Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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縁の総量とは
 とある場所で、とある 「思いの風景」 が想起されることがある。 その思いの風景がいつのことであったのか? 古い昔にあったことなのか? それとも私が生まれる前にあったことなのか? 判然としない。 前者は、心理学者フロイトがいう潜在意識としての因果律的な思いの風景であり、後者は、心理学者ユングがいう集団的無意識としての超因果的な思いの風景である。 それは一度も体験したことがないのにすでにどこかで体験したことのように感じる 「既視感(デジャブ)」 と呼ばれるような現象である。 縁の根底には、この既視感が横たわっている。 かくなる現象は、出逢った場所に限らず、出逢った人において、出逢った出来事において ・・ 等々。 さまざまな局面で発生する。 かってどこかで出逢った人であるかのような、かってどこかで出逢った出来事であるかのような感覚である。
 人生はこのような 「縁の総量」 なのではあるまいか? それはまた出逢った 「思いの風景の総量」 でもある。 芭蕉はその辞世において 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」 という句をのこした。 この句は亡くなる4日前に詠んだもので、芭蕉が残した生前最期の句といわれる。 今は旅の途中で病に臥しているが、まだ夢の中では、以前と同じく枯野を駆け回っているとする芭蕉の 「思いの風景」 が描かれている。 それは、日々旅にして旅を栖とした 「芭蕉の縁の総量」 であったに違いない。
 満たされた人生とは、言うなればかくなる 「縁の総量」 なのではあるまいか? 日々の生活の中に、さまざまな縁がダイヤモンドダストのごとく煌めいていることほど幸せなことは他にあるまい。 それは出逢った場所の中に、出逢った人の中に、出逢った出来事の中に、縁の総量の中から抽出された珠玉の 「思いの風景」 が映っているからに他ならない。

2023.11.22


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