Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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ニーチェが夢見たもの
 情報社会での 「存在の儚さ」 に喘ぐ現代人の実存は実現されるのか?
 130年以上前に近代文明が行き着く先に待っている存在の儚さにいちはやく気づいた哲学者がいた。 ドイツのフリードリヒ・ニーチェ(1844〜1900年)である。 ニーチェが夢見た究極の幸福とは何であったのか?
 以下の記載は関西学院大学社会学部教授、宮原浩二郎君の 「幸福と不幸の社会学/ニーチェと幸福の高さ (2004.12.20)」 と題する論考から適宜に抜粋したものである。
主人の幸福と奴隷の幸福
 ニーチェは 「道徳の系譜」 の中で 「主人道徳と奴隷道徳」 を定式化し、「主人の幸福」 と 「奴隷の幸福」 という2種類の幸福を描いている。
 「主人」 とは高貴な野蛮人のことであり、ニーチェによれば、この高貴で創造的な人々は 「充実の感情、溢れるばかりの力の感情、高い緊張の幸福、贈り与えようと望む冨の意識」 の持ち主だった。 彼らは 「充ち足りた、有り余る力をもった、従って必然に能動的な人間として、幸福から行動を分離するすべをも知らなかった。 彼らにあっては、活動しているということは必然に幸福の一部なのだ」。
 それでは、征服され、頭を押さえられ、運命を呪いながら諦めに沈み、日々の苦役に従事した人間たちは幸福を感じることはなかったのか。 いや、そうではない。 奴隷には 「奴隷の幸福」 があった。 ただし、この 「無力な者、抑圧された者、毒心と敵意とに疼いている者」 の幸福は 「主人の幸福」 とはまったく質の異なるものであった。 奴隷にとって、「幸福は本質的に麻酔・昏迷・安静・平和・安息日・気伸ばし・大の字になることとして、手短にいえば、受動的なものとして現れる」。 能動的な高い緊張ではなく、受動的な低い弛緩こそが 「奴隷の幸福」 の本質である。 あるがままの自分の姿に直面した奴隷はため息をつく。 「ああ、俺が他の誰かであったらなあ! でも今は何の希望もない。 俺はやっぱり俺である。 どうすれば俺は俺自身から抜けられるのか。 それにしても俺は俺に飽きがきた」。 そこで何とか自分から目をそらし、気を紛らわそうとする。 寝そべってうとうとすること、眠ること。 酒や麻薬に酩酊すること。 博打や娯楽に我を忘れること。 束の間の休息を満たし、自分を忘れさせてくれるあらゆる安楽を求める。
ツァラトゥストラはかく語りき
 ニーチェの歴史観を大雑把にたどれば次のようになる。 古代以降のヨーロッパにおいては、主人的人間が没落し、奴隷的人間が台頭する。 奴隷の主人に対するルサンチマンがキリスト教的道徳に結晶し、「道徳上の奴隷一揆」 が成功を収めるからである。 ルネサンスはこれに対する大規模な反対運動であり、そこでは主人的人間が一時的に復活する。 しかし、宗教改革から近代の政治・社会革命を通じて、結局は奴隷的人間が勝利する。 近代社会は社会的身分としての 「主人」(貴族) や 「奴隷」 を廃止する一方で、人間類型としての奴隷の優位をもたらした。 ニーチェは19世紀末ヨーロッパの大衆(中産階級)にそれを見ている。 その延長上に現れるのが、「ツァラトゥストラはかく語りき」 に登場する 「末人」 である。 町の広場で最初の説教を試みたツァラトゥストラは、まずは 「超人」 の対極にある 「最低の軽蔑すべき者」 である 「末人」 の姿を描いてみせる。
 見よ! わたしはあなたがたに 「末人」 を描いてみせよう。 「愛とは何か? 創造とは何か? あこがれとは何か? 星とは何か?」 末人はこうたずねて、こざかしくまばたきする。 そのとき大地はすでに小さくなり、その上に、一切を小さくする 「末人」 がとびはねている。 その種族は地蚤のように根絶しがたいものだ。 「末人」 はもっとも長く生きのびる。 「われわれは幸福をつくりだした」 と 「末人」 たちは言って、まばたきする。 かれらは生きるのに厄介な土地を見捨てる。 温暖が必要だからである。 かれらはやはり隣人を愛している。 隣人にからだをこすりつける。 温暖が必要だからである。 病気になることと不信の念を抱くことは、かれらにとっては罪と考えられる。 かれらは用心深くゆったりと歩く。 石につまづく者、人間につまづき摩擦を起こす者は馬鹿者である! 少量の毒をときどき飲む。 それで気持のいい夢が見られる。 そして最後には多くの毒を。 それによって気持よく死んでいく。 かれらはやはり働く。 なぜかといえば労働は慰みだから。 しかし慰みがからだにさわらないように気をつける。 かれらはもう貧しくもなく富んでもいない。 どちらにしてもわずらわしいことだ。 誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう? 誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう? どちらにしてもわずらわしいことだ。 牧人はいなくて、畜群だけだ! だれもが平等だし、また平等であることを望んでいる。 それに同感できない者は、みずからすすんで精神病院にはいる。 「むかしは世の中は狂っていた」 とこの洗練された人たちは言い、まばたきする。 かれらは賢く、世の中に起こることならなにごとにも通じている。 そして何もかもかれらの笑い草になる。 やはり喧嘩はするものの、かれらはじきに和解する、さもないと胃腸を害するおそれがある。 かれらは小さな昼のよろこび、小さな夜のよろこびを持っている。 しかしかれらは健康を尊重する。 「われわれは幸福をつくりだした」 末人たちはこう言い、まばたきする。
 「末人」 はニーチェ一流の予言である。 それは現代日本の大多数を占める中流市民の生き方、さらに、この私自身の姿を驚くほど正確に描き出している。
幼な子の幸福
 ニーチェには、主人の幸福や奴隷の幸福とは別格の、もう一つの 「幸福」 のイメージがあった。 「幼な子の幸福」 である。
 「人は誰も幼な子のようにならなければ天国にはいることはできない」。 このイエスの言葉がニーチェの 「幼な子」 の源泉であり、そこには純真無垢にして清らかな、聖なる存在のイメージがある。 ただし、ニーチェの場合、この 「純真無垢」 や「 清らかさ」 の意味内容が問題になる。 イエスの意図はさておき、一般に 「純真無垢」 や 「清らかさ」 は性欲や支配欲といった道徳的悪に汚染されていない状態を指している。 かつてフロイトが 「幼児性欲」 の存在を指摘したとき、口にするのも汚らわしいという拒絶反応があったという。 幼な子に性欲などあってはならない。 支配欲や我欲もあってはならないのだ。 ところが、ニーチェはここにキリスト教道徳の、そして近代ブルジョア精神の病理をみる。 ニーチェにしてみれば、性欲はそれ自体けっして悪くも汚くもない。 心身ともに健康な者、生命の躍動している者、未来を懐胎する者にとって、性欲は 「無邪気な自由なもの」、「地上における楽園の幸福」、「すべての未来が、現在に寄せるあふれるばかりの感謝」、「大いなる強心剤」、「珍重され畏れられる酒の中の酒」、「より高い幸福と最高の希望への象徴としての大いなる幸福」 である。 性欲を不潔なものとみる、その精神こそが不潔なのだ。 同じように、支配欲も我欲もそれ自体けっして悪く汚いものではない。 それがあってはじめて生命が躍動する。 純真無垢で清らかなものは、まさにこの生命の躍動のただなかにある。 幼な子は無邪気である。 おいしいものは、おいしい。 まずいものは、まずい。 すきなものは、すき。 きらいなものは、きらい。 きれいなものは、きれい。 きたないものは、きたない。 この無邪気さこそが純真無垢で清らかなのだ。 性欲や支配欲や我欲がないからではない。 それらが無邪気に、何のてらいも屈折もなく発現するからである。 ニーチェも幼な子に聖性をみる。 しかし、それは通俗道徳の説くような聖性ではない。
三段の変化
 ニーチェはこうした幼な子を人間の最高の存在様態とみなしていたふしがある。 よく知られた 「三段の変化」 のエピソードでは、「駱駝」 から 「獅子」、「獅子」 から 「幼な子」 への脱皮と変身が説かれている。 駱駝のモットーは 「汝なすべし」 である。 神や伝統的権威からの命令に忠実に従い、できるかぎりの重荷を背負って道を急ぐ。 ところが、駱駝はその行き着いた砂漠で獅子に変身する。 獅子のモットーは 「我欲す」 である。 これまで長く尊敬し服従してきた神や権威に対して猛然と立ち向かう。 「いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。 こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる」。 しかし、獅子でもまだ足りない。 その 「聖なる否定」 は古い価値を打ち倒すとはいえ、新しい価値を創造することができないからだ。 そのために、獅子から幼な子へのさらなる脱皮が必要になる。 「聖なる否定」 は 「聖なる肯定」 へと転換されなければならない。 その幼な子のモットーは 「我あり」 である。 幼な子は無垢である。 忘却である。 そしてひとつの新しいはじまりである。 一つの遊戯である。 ひとつの自力で回転する車輪。 一つの第一運動。 ひとつの聖なる肯定である。 そうだ。 創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。 ここに精神は自分の意志を意志する。 