Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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忘れざる者たち
 「確信なき社会」、「人格なき社会」、「たかをくくった社会」、「お調子者の社会」 では現代人の心象風景を描いた。 だがそれとは真逆な風景があったこともまた併せて記述しておきたい。 以下はその 「忘れざる者たち」 の心象風景、言うなれば 「心のありか」 を描いたものである。
司馬遼太郎の心のありか
 「坂の上の雲」 は国民的歴史作家、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ、明治という時代に立ち向かった伊予松山出身の秋山好古、真之兄弟、正岡子規らの青春群像を描いた壮大な物語である。 多くの日本人の心を動かした司馬遼太郎の代表作であって、発行部数1800万部を超えた。 以下はそのプロローグである。
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。 明治維新によって、日本人ははじめて近代的な 「国家」 というものをもった。 誰もが 「国民」 になった。 不慣れながら 「国民」 になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。 この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。
社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。 この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。 陸軍も同様である。 財政が成り立つはずは無い。 が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の 「少年のような希望」 であった。
この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。 主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。 ともかくも、我々は3人の人物の跡を追わねばならない。
四国は伊予の松山に、三人の男がいた。 この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。 もうひとりは、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖になった、俳人正岡子規である。
彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。
登っていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を登ってゆくであろう。
 明治維新を経て近代国家として生まれ変わった極東の小国、日本。 当時、世界は帝国主義の嵐が吹き荒れ、極東の端に位置するこの国にも西洋列強の脅威が迫っていた。 だが逆境の中にあっても誕生したばかりのこの小国には亡国の悲愴さを吹き払う壮気があった。 近代化を遂げ史上初めて 「国民国家」 となったこの国は、民族が一体となるその昂揚感に国民の端々まで列強に伍する強国への飛躍を夢見て邁進していたのである。 遡る100年余り前のことである。 省みれば身の程知らずの時代であった。 だがその子供のように無垢で純粋な 「壮気」 こそが、当時の日本人が抱いた希望や夢の本質であるとともに、精神的な美質であったに違いない。 それは今や多くの日本人が失ってしまった美しき心根であるとともに、依るべき 「心のありか」 なのである。
 依るべき 心のありか を喪失させ、口では美しき日本と言いつつ、平気でうそをつき、因循姑息に終始する政治家や官僚らが跋扈する国になってしまった現代日本の惨状を、坂の上の人々はいったいどのような眼差しで眺めているのであろうか?
上原良司の心のありか
 「永遠の0」 の主人公、宮部久蔵のモデルとされる大日本帝国陸軍の大尉、上原良司は長野県北安曇郡七貴村(現池田町)出身。1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊、第56振武隊隊員として三式戦闘機 「飛燕」 に搭乗、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死。 享年22であった。 以下の記載は戦没学生の手記 「きけわだつみのこえ(岩波文庫)」 の巻頭に掲載されている 「所感」 と題された上原の遺書である。
 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。 思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。 自由の勝利は明白な事だと思います。 人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。 我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。 ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
 真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。 自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。 現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。 ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
 明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。 何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。 彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
 言いたい事を言いたいだけ言いました。 無礼をお許し下さい。 ではこの辺で
 現代であればまだしも軍事体制下の当時、自由を標榜して逝った上原良司は希にみる青年であったといえる。 自由は勝利し、権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であっても必ずや最後には敗れる事は明白だと断言、真理の普遍さは歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくであろうと予断、自己の信念の正しかった事は祖国にとって恐るべき事であるとまで日本の行く末を危惧する心配り、若干22歳であったことを考えれば現代との隔世の感にほとほと恐懼してしまう。 末尾に配された 「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます 彼の後姿は淋しいですが 心中満足で一杯です」 に至ってはもはや論考する言葉さえ見いだすことができない。 唯一無二の 「心のありか」 をのちの世にのこし得た青年の姿は無窮の天空にかかって朽ちることなく煌めいている。
 上原良司がたとえ 「永遠の0」 での宮部久蔵のモデルでなかったとしても、もうひとつの 「永遠の0」 を美事に体現していることに違いはない。 同じ信州に生まれ育ったひとりとしてこのうえない誇りである。
三島由紀夫の心のありか
 以下は三島由紀夫の随想 「果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義」 からの抜粋である。
 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。 私はほとんど 「生きた」 とはいえない。 鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。 生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。 それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。 おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。 政治も、経済も、社会も、文化ですら。
(中 略)
 二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。 これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。 このまま行ったら 「日本」 はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。 それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
 三島由紀夫はこの随想を上梓した4ヶ月後の昭和45年11月25日、自衛隊市ケ谷駐屯地で自衛隊の決起を促したが果たせず、割腹自殺を遂げた。 毀誉褒貶に富んだ作家ではあったが、日本の未来を見抜いたその慧眼はまさに本物であったことを実感する。
 「司馬遼太郎の心のありか」 は日露戦争の時代(遡る120年程前)、「上原良司の心のありか」 は第2次世界大戦の時代(遡る75年程前)、「三島由紀夫の心のありか」 は戦後は終わったと言われた時代(遡る50年程前)の話である。 それぞれの時代の中で語られた 「心のありか」 をそれぞれの視点で描いたものである。 それらの話は私の無造作な抽出によって配されたものであって、必ずしもその時代を代表するものではない。
 三島由紀夫については 「印象的な風景」 がある。 それは三島が戦後まもなくしてアメリカからヨーロッパと見聞の旅をしたときのことである。それがヨーロッパのどこの港であったか忘れてしまったが、三島がひとり埠頭に佇んで港湾に出入りする船舶を眺めていると、船尾に日本国旗を翩翻となびかせて一艘の貨物船が入港してきたという。 敗戦の失意をものともせず波を切って進む威風堂々の船影を目にした三島はそのとき涙が流れたと述懐している。
 おそらくここに登場した誰もがかくなる風景に遭遇すれば三島と同じく涙を流すに違いない。 なぜならその風景こそが近代日本を背負った彼らの 「壮気」 と 「心のありか」 を象徴するものであったからに他ならない。

2025.04.25


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