Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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即身の瞬間とは
 即身とは想像と現実の融合(一致)である。 では想像と現実が融合して 「何ものか」 が生まれる 「即身の瞬間」 とはいかなるものであろうか? 第1213回 「空海が悟ったもの〜即身への道」 の中で、私は以下のように描いている。
 それは、ある歌をある歌手が歌ったとき、その歌とその歌手が 「境目なくぴったりと融合している状態」 のようなものである。 そこには歌を超え、歌手を超えた 「何ものか」 が実現している。 芸術は作品と作家が境目なくぴったりと融合したときに 「何ものか」 に昇華するのであって、作品のみをもって、あるいは作家のみをもって、だけでは、その 「何ものか」 は生まれない。 そうして生まれた 「何ものか」 は、瞬く間に宇宙全域に遡及するのである。
 以下の記載は、私が機械メカニズムの開発技術者であった頃に遭遇した出来事についてである。
 ありとあらゆる方法を講じても尚、解決できなかった技術課題について、それから数年して何気なく車を走らせていた道すがら(その課題について考えていたわけではなく、ぼんやりと運転していただけであったのだが)、とある 「トンネル」 をぬけた瞬間、突如としてその解決策が天から降ってくるように訪れたのである。 さらに不思議であったのは、訪れた 「その解決策」 が検証するまでもなく 「正しい」 ことが刹那にして理解できた。 考えるでもなく考えているような 「ぼんやりとした想像」 と 「トンネルの先にあった現実」 が一気に融合したのである。 生まれた 「何ものか」 は、瞬く間に宇宙全域に遡及していくようであった。 いま思えば、それが 「即身の瞬間」 であったことが了解される。
 以下の逸話は、南海の孤島(奄美大島)で生涯最高の絵を描くことに命を費やした日本画家、田中一村が全霊を込めて闘鶏図を描いていたときのことである。
 その闘鶏図は彼の最高傑作になるはずであった。 だがあと一歩というところで、普段は来るはずのない孤庵に来客があった。 張りつめた集中の糸はぷつりと切れ、その後再びその闘鶏図を描くことはできなかった。 常人の考えであれば、再び集中力を取り戻して描き続ければいいではないかと考えるであろう。 だが一村にとってみれば、その闘鶏は生涯二度と出逢うことがない 「絶後の闘鶏」 であって、その後に続けて描けばいいというようなしろものではなかったのである。
 時空のめぐり逢いは、いつも 「一期一会」 なのである。 本物の創作者とは、かくも壮絶な想像と現実のたった1回の 「めぐり逢い」 に全身全霊で賭ける者をいうのである。

2023.01.24


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