量子論物理学が説く量子世界では、物質は波動性と粒子性という2重の性質をもっている。
但し、波動性を観測したとたん粒子性は消え、粒子性を観測したとたん波動性は消えてしまう。 同時に観測することはできない。 この状況を現実世界で述べると
「私という物質は観測されるまでは、宇宙全域に波動のごとく広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない。 だがひとたび宇宙の局所で観測されるやいなや、波動性は消滅し、粒子性に転化する。
あらゆる可能性が消えた私は、その局所にしか存在することができない」 と表現される。
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量子の2重性を表現するもうひとつの方法は 「量子はあらゆる可能性を事前に試みる」
というものである。 たとえば台風の進路は進行方向に開いた扇形の確率で示されるが、我々が観測する進路はその中のたったひとつの進路のみである。
だが台風自身はその扇形の進路すべてをすでに事前に試みているのである。 この場合、扇形で示された確率的な進路が波動性であり、観測されたひとつの進路が粒子性にあたる。
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私は長きに渡り、故郷である信州の各地を巡り歩いてきた。
つまり、私は波動のごとく信州の全域に広がっていて、どこにもいて、かつまたどこにもいない状態であった。 「信州つれづれ紀行」
には、粒子性としての私の局所における位置プロットデータが記録されている。
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かかる状況を 「物理学的解釈」 をもって説明すると、私はこの信州つれづれ紀行を始める時点において、すでにして
「あらゆる可能なルートを試し終わっていた」 のであって、私の粒子性としての位置プロットデータの分布とは、始める時点ですでに試みられていた波動性の確率分布であったというものである。
量子論物理学における量子が一瞬の刹那に時空を超えて 「あらゆる可能性」 を把握してしまうと同じに、私もまた一瞬の刹那に時空を超えて
「あらゆる可能性」 を体験してしまうのである。
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還元すれば、人の一生とは、この世に生まれ出た時点において、確率的に可能なあらゆる人生がすでに試みられていて、「私の人生とは1個の量子として生涯をかけてその波動性確率分布をトレースするにすぎない」
という運命論に近づいていく。
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以上の記述は 第830回
「平行宇宙〜パラレルワールド」 で述べたリチャード・ファインマンの 「歴史総和法」 に基づいて思考されたものである。
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かくあれば、「信州つれづれ紀行」 とは、私の人生が織りなした
「実験的経路積分紀行」 と改題されてしかるべきであろう。
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※)2つの時空の旅
「信州つれづれ紀行」 が物質世界における 「時空の旅」 を描いたものであるとすれば、「知的冒険エッセイ」 は意識世界における
「時空の旅」 を描いたものである。 両者は対極を成す 「Pairpole(ペアポール)」 であるとともに、パラレルワールドを構成している。
そのどちらが表で裏であるのかを特定することはできない。 それは1枚の紙の裏表が判然としないのと同じである。 ともあれ、遥かな時空の旅人として、いつかどこかで、身の周りに潜在する
「宇宙の真象」、言うなれば、その素顔の断片らしきものにでもめぐり逢うことができたならば幸甚これに勝るものはない。
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