Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

意識に物質が宿る
 自己の意識は何処から来たりて、何処へ去るのか・・?
 物質に意識が宿るのか・・? それとも意識に物質が宿るのか・・?

 精神と物質、唯識と唯物、これらの認識は今ゆらいでいる。21世紀を迎え、人類は情報化時代と呼ばれる「ゆらぎ」の中に入ろうとしている。

 先端科学は猿の頭を切り取り、別の猿の体にくっつけるという、はなはだ残酷な実験を試みているという。この状態で猿の自己意識が持続するのかどうかを調べようというのである。もし猿の意識が持続するのであれば、意識は脳に宿っていることになる。脳は体の機能を制御する中枢機関であるが、精神性をもった意識がこの中枢機関に属するものであるのかどうか、それは不明である。

 ひょっとすると指先に意識が宿っているのかもしれない。もし頭脳に意識が宿るものであるならば、猿の実験ではないが人間の頭脳を次々と若い体に「すげかえる」ことにより、意識は永遠に継続し、進化するであろう。しかし、この時、人間の死生観念はいったいいかなることになるのであろうか・・?

 最近の先端医学の話題は臓器移植である。これは前述のごとく頭のすげかえではないがそれに近い行為である。人間の意識がもし移植される臓器にも宿るものであれば、移植された人は「二重人格的意識」の所有者となる。

 心理学者フロイトは人間の顕在意識が無意識下にある「潜在意識」に左右されていることを明らかにし、ユングはその潜在意識さえも、さらにあらゆる人間が共有化している「集団的無意識」に左右されることを明らかにした。臓器移植された人が、その後において二重人格症に悩むことがないところをみれば、意識が人間の脳や各部の臓器に宿っているとは言い難い。意識はまったく別の次元のもののようである。

 ユングの言うように、この宇宙には「意識の大海」と呼ばれる、あらゆるものの意識が集合されている大海が存在していると考えたほうが整合性がある。この意識の大海をユングは「集団的無意識」と呼んだ。この集団的無意識の概念は物理学者デビット・ボームの言う「暗在系の内蔵秩序」という概念に、さらには分子生物学で語られる「遺伝子DNAの世界」という概念に相通ずるものがある。

 これらの概念を統合すれば、どうも「意識に物質が宿る」と考えたほうが妥当性がある。そして、もし意識に物質が宿るというのであれば、多くの現代人が眉をひそめる占い師や、祈祷師や、霊媒師・・等々の存在にも重要な意味が生じてくる。

2002.8.27

copyright © Squarenet