Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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破綻からの脱出〜存在の時めき
 人類が破綻の構造から脱出するためには、とりまく世界をよく観察しその先を予見することである。 大切なことはその予見をもって 「自らを時めかせる」 ことである。 以下の記載は 2019年〜2024年 に渡って思考した 「存在の時めき」 を総括したものである。
 そこに椅子が存在するとは、その存在が持続的に存在することを意味している。 その椅子は突然そこに出現したわけではなくしばらく前からそこに存在し続けている。 しばらく前とは過去を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味には 「過去の意味」 も含まれていることになる。 またその椅子はこの先もしばらくは存在し続けるであろうし突然消失するわけでもない。 しばらく先とは未来を意味しているのであるから、その椅子の存在の意味にはまた 「未来の意味」 も含まれていることになる。 説明するまでもないが今ここにその椅子が存在することからして、その存在には 「現在の意味」 も含まれているのは当然である。 かくこのように存在には 過去・現在・未来 という時間の3態様が意味的に含まれている。 一挙に還元すれば、存在とは既に時間であり、時間は既に存在に含まれている。
 存在に含まれている意味をとり出すことを哲学者、大森荘蔵はその著書 「時間と存在」 の中で 「存在の時めき」 と呼んだ。 けだし名言である。 大森はさらにこの 「存在の時めき」 は道元が 「正法眼蔵」 で 「有時」 と呼んだものに他ならないとも述べている。
 第495回 「蓄積された時間」 では、同様な視点で時間と存在の意味を以下のように書いている。 かってパリの裏街通りに住み、古びた壁ばかりを描き続けた日本人画家がいた。 画家は壁には街が背負った歴史が刻まれ、太陽の光と風雪が刻んだ 「時間が蓄積されている」 と述懐した。 パリの壁にとどまらず、あらゆる物(モノ)には経過した時間が蓄積されるとともに、蓄積された時間がその物に表象している。 一挙に還元すれば 「物とは時間」 であり、また 「時間とは物」 である。 ローマの古代コロセウム、ギリシアのパルテノン神殿、はたまた奈良法隆寺の伽藍等々には、その上を流れた遙かな時間が蓄積されているとともに、蓄積された時間がそれらに表象しているのである。 我々はこれらの蓄積された 「悠久なる時間」 に遭遇することで、圧倒され、感動させられる。 人間とてこれらの遺構と何ら変わりはなく、「通り過ぎていった時間」 が身体に蓄積されている。 ただ時間で刻まれた 「その顔」 がパリの壁ほどに重厚で、穏和で、静謐であるかどうかは別にして、その人がたどった人生を表象していることは確かである。
 「蓄積された時間」 を書いたのは、私の時空概念が未だ静的線形時間に拘束されていた頃であって、その静的線形時間を廃棄した 「過去も未来もなく(時間がなく)それらが重なった現在だけがある」 という動的な時空概念には至っていなかった。 それゆえ静的な時空概念を背景にした 「時間と存在」 を想定したのである。 だが 「存在の時めき」 とは今の今である現在における動的な時空概念であって、「蓄積された時間」 で描いた静的な時空概念とは異なる。 実存とはおそらく今の今における生き生きとした 「存在の時めき」 であろう。
 大森荘蔵が 「存在の時めき」 と呼んだものは、第1300回 「期限の消滅」 で述べた、いつまでにやるという 「未来の期限」 も、いつまでにしたという 「過去の期限」 も、ともに存在しない現在における 「今の今の時めき」 である。 だが 「いつやるの? 今でしょう」 を 「存在の時めき」 と訳した大森荘蔵の慧眼には、哲学者の認識とは 「かくあるか」 と瞠目させられる。
 またドイツの哲学者ハイデッガーはその著書 「存在と時間」 の中で、ニーチェの 「永遠回帰説」 について以下のように述べている。
 未来において何が起こるかはまさに決断にかかっているのであり、回帰の輪はどこか無限の彼方で結ばれるのではなく、輪が切れ目のない連結をとげるのは、相克の中心としての 「この瞬間」 においてなのである。 永遠回帰におけるもっとも重い本来的なものは、まさに 「永遠は瞬間にあり」 ということであり、瞬間ははかない今とか、傍観者の目前を疾走する刹那とかではなく、未来と過去との衝突であるということである。 ハイデッガーの言うところは、永遠は遥か彼方にあるのではなく、未来と過去を連結する 「今の今」 にあるのであって、この 「瞬間こそが永遠」 なのであるということである。 そして大切なことは、未来と過去が衝突し相克の中心であるこの瞬間での 「決断」 であるとしたのである。
