Linear ベストエッセイセレクション
閉塞社会の原因とは
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 2024年の元旦。 能登半島を襲った大地震から始まった日本社会はかってない程の閉塞状態に陥っている。 かくなる閉塞の原因はどこにあったのか? その原因が解らなければその脱出もまた不可能である。 探求は以下の3つの視点から始められてしかるべきであろう。
< 日本列島誕生に起因した地殻構造からの視点 >
巨大断層の胎動〜日本列島の構造を探る
(日本列島の地殻構造については上記ページを参照)
大きな間違い / 2013.08.06
 間違いも大きくなると 「どこが間違いなのか」 わからなくなる。 アベノミクスを推進する安倍政権は今、経済の成長をトップにすえて、あらゆる努力をこの成長策に注ぎ込み、TPP交渉に、原発再稼働にと邁進している。 だが日本の現状をつぶさに眺めれば、いたるところに傷を負って、惨状は目を覆うばかりである。 東北大震災の復興は遅々として進まず、原発事故の復旧はめどがたたないばかりか、日増しに事態は悪化しているようにみえる。 地球温暖化に端を発した猛暑と豪雨は列島各地にさらなる被害と被災者を生み続けている。 この状態で東北大震災クラスの地震が、首都直下を、あるいは東海沖を襲ったら、その被害は日本国にとって、もはや立ち上がれないほどの致命傷となろう。 経済の成長どころの話ではない。 政府の成長政策の底流には、そのような 「大震災は発生しない」 とする不作為然とした暗黙の了解が横たわっている。 それは原発事故は発生しないとして原発政策を推し進めた 「安全神話の構図」 と何ら変わるところはない。 現下の日本において、経済が成長しなかった場合の被害と、かくなる大震災が発生した場合の被害を比較して考えてみたらいい。 それでも経済の成長が優先だとすれば、それはもはや 「命を賭けたギャンブル」 を国民に強いるに等しい。 命を賭けたギャンブルが政策たり得るかいなかは、国民の判断が分かれるところであろう。 しかしてかくなるギャンブル政策を回避したいとするならば、「大震災が発生する」 ことを前提にした政策に転換すべきである。 私案として策の1例をあげれば 「首都機能の地方分散」 である。 この政策はかかる災害時のリスクを分散させる目的だけでなく、情報化技術が発達した現在、国家の統御機能を1カ所に集中させる必要性が低下していることにも対応している。 「地球温暖化」、「少子高齢化」、「地方の活性化」 ・・ 等々、あらゆる角度から衆知を結集して 「日本の将来像」 を思いが至る限り、存分に考えたらいい。 アベノミクス政策のように矢継ぎ早に進める必要などまったくない。 大きな間違いに気づくには 「これで充分」 である。 加えれば、これこそが 「災い転じて福となす」 という逆転の1手である。 古来、国家の命運を拓くに用いられてきた 「遷都」 という伝家の宝刀がようようにして形を変えて現代に蘇るときがめぐってきたのである。
天災は忘れる前にやって来る〜不作為の作為 / 2018.07.09
 長く続いた集中豪雨はかってないほどの多大な被害を西日本全域にもたらし過ぎていった。 やはりこの状況は 「異常」 である。 異常気象の原因とされている地球温暖化に歯止めがかからなければ、かくなる災厄は 「過ぎ去ったのではなく 間隔を置いて再びやってくる」 に違いない。 寺田寅彦が 「天災は忘れた頃にやって来る」 と言った時代は彼方に去り 「天災は忘れる前にやって来る」 時代になろうとしている。 寅彦は人間に内在する 「油断」 を戒めるために 「天災は忘れた頃に」 と警告したのである。 だが天災が 「稀有なる災害」 から 「日常なる災害」 に変質してしまうと寅彦の警告は無効に逸してしまう。 「天災は忘れる前にやって来る」 とは私の脳裏に浮かんだ 「アフォリズム(警句)」 であって、実に 「不作為の作為」 を戒める言葉である。 不作為の作為とは 「そうなると分かっているのに何もしない」 という現代人が内在する特有の 「怠惰」 のことである。 「油断」 と 「怠惰」。 人間にとっていったいどちらが 「大敵」 なのであろうか?
