Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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山奥で咲く花〜心即理
 陽明学の祖、王陽明が南鎮の奥山に遊行したときのことである。
 同行の弟子のひとりが岩間に咲いている花の木を指して質問した。
 「先生は天下に心外のものはないとおしゃいますが、この花は深い山奥で自然に咲き自然に散っていくだけです。 ということは、私たちの心と何の関係があるのでしょうか。」
 陽明が答えた。
 「君がまだこの花を見なかったときは、この花は君の心とともに静寂の状態であった。 いま君がここへ来て、この花を見たとき、この花の色はいっぺんにはっきりとしてきたのだ。 これで、この花が君の心の外にあるものでないことがわかるだろう。」
 「心即理」とは陽明学の中核的思想である。 心はすなわち万物事象の理(道理。正しい筋道。条理。)であり、心と万物事象は一体である。 心の中には宇宙の根源的な原理が含まれていて、心の内と外に対立はないとする考えである。
 弟子が発した質問は、心と万物事象が別々のものであるという「二元論」に立ってのものであり、他方、陽明の答えは、心と万物事象は一体のものであるという「一元論」に立ってのものである。
 我々現代人の多くは、訪れる人もいないような山奥で咲いている花などは「自らとは関係ない」ものとする弟子の考えに賛同するのではあるまいか。 賛同するまでもなくそれが真理だと考えているのではあるまいか。 一行がその奥山を訪れその花に出逢うまでは「その花は存在していなかった」かのような陽明の答えを素直に受け入れる人は希少ではあるまいか。
 かって私も同じ感懐に出逢ったことがある。 以下は「信州つれづれ紀行」からの抜粋である。
栂池高原 / 長野県北安曇郡小谷村
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 高度あげるよりも、位置を北に移動したほうが紅葉との遭遇には有効かと愚考、白馬村山麓から岩岳スキー場を経由、栂池高原まで北上した。栂池高原の麓に広がる閑散とした繁華街を突っ切って、栂池ゴンドラリフトのしらかば駅の横に位置する小さな池の畔にたどり着いたのは午後も4時近くであった。 池は「鐘の鳴る丘」と名付けられた中腹の丘陵地にあり、今年の6月にも来たところであった。その折りも同様であったが、ここに到着するのが、なぜかいつも夕刻の斜光の頃となってしまい、明るい映像が撮れないでいる。それに今日は、そのわずかな斜光さえも雲間の垣根越しとあってみれば、状況はさらに悪い。 鐘の鳴る丘の山腹に三脚を据えて、そのわずかな陽射しを待ち望むが、いっこうに事態は改善しない。ついには山腹の草間にすわりこんで待つうち、足元に咲いた小さな白い花に目がとまった。 風景を撮影するとは、遠くに目がいって、おうおうにして足元の小さな花などには、目がいかないものである。 可憐に咲いた白い花を見つめているうちに、その小さな花が、栂池高原の大自然と対峙して微塵もひけをとらず、誇りに満ちて屹立しているように見えてきた。 かって読んだ王陽明の「山奥で咲く花」と題された一章が思い出された。

2018.02.22


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