未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
生者優先の時代〜死者の眼
人は遠からずいつかは死ぬ。 そのことを自覚している人もいるし、自覚していない人もいる。 あるいは自覚はしていても考えないようにしていると言ったほうが偽らざる現実であろう。 どちらであってもかまわないが、以下の 「究極な問い」 を発することで、「生きる意味」 が、言うなれば 「生き方」 が、さらに言えば 「価値観」 が、一変する。
明日は死ぬとわかったとき、あなたは何を考え、何を為すであろうか?
哲学者、ウィトゲンシュタインは 「主体は世界に属さない、それは世界の限界に位置する」 と言った。 私の見る世界の視野に私自身の眼は含まれない。 私の眼はながめる世界の視野の限界、いうなれば境界に位置しているというのである。 同様に死者の眼もまた、世界の視野の限界(境界)に位置している。 だが死後の世界を信じない人からすれば、上記した 「究極の問い」 は何ら意味をなさない。 生き方は変更されないだろうし、価値観もまた変わることはないであろう。 「この世は生きてなんぼの世界だ!」 というわけである。
以下の記載は 第812回 「時代の感受性」 からの抜粋である。
先の大戦では軍人と民間人を含め 5000万〜8000万 の人が亡くなった。 その内、日本の死者数は 262万〜312万人 と言われる。 その終結から今年で 69年 の歳月が経過した。 その日その刻、日本人の誰もが戦争の惨禍を深く哀しみ、こころの底から懺悔したはずである。 「二度と戦争は起こしてはならない」 と ・・。
ドイツ人数学者、ヘルマン・ワイルは 「数学と自然科学の哲学」 の中で、「自然の最も奥深い謎は、死んでいるものと、生きているものとの、対立と共存である」 と述べている。 確かに今を生きる人々のために社会は構成されているわけであるから、現実にそくした経済的合理性と物質還元主義によって、国家の進路を決定して何が悪いのかという論理は成り立つかもしれない。 だがそれは紙の表側だけをとらえた論理である。
かって安倍首相は靖国神社参拝に際し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」 と述べた。 だが祀られている英霊たちはいったいどのように思っているのであろうか? 死せる者の願いを思いやることこそが、今を生きる者としての感受性であろう。 生きている者は、ときとして現実に目が眩んで、この感受性を喪失させてしまう。 だが生きている者もやがては死している者の仲間に加わっていく。 そのとき、死している者の魂の叫びをいかに聴くのであろうか。 時代の感受性とはそのようなものである。 その感受性を失った生きる者とは、いったい 「何もの」 なのであろう。
以下の記載は東北大震災の被災地で語られる不思議な現象のことである。 何人ものタクシー運転手が、途中で消えてしまうお客を乗せているというのである。 それは季節外れの冬の格好をした若い女性だったり、子どもだったりと ・・ 運転手はそれを 「幽霊だ」 と騒がず、静かに受け止める。 「ああ、家に帰りたかったんだね」 と。 しかし、これは 「怪談集」 ではない。 東北学院大学の震災の記録プロジェクトの研究成果の一部を本にしたもので、綿密なフィールドワークに基づいたものである。 タクシー運転手が書く乗車記録には、彼らが乗った区間は 「無賃乗車」 として処理されているという。
世界は今、「生者優先の時代」 にある。 昨今の日本政治思想もまたそれを物語っている。 終戦の誓いは忘れられ、日毎に死者の世界は遠くに置き去りにされようとしている。 「見えるものは見えないものによって支えられている」 がごとく、「生きてある者は死している者によって支えられている」 のである。 そのことを忘れてはならない。
2026.04.23
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