| 経済的合理性に裏打ちされた現代社会システムは日増しに人間から個の存在意義を喪失させていくようにみえる。
自由と個性に支えられた人間性の獲得を目指した社会は不自由と無個性の社会になろうとしているのだ。 かって不自由だと思っていた社会が、実は自由な社会であり、かって無個性だと思っていた社会が、実は個性的な社会であったという皮肉な帰結である。
その原因は経済的合理性そのものにある。 この合理性を達成すればするほどに個の存在意義は希薄になっていくのである。
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| 昨今の世論調査における国民が期待する政策の第1位は
「経済の成長」 である。 だがこの民意は終局において自虐的な帰結に至ってしまうであろう。 なぜなら経済成長がかならずしも人間性を向上させるに必要な雇用の拡大を保証するものではないからである。
経済的合理性に基づいた政策の目的は 「経済的利益の最大化」 であって、雇用の最大化ではない。 雇用の拡大はその手段であって、経済的合理性に合致する場合においてのみ達成されるものである。
雇用の拡大よりも他に効果的な手段(例えばコンピュータ化や機械化等々)があれば達成されないであろう。 どうしても雇用の拡大を目的とするならば、経済的合理性を手段化することになる。
雇用の拡大のためには経済的利益を犠牲にするという政策であるが、このような政策が現実的に可能かどうかは疑問である。 なぜなら経済的合理性を追求した経済的利益の最大化は現代社会の中にあっては揺らぐことなき絶対的目的であるからに他ならない。
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| 人類は機械を開発することで 「肉体的労働から解放」
され、コンピュータを開発することで 「頭脳的労働から解放」 され、そして今、人工知能を開発することで 「知的労働から解放」 されることをめざしている。
だが、肉体的労働と頭脳的労働と知的労働から解放された人類に、いったい何が 「のこされる」 というのか? リストラも限りなく追求すると、ついには自らをリストラしてしまう。
これを継続すればやがては 「審判の日」 を迎え、「人間失格」 の烙印を押されかねない。 人間性の向上を目指した労働からの解放はまた、人間性の喪失でもあるという皮肉な
「自己矛盾の構図」 である。
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| このような矛盾を放置した 「経済成長社会の実現」
とは、いったい何を意味しているのであろう。 高市首相は 「働いて、働いて、働いて ・・」 というが、人間としてのすべての労働を奪われた人々にむかって、「何を、どのように、働け」
というのであろう。 そろそろ原点に回帰して根源的な問いを発しなければならない。 曰く、社会は 「合理性を達成する」 ために存在するのか、それとも
「人間性を達成する」 ために存在するのかという問いである。
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