Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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夢のまた夢
 先日。 電話でともがらと近況を話していたときのことである。 彼は最近は 「体たらく」 のことどもに出逢っても憤慨することもなくなったと諦観したかのように述懐した。 そのとき、かって彼と話した以下の場面が彷彿と浮かんできた。 第840回 「何かいぶかしかった」 からの抜粋である。
 久しぶりに会食をともにした友人が言った。 昔は世間に 「さからって」 生きていた。 君は骨があると言われた。 時代はめぐり、いつのまにか世間に 「さからえなく」 なった。 君もまるくなったと言われた。 そして今では、もう世間に 「さからわない」 ことにしたと結んだ。 「さからう」→「さからえない」→「さからわない」 という言葉の五段活用のごとき変態はいったい何を述べているのであろうか。 彼の人格形成の過程を述べているのであろうか? それとも日本経済社会の変遷の過程を述べているのであろうか? それとも日本政治思想の変質の過程を述べているのであろうか? 何かいぶかしかった。
 彼がたどった、「さからう」→「さからえない」→「さからわない」 という言葉の五段活用のごとき変態を、かって構築した 「スクエア理論」 の中で思考した 「形状論」 を使って述べれば以下のように置換される。
 「さからう」 を形状に置換すると △ であり、それはエネルギの発動を表す 「方向をもったベクトル量」 を意味する。 「さからえない」 を形状に置換すると □ であり、それはエネルギの展開を表す 「運用としての仕事量」 を意味する。 「さからわない」 を形状に置換すると ○ であり、それはエネルギの保存を表す 「大きさだけのスカラー量」 を意味する。 つまり、形状論では 「さからう」→「さからえない」→「さからわない」 の変態過程は、「△」→「□」→「○」 というエネルギ循環の変態過程を現しているのである。 そして、「体たらく」 のことどもに出逢っても憤慨することもなくなったとする彼の諦観の近況状態は、エネルギが安定的に保存された 「大きさだけのスカラー量」 に変態し、形状としての 「○」 の球面精度が 「真球」 の域に達したことを示しているのである。
 水滴は、「そのための球状」 であり、天下人、太閤秀吉の辞世の句、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 は、秀吉の人生が究極のエネルギ保存状態である真球に尽きたことを意味しているのであるが、本人にとっては、それもまた 「夢のまた夢」 ということであったであろう。

2023.11.14


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