Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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思い出の野尻湖〜岩波茂雄
 長野県諏訪市出身、岩波書店創業者、岩波茂雄がその若き日を綴った 「思い出の野尻湖」 を朗読したテープのことに思い至って探してみたが、どこに紛れ込んでしまったか見つけることができなかった。 朗読は往年の個性派俳優、徳大寺伸の渋い声であったと記憶している。 そのテープは創業間もない会社を抱え営業に奔走していた私が車の中で幾度か聴いていたものであった。 ここでその記憶を頼りに 「思い出の野尻湖」 を再生してみる。 おおよそ以下のようであった。
 朗読文は1人称であったがテープを失った今ではその背景となった資料から3人称で書く以外に他に手立てがなく、拝読していただくさいには、1人称に変換願えればもって幸甚に思う次第である。
 岩波茂雄が実科中学を卒業して一高へ入学した当時は憂国の志士をもって任ずる学生が 「乃公(ダイコウ)出でずんば蒼生をいかんせん」 といったような、悲憤慷慨の時代は過ぎて、「人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く」 というようなことを問題とする内観的煩悶時代を迎えていた。 「立身出世」 とか 「功名富貴」 などという言葉は男子として口にするさえ恥ずべきであり、「永遠の生命」 とか 「人生の根本義」 のためには死もまた厭わずという時代であった。
 この風潮に決定的な刺激を与えたのが、明治36年(1903年)5月22日の 「藤村操投瀑事件」 である。 藤村は当時18歳、岩波より1年下の哲学科1年生で、たがいに顔なじみの仲であった。 その藤村が突然、母と二弟一妹を残して日光の華厳の滝に身を投じ永遠に帰らなかった。 死に臨んで藤村は瀑上の大樹を削って次のような 「巌頭之感」 を書き残した。
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。 ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。 萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。 始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。
 これほど若い青年学徒にとって晴天の霹靂だったことはない。 まして日々、藤村と接していた一高生にとって、さらに同じ悩みを語らっていた友人にとって、名状しがたい衝撃であった。 それは驚愕というよりは寧ろ、一種の羨望であったかもしれない。 友人の中でも林久男はほとんど狂せんばかりに動かされ、学校にも行かず、寮を出て、雑司ケ谷の畑の中の一軒屋に昼間でも戸を閉めたままこもっていた。 同じ悩みを抱く岩波は渡辺得男とつれだって慰問に行ったが、三人は 「巌頭之感」 を誦しては泣くばかりだった。 それがあまりに激しかったので、友人は悲鳴窟と呼んだ。 岩波の手記には 「・・ 事実藤村君は先駆者としてその華厳の最後は我々憬れの目標であった。 巌頭之感は今でも忘れないが当時これを読んで涕泣したこと幾度であったか知れない。 友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。 死以外に安住の世界がないと知りながらも自殺しないのは真面目さが足りないからである、勇気が足りないからである、「神は愛なり」 という、人間に自殺の特権が与えられていることがその証拠であるとまで厭世的な考え方をしたものである ・・」 と当時の心境が綴られている。
 感傷的な気分にかられた岩波は、静思の機会を求めて大自然のふところへ飛びこんで行った。 求めた場所は郷土信濃の北奥、野尻湖であった。 明治36年(1903年)夏のことである。
