Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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物質と空間で綴られた風景の物語
 この宇宙に形在る物質が何ひとつ存在しなかった場合、空間や時間は在るとも無いとも言える。 それらは意識する物質である人間の 「意識しだい」 ということになる。 そもそも暗黒の宇宙空間に放り出された 「たった1人の人間」 にとってみれば、宇宙は 「無意味」 である。 かってそんなSF映画を見た気がするが、宇宙が意味をもつためには、「もう1人の人間」 の存在が必要なのである。 その2人の人間関係が宇宙的意味を発生させるのである。 言うなれば 「空間や時間」 は、その2人の人間関係の中で発生することで存在が認められるのである。
 ここ数年というもの映像表示技術の研究に関連した撮影で信州のあちこちを訪ね歩いている。 自然が偉大で素晴らしいのは 「変わらないこと」 である。 かって訪れた高原を、湖を、森を、川を、数年経て再び訪れても、何も変わらずにそこにある。 「変わる」 のは訪れる私のほうで、その時々の状況(心情)で、それらの自然がさまざまに変わって見える。 その証拠に、撮影した日付を記載しなければ、撮影した私をのぞいて、切り取られた 「自然の時系列」 を誰も判定できない。
 では、撮影した自然風景を日付を記載しない限り、撮影した私をのぞいて、誰もその時系列を判定できないということはいかなることなのか? 私の解答は 「自然そのものには時間は存在せず、人間の内にのみ時間が存在する」 というものである。
  以下簡潔に説明すると、「過去は記憶」 で構成され、「未来は想像」 で構成される。 どちらもはなはだ曖昧模糊とした人間の 「主観的な意識作用」 である。 だが 「現在は運動」 という確固たる 「客観的な物理作用」 で構成されている。 我々は線形時間の流れとして 「過去・現在・未来」 を配列し、時間は過去から未来に向かって流れていると考えている(思っている)が、現在はその構成において過去や未来とはまったく異なる。 それを同列に配置するのは人間の意識作用のなせる業であって、それ以外には何も根拠がない。
 つまり、時間は人間の主観的意識場においては、流れていることが保証されるが、現在のような客観的物質場においては、流れているのかどうかは保証されない。 私は過去や未来は線形に配列されるものではなく 「現在に含まれている」 のではないかと考えている。
 以上から考えれば 「風景の物語」 とは、私がその現在場を訪れたことで、自然風景の中に含まれていた私の過去や未来の意識場が象出することで発生した内なる時間の流れが紡いだ 「私自身の物語」 である。 他方、私をとりまく自然には 「時間は存在せず(流れず)」、運動する風景として、ただそこに存在しているのである。
 撮影された映像は 「信州つれづれ紀行」 と題してホームページに掲載されているが、かく考えれば、その 「風景の物語」 とは、あるいは 「私自身の物語」 なのかもしれない。

2023.06.14


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