Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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さよならだけが人生だ
 寺山修司は著書 「ポケットに名言を」 の中に以下のような詩を遺している。
「幸福が遠すぎたら」

さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう

さよならだけが人生ならば
めぐりあう日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛は何だろう

さよならだけが人生ならば
建てたわが家は何だろう
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう

さよならだけが人生ならば
人生なんていりません
 以上の 「幸福が遠すぎたら」 は、以下の井伏鱒二が唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩 「勧酒」 での 「人生足別離」 を 「さよならだけが人生だ」 と詩的に訳したことに感化された寺山が、この言葉は自分にとって最高の名言であるとともに処世訓でもあるとして作られたものである。
「勧酒」

勧君金屈巵 (君に この金色の大きな杯を勧める)
満酌不須辞 (なみなみと注いだこの酒 遠慮はしないでくれ)
花発多風雨 (花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするものだ)
人生足別離 (人生に別離はつきものだよ さよならだけが人生ならば)

(井伏鱒二の訳)
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 井伏の 「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」 の訳に対し、寺山は 「さよならだけが人生ならば また来る春はなんだろう」 というアンチテーゼを掲げた。 そのテーゼは井伏の 「さよならだけが人生だ」 という別離の断言に、寺山自身が深く魅了されたがゆえになされたものである。 そこには幼くして父を亡くし、母とも生き別れ、親戚にあずけられた寺山が背負わざるをえなかった絶望的な哀しみとその中で培われた反骨精神が秘められている。 たしかに人生に別離はつきものだ。 だが別離の 「まえ」 に存在していたものの 「すべての意味」 が失われてしまったわけではない。 それではあまりに悲しすぎて生きていくことができない。 ゆえに寺山は 「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」 と叫ばずにはいられなかったのであろう。
 したがって、「コロナ禍のまえとあと」 で描いた ・・ コロナ禍の 「あと」 の世界は、コロナ禍の 「まえ」 の世界に 「さよなら」 を告げるところから始まる ・・ は次のように変更されるべきであろう。 コロナ禍の 「のち」 の世界は、コロナ禍の 「まえ」 の世界に 「さよなら」 を告げるところから始まる、だからといってコロナ禍の 「まえ」 にあった世界の 「すべての意味」 が失われてしまったわけではない と。
 そこには ・・ めぐり来た春の、はるかなはるかな地の果てに咲いていた野の百合が ・・ めぐりきた日の、やさしいやさしい夕焼とふたりの愛が ・・ 建てたわが家の、さみしいさみしい平原にともした灯が ・・ あったのであって、それらのすべての意味が失われてしまったわけではない。 そのうえに立って 「さよならだけの人生」 を生きていくことが、コロナ禍の 「あと」 の世界を託されたもろびとの 「あるべき姿」 なのではあるまいか ・・ どうであろう。
※)寺山 修司
 1935〜1983年、歌人、劇作家。 演劇実験室「天井桟敷」主宰。 「言葉の錬金術師」、「アングラ演劇四天王のひとり」、「昭和の啄木」などの異名をとるとともに、マルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。 以下の記載は寺山本人の述懐である。
 少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。 しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られた時、食うべきだ、と思った。 Hungry Youngmen (腹の減った若者たち) は Angry Youngmen (怒れる若者たち) にはなれないと知ったのである。 そのかわりに詩人になった。 そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。 詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。 私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。 だが、同時に言葉は薬でなければならない。 様々の心の傷手を癒すための薬に。 エーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉である。

2020.08.22


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