Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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生き続ける魂のありか〜その存在証明とは
 アインシュタインの相対性理論からボーアの量子論への転換は、物質を主体とした物理学から意識を主体とした物理学への転換でもあった。 「新たな物理学への展望」 では、3人の最先端理論物理学者の視点から、かくなる 「物質から意識への展望」 を描いている。
 他方。 フロイトの潜在意識を主体とした心理学は、物質を主体としたニュートンやアインシュタインの物理学に相似し、ユングの集団的無意識を主体とした心理学は、意識を主体としたボーアの物理学に相似する。 フロイトは人間の顕在意識が無意識下にある 「潜在意識」 に左右されていることを明らかにし、ユングはさらにその潜在意識さえもあらゆる人間が共有化している 「集団的無意識」 に左右されていることを明らかにした。
 意識的想像は 「まったくの無から」 は生まれない。 想像の原点には、かって一度は想像した 「想像の元型」 のようなものがあって、ユングはそれを 「集団的無意識」 と呼んだのである。 縁の総量とは、この集団的無意識と等価であり、縁の総量から生まれる思いの風景とは、想像の元型と等価である。宇宙には 「意識の大海」 と呼ばれるような、あらゆるものの意識が集合されている大海が存在しているのである。
 それはまた、ドイツの哲学者、ライプニッツ(1646〜1716年)が提唱した 「予定調和」 の概念と等価である。 ライプニッツは、互いに個別な世界にいても 「同じ外界を見る」 のは想起する想像に対応関係があるからであって、これを 「予定調和」 と表現したのである。
 ここまでくると 「縁とは何か」 の解答が、おぼろげながら垣間見えてくる。 縁の根底に漂う 「体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる既視感(デジャブ)と呼ばれる現象」 は、かくなる 「集団的無意識」 としての 「想像の元型」 や 「予定調和」 に起因したものであって、その既視感こそが 「思いの風景」 の正体なのである。
 量子論では、物質としての身体が消滅しても、精神としての魂は存在し続けるとされている。 もしかかる予見が真理であるとすれば、前世で体験したかのように感じる既視感の存在は、その 「生き続ける魂の存在証明」 なのかもしれない。 「縁とは何か」 の探求が、めぐりめぐって、宇宙における魂の存在証明にいたるとは思いもよらないことであった。
 かって、構築した 「ペアポール宇宙モデル」 を読んだ関西学院大学社会学部教授の宮原浩二郎君は、世界がこの宇宙モデルのようであるならば 「安心して生きられる」 と感想を述べた。 このモデルが正しいとか正しくないとかではなく、「安心できる」 というところに依って立つ彼の哲学の基盤がある。 あるいは彼が感じた安心感とは、生き続ける 「魂のありか」 を見いだした安心感であったのではなかったか? 今となって、「ふと」 そう思えるのである。

2023.11.25


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