Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

空海の宇宙〜零の世界
 密教の中心仏である大日如来は 「宇宙仏」 であるといわれる。 その宇宙を体現した大日如来を弘法大師空海は 「零(0)」 であるという。 それは 「最大であるとともに最小である」 という。 それはまた 「どこにもいてどこにもいない」 という。
 空海のいう 「零」 は般若心経に比肩される大乗仏教の中心経典である華厳経の 「一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である」 と相似し、「最大であるとともに最小である」 はフランスの数学者、ブノワ・マンデルブロがいう 「細部は全体であるとともに全体は細部である」 とする宇宙のフラクタル構造に相似する。 「どこにもいてどこにもいない」 は量子論物理学におけるシュレジンガーの波動理論がいう 「あらゆる場所に存在していて、またあらゆる場所に存在していない」 とする宇宙構造に相似する。
 波動理論における 「宇宙の発生」 は波動方程式における 「波動関数の収縮」 として述べられる。 波動関数を収縮させるものが 「意識的観測」 である。 難解な話は割愛して、喩え話で説明すると以下のようになる。
 例えば、私が松本市の片隅で観測されるまで、私という1個の物質は波動状態として霞のごとく宇宙全域に広がっている。 この状態を量子物理学では、私は 「宇宙のあらゆる場所に存在していて、またあらゆる場所に存在していない」 と表現する。 (空海はそれを 「どこにもいてどこにもいない」 と表現する) だがひとたび松本市の片隅で意識的観測が行なわれるや、波動状態として霞のごとく宇宙全域に広がっていた私は、一気に1個の粒子性に転化し、松本市以外のどこにも存在することはできず、松本市にしか存在しないという 「たった1個の宇宙に収縮」 する。 但し、この観測は 「意識的観測」 という条件付きであって、ネズミが私を観測したからとて、宇宙が収縮するわけではない。 私を私として認識できる意識を所有した者が観測した場合にのみ、収縮するのである。 「宇宙の収縮」 とは、すなわち 「宇宙の発生」 に他ならない。
 空海が行き着いた宇宙の構造と現代物理学が行き着いた宇宙構造のかくなる相似はいかに説明したらいいのであろう?
 眺め続けた宇宙は、空海も物理学者も 「同じ世界」 であることに疑義はない。 異なっているとすれば、描くために使った手法である。 手法とは、文字であり、図形であり、数学としての代数学であり、幾何学であり ・・ 知的ツールと呼ばれる思考のための道具である。 かくなるツールに貴賤、軽重、上下の差異は存在しない。 空海が使った文字や図形(曼荼羅図)のツールが、物理学者が使った代数学や幾何学などの数学的ツールに劣るものでは決してない。 それは上記した数々の 「帰結の相似性」 を鑑みれば、自ずと了承されよう。 必要なことは手法ではなく、眺め続け、考え続けるその 「探求の姿勢」 以外の何ものでもない。 もっとも宗教者である空海であってみれば、それは 「求道の姿勢」 と言い換えたほうがふさわしい。

2023.12.15


copyright © Squarenet