Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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空間と物質(2)

 現代人はもの(つまりは物質)への執着は強いが、ものの周りに存在する空間への執着は希薄である。

 現代社会において、次々とものを創り出すという人はあまたいるが、次々と空間を創り出すという人は希少である。

 松本出身の前衛画家に草間弥生がいる。彼女の作品「かぼちゃ」は特に有名であるが、先日画商をしている友人からおもしろい話しを聞いた。彼女(草間)はかぼちゃを描こうとしているのではなく、黄色や赤色や青色のカンバス地に、黒色の丸斑点で空間を描いているのだと言う。黒色の丸斑点で多くの空間を描いた「結果として」、黄色や赤色や青色の「かぼちゃが顕れる」のだと言うのである。

 常識的に考えれば、我々が絵を描こうとする場合、物体を描こうとしているのであり、その周りの空間を描こうなどとは考えていない。草間の例で言えば、「かぼちゃを描こうとする」のである。
 画家の視点は物体であるかぼちゃに向けられており、描かれなかった余白が、結果として空間として残されるのである。そして、あまりに余白が多いと作品が未完成と感じられるため、その余白をさまざまなもの(物体)で埋め尽くし、空間をなくそうとするのである。

 近代日本画の逸材、菱田春草は信州飯田の出身である。春草の師は東京美術学校(現東京芸術大学)を創始した岡倉天心であり、岡倉の下には春草のみならず、明治画壇の四天王と呼ばれた横山大観、下村観山、西郷孤月等が集まっていた。
 岡倉はある日、春草等に「空気を描いてみたらどうか」という天啓を与えた。かかる飛躍的天啓を直観するところが岡倉天心の天心たる所以であり、また偉大さでもある。

 天心はものの周りの空気を描かせることで、それまでのものを描こうとする視点から、空間を描くことで結果としてものを描くという視点に180度転換することを画したのである。

 かかる天啓に春草は最も鋭敏に反応した。その後「空気はいかに表現可能であるか」を日夜悩むことになる。まず最初にものとものの間の空気を、霞や、霧や、雲などの気体(それでもまだ物質)を使って表現したが、その手法は「朦朧体(もうろうたい)」と蔑称されるに至り、評価を得ることができなかった。霞や、霧などの気体を使って空気を表現しようとすると、どうしても絵が濁って暗くなってしまうのである。

 春草はかかる悪戦苦闘の研鑽の中で、ついにはものが見えない程の重度の網膜炎に罹ってしまう。だが師である岡倉天心の「絵はこころで描くもの」という言葉に励まされ、ついにはその濁りと暗さを突破し、名作「落葉」を完成させ、36歳の若さでこの世を去った。私はいまだその実物を目にしたことはないが、写真で見ても赤や黄色の鮮やかな落葉が閑寂な林間の空気の中にみごとに描き出されいることが見て取れる。
 濁りや暗さは微塵もなく、しかしてその物体と物体の間には、深閑とした空間が凛として存在している。天才春草にしてはじめて、生涯の最後に、空間を描くことに成功したのである。

 下村観山は人物画にその天賦の才を遺したが、描写しようとする人物がたどった人生の転変をくまなく知ることなしには絵筆をとらなかったという。
 観山が描いた人物画には、単なる人物の物体描写ではない、かかる人物の人格、個性、気迫などの空気までが描写されている。言うなれば、かかる人物の内面が描き出されているのである。観山は観山独自な手法で、ものでない空気(つまりは空間)を描くことに終生の画業を費やしたのである。

 「麗子像」で有名な岸田劉生もまた「内面の美」を描こうとした。岸田も観山同様に、ものよりも空間を描くことに情熱を傾けた画家である。

 蛇足ながら物質と空間の視点で、日本画と洋画の比較に関する私見を書き添えれば・・・「洋画は多く物質」を描き、「日本画は多く空間」を描いている・・洋画の画面には余白は少なく・・日本画の画面には余白が多い・・日本画で描かれる花鳥風月は空間にとけ込み・・洋画で描かれる石積みの城郭は空間を圧する・・東洋文化は空間を基とし・・西欧文化は物質を基とする・・文明のPairpoleである。

2004.4.28

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