崩壊は忘れた頃にやってくる / 2023.04.05
 「天災は忘れた頃にやってくる」 とは寺田寅彦の警句である。 近頃は 「崩壊は忘れた頃にやってくる」 という警句が、日々、説得力を増している。 土地は下がることはないとしていた 「土地神話の崩壊」、原子力は安全であるとしていた 「安全神話の崩壊」 は、ともに忘れた頃に突然やってきた。 そうであれば、日本国債はデフォルトしないとしている 「経済神話の崩壊」 もまた 「忘れた頃に突然やってくる」 のかもしれない。 ただひとつ、確定的なことがある。 そのとき、人は言うであろう 「それは想定外だった」 と、これだけは確かである。 なぜなら、「想定外」 という方便は、不作為の作為に終始する者が用意している 「最強の免罪符」 であるとともに、「最後の切り札」 であるからに他ならない。
 しかして、2024年の元旦に起きた能登半島大地震は、「忘れる前にやって来た」 不作為の作為であったのか、それとも 「忘れた頃にやって来た」 天災であったのか? 未だ漠として確と判定できない。
2024.01.07
< アベノミクスと呼ばれた政治経済政策からの視点 >
全てはそこから始まった
 アベノミクス相場は民主党政権であった野田首相が衆院解散を宣言した2012年11月14日を起点とする。 そこから今年2月10日までの3年3ヶ月の日経平均を平均すると1万5860円になるという。 これはアベノミクス相場で市場全体を買ったと仮定した場合の平均的な買いコストを示し、10日の日経平均はこれを下回ったことになる。 より簡明に表現すれば、アベノミクス相場に乗って、この間に株を買った投資家の大半が含み損を抱えていることになる。 アベノミクスについては過去3回とりあげている。 以下、時系列に従って読んでもらえばその経過の把握が明瞭に浮かんでくる。
アベノミクスの経過 (1) / 2013.01.18
 自民党、安倍新政権が掲げる 「アベノミクス」 と呼ばれる経済政策の目玉はインフレターゲットを設定した積極的な金融緩和と国土強靱化計画と銘打った公共事業投資の拡大である。 両政策とも日銀が所有する輪転機を高速回転させて円を大量に増刷することに特徴がある。 景気は気からと言われるから、これらの政策が日本人の気分を転換させ景気回復に至ることも否定できないが、メカニズムの観点で眺めると少々不安が漂う。 それはこの経済政策が 「永久機関メカニズム」 に相似しているからに他ならない。 ご存じのごとく、永久機関は物理学の 「エネルギ保存則」 から不可能であることが証明されている。 それでもなお1年間に何件かは永久機関の特許申請がなされるほどの、技術者を魅了してやまない夢のエンジンメカニズムである。 この日本の新たな試みが 「大いなる徒労」 におわるのか、はたまた未来に向けての 「偉大な試金石」 になるのか、世界は今、息をこらして見守っている。 試みの終局において、物理学の理論が経済学には適用できないことが証明されればいいのだが ・・ ただそれを願うのみである。
(※)エネルギ保存則とは
 エネルギは機械エネルギから電気エネルギに、電気エネルギから熱エネルギに、というように姿形が変わっても、変化の前後でそのエネルギの総和は一定に保たれるとする物理学における最も基本的な法則である。
アベノミクスの経過 (2) / 2014.11.25
 新たな試み(アベノミクス)が 「大いなる徒労」 になるのか、「偉大な試金石」 になるのか、いまだ判然としない。 その中で安倍首相は衆議院解散を決断した。 消費動向等の経済指標があまりに悪く消費増税が予定通り実施できないからであるという。 解散に大義があるのかないのか私にはわからないが、さまざまな経済指標を公平にながめてみても、アベノミクスには陰りが出ているように思われる。 やはり物理学も経済学も根本とするところは同じなのか ・・? 前回論じたごとく永久機関が実現できない理由は物理学の根源的法則である 「エネルギ保存則」 にある。 この法則をかみ砕いていえば 「A地点からB地点へ移動するために要するエネルギはいかなるルートをとっても同じである」 というものである。 例えばA地点から山の向こう側のB地点に行こうとした場合、山の頂を越えて行こうが山の麓を回って行こうが要するエネルギは同じである。 これを経済学的な言い方に還元すれば 「A時点からB時点に移行するために要するエネルギはいかなる政策をとっても同じである」 と変換される。 