Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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この国のかたち
 日本は良くも悪くも 「村社会」 である。 村社会では村の掟や秩序を破ることは許されない。それを侵せば 「村八分」 という過酷な制裁をうけることになる。 そのため各々の考え方や行動様式がその村の常識(価値観)から逸脱していないかを相互に監視される。 この村社会の制度(システム)は共同体としての村の維持管理には良くも悪くも絶大な効果をもたらしてきた。 その効率は独裁者による専制君主制の統治システムを凌駕するほどである。
 今回の新型コロナウイルス感染拡大において日本は、世界各国の感染被害に比べて考えられないほどに軽微である。その謎は 「ファクターX」 として世界から注目されている。 感染症学界はそのファクターXを血眼となって探しているがいまだ確たるものは見つかっていない。 私は日本が古来から営々と築いてきた 「村社会の風習」 がそのファクターXに多大に影響しているのではないかと考えている。 感染防止策としての外出自粛についても他国は罰則つきの法律をもって都市封鎖を行っているが、日本は要請のみをもって粛々と行われている。 その実行にあたっては 「自粛警察」 と呼ばれるような 「市民による相互監視」 まで登場している。 それを日本人の 「同調圧力」 と呼んで好意的にとらえているが、考えてみれば村社会の相互監視と何ら変わるところはない。その制裁もまた村八分とまでは言わないが方法と効果は同等であろう。
 村社会システムは確かに想像以上の効果をもたらすが、良くも悪くもそれは 「集団的思考」 に拘束されてのものである。集団的思考には 「集団心理」 がつきものであって、自らが考えるという 「自律性」 は失われてしまう。 代わって、何を行うにも周りを見回してそれに同調する 「従属性」 のみが重んじられる。 俗に世に言う 「赤信号みんなで渡れば怖くない」 という標語のような属性である。 村社会では集団心理がひとたび自粛に向かえば誰ひとり逆らう者なく自粛に向かう。 逆にそれが自粛解除であれば誰ひとり疑うことなく解除に向かうであろう。 その姿は羊には罪はないものの 「何も考えない羊の群れ」 のようである。
 村社会の制度は日本独自の歴史空間の中で培われてきたものであって、片鱗は現代の若者気質にさえも多大な影響を与えている。 言うなれば、それは日本人の民族性のようなものである。その民族性が良くも悪くもかくこのような 「国のかたち」 を創ってきたのである。 歴史作家、司馬遼太郎は絶筆となった 「この国のかたち」 の中で 「日本は世界の他の国々とくらべて特殊な国であるとはおもわないが、多少、言葉を多くして説明の要る国だとおもっている」 と書いている。司馬遼太郎は「村社会のあれこれ」について書いたわけではないが、「この国のかたち」の背景には濃密にかくこのような村社会の倫理観が漂っているように私には思われる。
 とまれ、ひとりひとりが自立心をもたない国がいかなる道をたどるのか? 期待とともに不安もまた尽きることがないのである。
※)村八分
 村八分は村落(村社会)の中で、掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つこと(共同絶交)である。 転じて、地域社会から特定の住民を排斥したり、集団の中で特定のメンバーを排斥(いじめ)したりする行為を指して用いられる。

2020.06.16


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