である。
自由主義の終焉
 「自由主義の終焉」 を書いたのは 2018年10月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 「貴方は自由だ、私は自由だ」 という自由主義社会を支える資本主義経済は市場における需要と供給によって全ては制御されるという 「ケインズ経済学」 に基づいている。 だが最近の世相を鑑みると、この経済学が成立しているのかどうか判然としない。 これだけ金融緩和を実施しても、言うなればこれだけ大量に貨幣を市場に供給しても、いっこうに 「インフレする気配」 がない。 ケインズ経済学の説くところからすれば 「ハイパーインフレ」 が起きてもおかしくない状況である。
 金利を 0% にしてもその資金を借りて何かをしようとする者がでてこない状況を描いた 「資本主義の終焉」 を書いたのは 2014年7月 のことである。 かくなる資本主義の終焉とは、取りも直さず 「ケインズ経済学の終焉」 でもある。 そうであれば、その述べるところの需要と供給では経済は制御されないことを意味する。 であれば超金融緩和策を継続してもインフレが起きないということになる。 そうであれば、「自由主義もまた終焉に向かう」 ことになる。 そして遂には 「貴方は自由だ、私は自由だ」 という自由主義の理念は時空の彼方に去り、その自由を決めるのは中央集権的権力を掌握した権力者である 「〇〇様だ」 ということになってしまう。 未来への視界は限りなく不透明であるとともに、暗雲が重く垂れ込めている。
確信の終焉
 「確信の終焉」 を書いたのは 2019年12月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 事態の無秩序化への流れに反するかのように、ロシア出身のベルギーの化学者、イリヤ・プリゴジン(1917年〜2003年)は 「混沌からの秩序」 を著し、散逸構造理論(自己組織化)の研究でノーベル賞を受賞した。 散逸系とは決して均衡状態にはならずさまざまな状態の間をいったりきたりする化学物質の異常な混合状態をいうのだが、プリゴジンはエントロピーが増大して混沌とカオスが極限まで進行して臨界点に達すると 「自己組織化」 と呼ばれる再結晶化が起きることを発見したのである。 曰く、「混沌からの秩序」 である。
 であれば、絶対とされる 「エントロピー増大の法則」 は崩壊したのかということになるが、そうではない。 たまたま 「ある部屋」 の乱雑が整頓されたからといって、「別の部屋」 の乱雑さがそれ以上に乱雑になっていくのであれば、それら全てを合計したエントロピーは増大してしまう。 エントロピー増大の法則とは宇宙全域のエントロピーの総量が増大するものであって、局所におけるエントロピーの胎動を論じているものではないからである。
 それを証するかのようにプリゴジン自身は 「時間はひとつの幻覚に過ぎない」 とするアインシュタインや、「時間の不確定性を信じる」 量子論学派の重鎮の見解に反するかのように 「時間の矢の非可逆性」 を絶対なものとして信じて疑わない。 さらに 「カオス」、「複雑系」、「不確定性」 等々の概念を社会の一般人が受け入れたのは社会そのものが 「流動的」 になってきているからに他ならないと主張した。 そしてプリゴジンはかかる状況を以下のように要約した。
 たとえば信心深いカトリック教徒も、その両親や祖父母たちに比べれば、たぶん今ではそれほど深く信じていないであろう。 私たちはもう以前のようにマルキシズムや自由主義にこだわってはいないし、古典的な科学をもまた信じてはいない。 同じことが 「芸術」、「音楽」、「文学」 等々についても言える。 社会は多様化した人生観や世界観を受け入れることを学んだのだ、そして人類は今や、「確信の終焉」 を迎えたのだ。
問いの終焉
 「問いの終焉」 を書いたのは 2020年4月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 科学を構成する基礎的な大発見は出尽くし 「科学が終焉」 したと喧伝されて久しい。 さらなる大発見も幾つか残されてはいるものの、そのどれもが膨大な研究資金を必要とするものであって、投資に値する収益性が見込まれるものでない限り、その研究資金を拠出する者(企業・政府・団体等々)はいない。 現在行われている科学研究の大半はその収益性に見合った大発見の応用と実用化に関するものである。 このような傾向は科学に限ったことではなく、あらゆる分野でも同様に起きている。 考え得る限りの音楽や、考え得る限りの文学が、創作され尽くした現在、すべての創作物は、そのオリジナルの模倣であり、そうでなければその変形である。
 科学的成功によってもたらされた物質的豊饒が臨界に達すれば、その成功を支えた知的活動もまた臨界に至ることは必然の帰結である。 知的活動が尽きなば、その活動を支えていた 「こころ踊る精神的高揚」 もまた尽きなんことは必定の成り行きである。 「最初はやりたいことが山ほどあっても、それが達成されるにしたがって減少し、すべてが達成されるをもって皆無となる」 これは精神的高揚感変遷のメカニズムである。 科学的成功によってもたらされる科学の終焉はまた知的探求の終焉であって、問うべき問いが尽き果てたとき、人間としての精神的高揚感もまた終焉を迎えることになる。