 以上の論旨をくまなく省察すれば、「期限の消滅」 しかり、「存在の時めき」 しかり、「永遠は瞬間にあり」 しかり、視点は異なるものの同じ時空の断面を三者三様の言葉をもって描いているにすぎないことが分かってくる。
 第1556回 「宇宙を纏う」 の中では、永平寺を開山した曹洞宗の開祖、道元禅師が遺した以下の言葉を参照して 「宇宙への同化」 について論じた。
仏道をならうとは、自己をならうことである。
自己をならうとは、自己を忘れることである。
自己を忘れることは、万法に証せられることである。
万法に証せられるとは、自己の心身をも他己の心身をも脱ぎ捨てることである。
 弟子に向けての修行法が簡潔にして明快な文章をもって見事に説かれている。 だがそこには確とした 「時間軸」 が示されておらず、かくなる修行法において、過去や未来がどのように関係しているのかが不明である。 悟るためにではなく 「ただ坐禅する」 という 「只管打坐(しかんたざ)」 を旨とする道元の坐禅観からすれば、時間などはことさら説明する必要はなかったのかもしれない。 禅宗の始祖とされる達磨大師がインドから中国に渡って以後、嵩山(洛陽の東方にある山)の少林寺に籠もって 「九年間」 も壁に向かって座禅を組み続けて悟りを開いたという故事から鑑みてもそれは 「さもありなん」 の次第と納得させられる。
 さらに 第1482回 「道元禅師かく語りき」 の中では 「道元の時間論」 について以下のように書いている。
 道元が著した 「正法眼蔵」 に 「而今(じこん)」 という言葉が登場する。 而今とは 「今この一瞬」 の意である。 道元は 「過去もなく未来もない、ただ今があるのみ、今の刹那を生きるのだから何をするにしても心を込めなさい」 と諭した。 さらに道元は正法眼蔵の 「有時(うじ)」 の巻で、独特の時間論を展開している。 「有時」 は 「有る」 という字に 「時」 と書く。 この 「有る」 は 「存在」 のことで、人間に焦点をあて、「有時」 と一語にしたのは、自分を抜きにして時は存在し得ないということを表現しようとしたからである。 その中で道元は 「時はひとりでに過ぎ去っていくものだと考えてはならない」 と述べている。 また 「一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ時は生み出されていくものである」 とも述べている。 道元は 「この自分という存在と一体の時間を生きる今」 とはどうあるべきかを問いかけ、而今としての 「今この一瞬」 の時間としっかりと向き合って生きる時、その人にとっての時間とは、単に一方向に過ぎ行く流れではなくなり、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開されていくものとなると結言した。
 道元の時間論は、私が提示した 過去・現在・未来 が連なった 「線形時間」 を廃棄したときに現れる、時間が流れない 「現在だけの世界」 をとらえた 「シンプルな宇宙構造」 と奇しくも一致する。 この宇宙構造では、過去や未来は現在に含まれていて、「ある刻には過去」 が、また 「ある刻には未来」 が、実在としての 「現在世界」 に象出してくる。 それを道元は 「時間とは、ひとりでに過ぎ去っていくものではなく、一瞬一瞬に自分という存在を滑り込ませつつ生み出されていくものであって、単に一方向に過ぎ行く流れではなく、前方にも後方にも、左右にも上下にも、さまざまな広がりを持って展開するものである」 と表現したのである。
 かくして 「破滅からの脱出」 を画した思考展開は、「宇宙への同化」 から 「生命の海としての即身」 を経由して、「存在の時めき」 に至ったのである。 確かなものは、今の今である現在だけであって、過去や未来は不確かでしかない。 結局、生きるとは今の今である現在、即ち物質運動をともなった実在である 「刹那の世界」 に生きることである。 「いつ生きるの? 今でしょう」 を描いた期限の消滅にして、「存在とは既にして時間である」 を描いた存在の時めきにして、「存在と時間の狭間」 を描いた永遠は瞬間にありにして、人が生きる実存とは、今の今である 「刹那の世界」 にあることを高らかに主張している。 他方、過去や未来、即ち物質運動をともなわない意識で構成された 「連続の世界」 は実存の背景として存在しているに過ぎないのである。

2026.06.22


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