Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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山鹿素行と赤穂浪士の点と線
 12月の師走ともなると繰り返し再演される物語がある。 時は元禄15年(1703年)12月14日、雪の降る夜、松坂町 ・・ で始まる赤穂浪士による吉良邸討入を描いた 「忠臣蔵」 である。
 山鹿流兵法の祖として知られる山鹿素行(1622〜1685年)は江戸時代前期の儒学者、軍学者である。 討入で鳴り響いた陣太鼓はその山鹿流の陣太鼓であった。 赤穂四十七士を率いて仇討ちを宰領した大石内蔵助の武士道はその山鹿流兵法に依っていたといわれている。
 山鹿素行は当時主流であった朱子学における日常から遊離した観念的な思弁と日常の生活行為との遮断された内面の修養を批判した。 この批判が幕府の不興を買って、素行は1666年に赤穂に流され、以後1675年に許されるまでの9年間に渡って流謫の身であった。
 赤穂滞在中に書いた自伝 「配所残筆」 の中で、自らの歴史家としての成熟と開眼について 「耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠きを取り候事、是非に及ばず、誠に学者の痛病に候 (耳で聞くことを信じて目で見ることを信じないこと、また身近かなことを軽視し遠くのことを重視するのは学者達の是非なき痛病である)」 と語っている。 目を信ぜよとは、眼前に見える事物を信ぜよという意味ではなく、「心の眼」 を持てということである。 また近きを棄てて遠きを取り候事とは学者達が古典の訓詁注釈ばかりを重視しているのは学者の是非なき患いであって、本当に歴史というものを知りたいのであれば、それらの 「古い言葉」 に頼ってはならないというのである。
 戦国の時代が過去のものとなり徳川の泰平が拓かれた元禄の世ともなれば、武士道は現実から遊離して観念の世界に逸していたのであり、その太平の空で赤穂浪士の義挙が青天の霹靂の如くに炸裂したのである。 その衝撃の源泉とは、あるいは山鹿素行と赤穂浪士の狭間に架け渡された点と線の軌跡であったのかもしれない。

2021.12.02


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