 岩波のこもった弁天島は野尻湖上の一孤島で、横が一町(約109m)、縦が二町ほどもあって、琵琶の形をしているところから琵琶島ともいわれていた。 湖はあくまで清澄の水をたたえて美しく、見渡せば飯綱、黒姫、妙高の山々が湖のほとりから裾野をひいて聳え立っている。 わけても妙高は最も高く、その雄姿はいうべき言葉を知らなかった。
 島は老杉をもって蔽われ、その奥深いところに作物の神を祀る神社があった。 土地の先覚者(池田万作)の語るところによると、明治14年ごろこの神社はなかなか栄えたもので、野尻からこの島まで二間幅の橋が架り、人力車なども通って参詣人の絶え間がなかった。 その橋も明治22年にこわれたまま修復するものもなく、さびれる一方になってしまった。 もと天台の僧(雲井某)が住んでいたという拝殿の右側の荒れはてた板の間に、岩波は蓆〈ムシロ〉を敷いて仮りの宿りとした。 ここから毎日、湖に下りて米をとぎ、自炊生活をしたのである。 野菜などは、かれが 「牧童」 と呼んだ少年(石田才吉)が対岸から運んでくれた。 それ以外に村との連絡はまれに参詣人が舟を雇ってきた時だけである。 社殿から舟のつく鳥居のところまで二町ほどある。 一日の生活といえばこの短い道を二往復するだけ。 終日、本を読むでもなく、何をするでもなく、鳥の声をきいたり(鶯や時鳥や郭公などがよく鳴いた)、雲の峰を眺めたりしていた。 特に印象に残っているのは月の夜、霧の中から横笛の音のもれてきたことで、あの時はまるで夢の国にでも遊んでいるような思いにかられた。 また静かなもの音一つしない夜、鯉が突如として湖面をたたくのなども忘れられない、と岩波は回想している。
 「黒姫は誰を待つらん薄化粧」 とは土地の女学生がよんだ黒姫の初雪の姿であるが、紺碧の空を流れる白雲の千変万化といい、山肌の色のきのうにかわる姿など、見ていれば飽きることがない。 とはいえ 「空洞の生活ではなく充実した生活であった」 と岩波はいう。 かれの筆によれば ・・ 赤子が母の腕にねむるが如き、自然の懐に抱かれた安らけき生活であった。 自然を友とするとか、自然に同化するとかいう言葉があるが、最も自然に接近し、天地の心にふれた生活であった。 自然は何時でも何処でも限りなく慰みを与えてくれ、決して愛する者の心に背くことはない。 古人は 「天地の悠々を思い愴然として涙下る」 といったが、私は左千夫の 「寂しさの極みにたえて天地に寄する命をつくづくと思う」 の歌を口ずさんで涙ぐむ心を、うれしくも有難くも思う。
 そうはいうものの、この島に初めて来た当座は、さびしくて身のおき場もなかった。 そして親しいたれかれの名を呼んだ。 いくら呼んだとて、なんの反応もあればこそ、迫るは漆黒の闇ばかり。 それはさながら死を暗示するもののごとくであった。 さびしさを求めてこの島に来ながら、友の名を呼び、生を厭うて死場所をここに求めながら、死の恐怖に身がふるえた。 なんという矛盾だ、なんという弱さだ。 岩波は自分で自分がわからなかった。
 人恋しさに堪えられなくなると、岩波は、親しい友へ手紙を書いた。 伊藤長七、上野直昭、樋口長衛、吉崎淳成、林久男、阿部次郎などである。 かれらからも返事があった。 その多くは東京にもどって学業をつづけるよう勧告する文面であった。 そのうち、最も親しかった林久男ははるばる島までやって来た。 突然の友の来訪に喜んだ岩波は、夜中、湖を泳いで対岸にふとんを借りに行き、村人を驚かしたこともある。
 ある風雨はげしい夜、かれが神殿の板の間に身を横たえて大自然の怒りを聞いていると、人声がする。 たれも訪ねて来るはずもないこの島に、しかもよりによってこのはげしい嵐の夜、たれが来たのであろう。 不審に思いつつ身を起こすと、数間先きの雨戸が開かれ、ボーッと明るくなった隙間から黒い人影がはいって来た。 驚いて起ちあがるかれに、「茂雄かえ?」 の聞きなれた言葉、近づいて見れば母ではないか。 頭から髪も着物もびしょぬれである。 ああもったいない! 胸を衝かれる感激に言葉もなく、しばし手をとりあうばかり。 あふれるものは母も子もただ涙であった。 聞けば母は心配のあまり、まっしぐらにここまで駆けつけ、風雨のはげしいため舟は出ないというのを、無理に船頭をたのんできたとのこと。 母にはこの島に来る一カ月前から音信を断ち、居所も知らさなかったが、伊藤長七と文通したことから、伊藤の切なる勧告によって母に音信をしたのだった。