なぜいったい、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?
 これは実存主義哲学者マルチン・ハイデッガーの 「存在と時間」 で提供された問いである。 この問いは、哲学の一分野である存在論の根本的な問いであると同時に、現代科学の究極の問いでもある。 換言すれば、「この問いは 問うべき問い の最後に位置する 問い」 である。 存在論を突き詰めたあげくに至った究極の問いが 「もともとあったものは 無ではなかったのか?」 という大反転の帰結は何とも象徴的である。
 また弘法大師空海が62歳で高野山に入定(入滅)するに際して遺した 「太始と太終の闇」 と題する偈(詩文)もまた 「問うべき問いの最後に位置する 問い」 であろう。
三界の狂人は 狂せることを知らず
四生の盲者は 盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて 生の始めに暗く
死に死に死に死んで 死の終わりに冥し
 哲学者ハイデッガーにして、宗教者空海にして、生涯に渡って 「存在の何たるか」 を突き詰めた知的探求者である。 前者は 「無」 に行き着き、後者は 「冥」 に行き着いた。 無と言い、冥と言うも、それは微妙な表現の異なりであって、本質は同じであったであろう。 問うべき問いが尽き果てたときに両者が背負った絶望感とはいかばかりであったであろうか?
科学の終焉
 「リチャード・ファインマンかく語りき〜物理学の終焉」 を書いたのは 2023年2月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 1965年、量子電磁力学でノーベル賞を受賞したリチャード・ファインマン(米国1918〜1988年)は、その著書 「物理学法則の性質」 の中で、物理学の未来について次のように予言した。 私たちはまだ発見が続いている時代に生きられて誠に幸福である。 それはちょうどアメリカの発見と同じだ。 それは1回しかやってこない。 私たちが生きているこの時代は、自然の基本法則を発見している時代であって、こういう日々は2度とやってこないのだ。 それはとても刺激的で素晴らしいが、こうした興奮もやがては醒めてしまう。 もちろん、未来にも他の興味があるだろう。 1つのレベルの現象を別のレベルのものに結びつける楽しみがあるだろう。 それは生物学の分野での現象などや、あるいは探検について言えば、他の惑星を探索するといったような面での楽しみになるだろうが、今私たちがしているのと同じようなものではなくなるだろう。 基本法則が発見された後は、物理学者は二流の思考家たち、すなわち、哲学者に道を譲ることになるだろう。 「常に外野でくだらないコメントばかりしてきた哲学者どもが、どかどかと踏み込んでくるようになるだろう。 なぜならば、法則が全部目の前にあるのなら、哲学者はなんとでも説明をつけることができるはずだから ・・ アイデアの退化が始まるだろう。 それは、ちょうど、偉大なる探検家が、新開地にツーリストたちが押し寄せてくる時に感じるような退化にも似たものだ」。 ファインマンの見解は薄気味悪いほど的を射ていた。 彼の考えの唯一の間違いは、哲学者が介入してくるのに数十年ではなく、数千年もかかるだろうとしていたことであった。 現代の物理学者の会合の多くが文芸評論の牙城である現代語学会のごとき様相を呈していることがそのことを能弁に物語っている。
人間の終焉
 「人工知能ロボットに解雇される時代」 を書いたのは 2018年10月 のことである。 論旨を抜粋すると以下のようである。
 「人工知能の進歩発展」 とその知能に支えられた 「ロボット技術の進歩発展」 を根拠にした未来予測の語るところを集約すると 「2030年には50%以上が失業」 し、「2040年には現在ある職業の40%が無くなる」 ということである。 この予測の意味する重大事になぜか世相は沈黙を守っている。 アメリカでは労働者が 「ロボットに職を奪われる」 と各地でデモを繰り返している。 それはまるでかってのSF映画を想起させるかのような光景である。 これを 「人間の終焉」 と言わずして何と言うのであろう。

陽はまた昇る
 以上。 さまざまな終焉を描いてきたが、紆余曲折を経て 「人間の終焉」 に行き着いたことは象徴的である。 結局。 現代の危機の本質は 「人間そのもの」 であって、それが終焉してしまってはもはや万事休すである。 さらにそのことを自覚していないことがかくなる終焉の深刻さを語っている。 空海が嘆いた 「三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず」 とはまさにそのことであったのではあるまいか?
 描かれた 「終焉の系譜」 は今振り返れば多分に大雑把な観は否めない。 だが当時の時代世相を反映していたことだけは確かである。 大筋では間違いではないであろう。 そして今日もまた終焉は続いている。 それは 「報道の終焉」 であり、「思想の終焉」 であり、「倫理の終焉」 であり、「信義の終焉」 であり ・・ 等々である。 かくなる終焉の時代の先には 「いかなる時代」 が待っているのであろう。 願うらくは、陽はまた昇るがごとく、「創生の時代」 であってほしいのだが ・・ 畢竟如何。

2026.07.31


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