世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。 この 「三段の変化」 は人間の成長段階を示している。 駱駝のような徒弟修業の時代を通ってはじめて、人は主人へと脱皮する。 事実、ニーチェ的な主人の原型である高貴な野蛮人たちとはこの 主人=獅子 のことであった。 彼らは狭い共同体の古く重苦しい掟を破り、広い大洋へ大陸へと進み出る。 ところが、この主人をこえた破格の究極地点があった。 それが幼な子である。 「無垢」、「忘却」、「新しいはじまり」、「遊戯」、「自力で回転する車輪」、「第一運動」。 そして何よりも 「聖なる肯定」 として 「創造の遊戯」 に没頭する幼な子こそが、最も成熟した人間なのである。 半端でなく完全に成熟した人は子どもに近くなる。 「男の成熟それは、子供の頃に遊戯の際に示したあの真剣さを再び見いだしたことを言う」。 このニーチェの直感は意外に平凡なものかもしれない。 「本当に熟した人は遊んでいる」 ということ。 好きなことをし、好きなように生き、他人を非難せず、自分を責めることもなく、いつでもどこでも 「創造の遊戯」 に興じている。 子どもたちと手鞠をつく良寛和尚のように、「善悪の彼岸」 を遊んでいる。 このような成熟した人間をニーチェは 「幼な子」 と呼んだ。 窮屈な満員電車のなかでも、街角の薄汚れた路地裏でも、猛暑の日でも、大雨の日でも、幼な子は自分の 「いま、ここ」 を遊び場に仕立ててしまう。 服でも食べ物でも、鳥でも雲でも、言葉でも表情でも、自己でも他者でも、ありとあらゆる存在を遊び道具に変えてしまう。 どんなに嫌なことも遊びながら笑い飛ばし、踊りこえていく。 この 「幼な子の幸福」 は 「主人の幸福」 とも異なっている。 あえていえば、格段に高い 「幸福そのもの」 なのである。
誰にとっての幸福か
 ニーチェは 「誰にとっての幸福か」 という観点から幸福の質的差異を取りだした。 第一に、「奴隷の幸福」 がある。 すなわち、安楽や休息が受動的に与えられる状態、「安楽と休息の幸福」 である。 第二に、「主人の幸福」 がある。 すなわち、能動的な戦いや挑戦、自己や他者や物事を征服する活動にともなうよろこび、「戦いと征服の幸福」 である。 第三に、「幼な子の幸福」 がある。 遊ぶこと、いつでもどこでも新たな遊びを創り出していくこと、「遊びと創造の幸福」 である。 ところで、個人とは 「多数の霊魂の共同体にすぎない」。 近代人は 「主人と奴隷との混血」 であった。 そこで一歩進んで、私たち現代人は自分自身を 「主人と奴隷と幼な子の共同体」 だと考えてよい。 この私のなかに、奴隷も主人も幼な子も生きているのだ。 だからこそ私は、時と場合により、人生の季節や局面により、これら三つの幸福を味わうことができる。 また、だからこそ私は、「戦いと征服の幸福」 を 「高い幸福」、「安楽と休息の幸福」 を 「低い幸福」 と感じ、さらに、「遊びと創造の幸福」 を格段に高い 「幸福そのもの」 と感じるのである。 くり返すが、これら三つの幸福の 「高さ」 は連続線上に並ぶものではない。 「高さ」 と聞けば棒グラフを連想する人々は、奴隷の幸福より主人の幸福が、主人の幸福より幼な子の幸福が、より 「多く」 の幸福なのだと受けとるにちがいない。 この人々は 「高さ」 を質的に感受することができないのだ。 なぜならば、あの 「末人」 のように、彼らのなかの主人が死にかけているからである。 内なる主人が死んでしまえば、内なる幼な子もまた目覚めることはないだろう。 なぜならば、ニーチェ的な意味の幼な子は、主人が奴隷に対してもはや一切の否定的対立感情を抱かなくなった時に覚醒するからである。 それは文字通りの幼児ではなく、否定と対立を乗りこえた成熟した人間としての幼な子なのだ。 この幼な子の幸福は経験の高低の感覚を無化するほどに高い。 逆にいえば、高低の感覚を克服するためにこそ、「高さ」 の感覚が必要なのだ。 幼な子の 「幸福そのもの」 に到達するために、私たちは自己の内なる主人を死なせてはならない。 ふり返ってみれば、「最大多数の最大幸福」 は奴隷の 「安楽と休息」 という 「低い幸福」 を幸福そのものと誤認していた。 しかし、私たちの内なる主人は 「戦いと征服」 という 「高い幸福」 を必要としている。 さらにまた、内なる幼な子は 「遊びと創造」 という高低をこえた 「幸福そのもの」 に目覚めていくのである。
 本稿は 「ニーチェが夢見たもの」 と題して宮原浩二郎君の論考を頼りにニーチェの哲学を回想したものである。 そこには現代人が感じている 「存在の儚さ」 の根底に流れる 「確かな標号」 が紛れもなく象出していた。 熟考に価する優れた論述である。

2021.06.18


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