 その夜、それはこの島に来て十日目の7月23日のことだが、母は懇々とその不心得をさとした。 お前を東京へ遊学させるために母はいかに窮乏に堪え、親戚や近隣の嘲笑を浴びてきたか。 いまお前が学業を放棄し、あまつさえ親に先きだつようなことをしてくれたら、母はどうしておめおめと生きていかれよう。 母の願いはただ一つ、お前が立派な人間になってくれること、それだけである。 地下のお父さんもさだめしそれを願っていよう。 涙ながらの母の訓戒に、岩波茂雄は頭を垂れたまま泣くばかりであった。 そして嵐の一夜を母と子は語り明かしたのである。 翌日、岩波は母を柏原駅に送って行った。 そのまなざしにはほっと安堵の思いがこめられていたが、びんのほつれ毛にも母老い給うの感慨をかれは抱かないわけにはいかなかった。
 岩波が島を去ったのは8月20日過ぎのことだから、母を送ってからなお1カ月ばかり滞在したことになる。 前後四十日におよぶ愛着の島を去るときには、万感こもごも至って、かれは地に伏して号泣した、といっている。
 母の訓戒に順じた岩波は帰京。 東京帝国大学卒業後、岩波書店を創業、母が願った通り立派な人間となって功なり名を遂げるに至った。 だが職を辞するにあたって、18歳で過ごした野尻湖の夏を懐かしみ、自らの原点である 「思い出の野尻湖」 を思わずにはいられなかったのではあるまいか? その末尾、岩波茂雄は 「明日より我は閑雲野鶴の生活に還らん」 と結んでいる。 岩波茂雄にとって最期に帰るべき所は大自然に抱かれた野尻湖の山紫水明の中であったということであろう。
(※)閑雲野鶴(かんうんやかく)
 「閑雲」 は大空にゆったりと浮かぶ雲。 「野鶴」 は野に気ままに遊ぶ鶴。 大空にゆったりと浮かぶ雲と広い野にいる野生の鶴の意から、世俗に拘束されず自由にのんびりと暮らすたとえ。 また、自適の生活を送る隠士の心境のたとえ。
 2009年4月、私は春まだ浅い野尻湖を訪れた。 岩波茂雄が野尻湖上の孤島、弁天島に隠った1903年の夏からはすでにして100年余の歳月が経過していた。 野尻湖を周遊する湖上観光船で弁天島に渡ってしばしの時を過ごした。 以下は信州つれづれ紀行、第007回 「閑寂の湖影」 からの抜粋である。
野尻湖 / 長野県上水内郡信濃町
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閑寂の湖影
 春まだ浅い野尻湖である。 この地で北信五岳と呼ばれる飯縄山、戸隠山、黒姫山 、妙高山、斑尾山の5つの独立峰にはいまだ残雪がしっかりとはりついている。 北信濃の春はこれからなのである。 すぐ近くに住んだ小林一茶の 「これがまあ 終のすみかか 雪五尺」 の句が思い浮かんだ。 それにしても湖畔に人影が皆無なのはどうしたことか ・・。
 思い起こせば(40年ほど昔にさかのぼることになろうか)、かってこの地は軽井沢と肩を並べる高級避暑地(リゾート)として、国内外からの観光客でおおいににぎわい、わが世の春を謳歌していたのである。 湖畔の船着き場に立つドライブインの壁面は色あせ、赤白のストライプに装飾されたテラスフードにはほころびが目立つ。 今やその中に往時の隆盛を偲ぶのみである。
 だがしかし ・・ 時空はそうすてたものではなく、生々流転、いつの日か、かっての輝きが、再びめぐって来ることは過去の歴史が証明するところである。                         (2009.4)
 
 それから十数年が過ぎ去った野尻湖の湖影は今いかばかりであろうか?

2023.01.14


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