Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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自由意思と力への意志
 それでは客観を基にした科学的物質世界(客観的世界)から、主観を基とする哲学的意識世界(主観的世界)に転換した場合、いかなることが発生するのであろうか ・・?
 主観を主体とする生活とは、簡潔に言えば「価値観を客観に委ねない」ということになる。主観的世界では、自分の主観で価値観を評価決定しなければならない。一方、客観を主体とする客観的世界では、他者の客観で価値観が評価決定される。自己の主観的価値観はさて置かれ、世間と呼ばれる他者からの視点で評価決定された価値観に「一喜一憂する」状況である。世間(他者)の評価が正しいのであればまだしもであるが、世間(他者)の評価とは往々にして、「恣意的」であり、「策謀的」である。なぜならば、それらの評価は評価をする世間(他者)の立場が有利になるように操作された評価となる場合が多いからである。
 「歯の浮くようなおせいじ」の裏には、「何らかの策謀」が隠されているのが常である。
 この世に於ける根源的意志とは、哲学者ニーチェの言った「力への意志」である。主観的自己評価も客観的他者評価もともに、この「力への意志」に基づいて為される。歯の浮くようなおせいじも、結局は他者の「力への意志」が作用した結果であり、恣意的、策謀的な画策とは、この意志において顕れる計画性に他ならない。
 主観的世界における主観的価値観もまた、「力への意志」に裏打ちされなければ、価値観たり得ない。主観的生活世界の実在性は、この「力の獲得」という具体的な「事実」によって保証されるのである。それは主観を主体として生きているであろう野生動物で例えれば、ライオンがもつ「凶暴な体力」の力であり、ハイエナがもつ「狡猾な知力」の力である。
 主観的世界の実在性は、この力への意志に裏打ちされた「根源的主観意識(自由意思)」で保証される。我々が主観的世界に回帰するためには、この「自由意思」が確立されなければならない。そのためには、「私がどう思う」かであり、世間という「他者がどう思う」かではない。
 釈迦が誕生まもなくして言ったという、「天上天下唯我独尊」という比類無き自律性は、この主観的な「自由意思の獲得」を語っている。
 主観的な自由意思を獲得した人間に対して、客観的な他者意識はいかんともし難い。世間(他者)から「左遷」と評価されても、本人自身が「栄転」と評価する人に、いかにして他者が勝つことができよう。また、世間(他者)から「不幸」と評価されても、本人自身が「幸福」と評価する人に、いかにして他者が勝つことができよう。失敗であっても成功と思い、ブスでも美人と思い、困難を楽しく思う人に、客観的世界の住人は勝つことができないのである。
 また、「自由意思」と「力への意志」は相補的であり、力への意志なき自由意思は単なる「力なきヒッピー」の人生であり、また自由意思なき力への意志は単なる「自由なき独裁者」の人生である。
 ニーチェが提示した「超人」とは、この「自由意思」と「力への意志」の両方を獲得した人間像である。
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