さらに分かり易く簡潔に表現すれば 「いかなる政策も、あれが良ければこれが悪く、これが悪ければあれが良い」 ということであって、「あれもこれも良いという政策はない」 ということである。 確かにアベノミクスは一部の大企業や投資家の収益をめざましく向上させた。 聞くところでは上位10社の大企業収益がアベノミクス効果であがった収益全体の80%程度を占めるという数字さえある。 だがその反面で、全体の70%以上を占める中小零細企業労働者や株式投資とは無縁な庶民には多くマイナスの収益をもたらしている。 日本全体を 「足し算すれば 0 となる」 からいいではないかとするのは、はなはだ乱暴な話である。 社会は花も実もあるひとりひとりの人間で成り立っているのであって、数字で成り立っているわけではない。 「一将功成りて万骨枯る」 ではとうてい済まされないのである。
 以下は蛇足であるが、エネルギ保存則では 「A地点から山の向こう側のB地点に行こうとした場合、山の頂を越えて行こうが山の麓を回って行こうが要するエネルギは同じである」 というのだが、「気分は異なる」 であろう。 山頂からの雄大なパノラマを眺めながら行く場合と、山麓に咲く花々を愉しみながら行く場合ではそれぞれ気分は異なる。 「景気は気から」 とは前回も論じたことであるが、あるいはこの気分が経済学では重要なファクターなのかもしれない。 だが気分がエネルギかと問われると答えに窮する。 もしエネルギではないとすれば、やはり経済学は科学の範疇をはずれるものなのかもしれない。 であれば、気分こそがアベノミクス成功に向けた希望の根幹を成していることになる。
アベノミクスの経過 (3) / 2016.02.11
 最近のアベノミクス政策の様相には日に日に手筋の荒さが目立ってきている。 株や投資信託等の運用益や配当金を一定額非課税にする 「NISA口座」 制度の推奨。 年金積立金を使って株式に投資する 「GPIF」。 さらには日銀の 「マイナス金利」 政策等々。 あらゆる政策を総動員して株価を人為的に吊り上げ、為替を円安に誘導してきたのであるが、そのいずれもが剥げ落ちつつある。 やはり経済学もまた物理学と同様に永久機関は夢物語なのであろうか ・・? 安倍首相は自らの名前を冠した経済政策を万能であるかのように自画自賛。 「アベノミクスは買いだ」 と公言してなりふりかまわずに市場を煽ってきた。 それはあたかも政府が証券会社になりかわったかのような話である。 「うまい話はない」 とは、言い古されてきた箴言であるが、今回もまたその轍を踏むことになるのではあるまいか ・・?
アベノミクスの終焉 / 2018.03.16
 「パクス・アメリカーナ」 とはアメリカ合衆国の覇権が形成する 「平和」 を意味し、ローマ帝国の覇権が形成した 「平和」 である 「パクス・ロマーナ」 に由来する。 「すべての道はローマに通ず」 とまで言われた強大な覇権国家であったローマ帝国もやがては衰退し時代の彼方へ去っていった。 栄枯盛衰、歴史に例外はなく、始まりあれば終わりあるは世の習いである。 事の可否に是非はない。 同様に権勢を誇る 「パクス・アメリカーナ」 もまたその歴史の必然から免れることはできないであろう。 そして構図は矮小化されるが、全盛を誇った 「アベノミクス」 もまたその轍を踏襲することになってしまうのであろう。
 かくして2024年の新年を迎えた日本の政治経済は 「八方ふさがり」 で行くも戻るもままならない。 自民党の裏金問題は日々深刻さを増し、度重なる政策の失敗と相まって岸田政権の支持率は20%すれすれ 「過去最低」 を更新し続けている。 また未曾有の過剰流動性を続けてきた日銀は、その結果としての 「円安物価高」 に打つ手がない状態に陥ってしまった。 金利を上げることも下げることもできずに市場を眺め続けるしかない日銀に、はたして 「どのような主体性」 があるというのであろうか? これらの混乱と閉塞はいかなることによって引き起こされたのかの究明は深い 「洞察と省察」 が不可欠であろう。 ここで探求したアベノミクスの経過がその一助になればもって幸いである。
2024.01.08
< 日本民族に内在する特有の思考法からの視点 >
掲載した各エッセイは多くの中から割愛して時間軸に沿って抽出したものである。
時代の感受性 / 2014.06.12
 安倍政権は憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に向けて驀進中である。 だが解釈を変更すれば憲法の内容を変えることができるという考え方には論理矛盾がある。 この論が正しいとすれば、憲法は時の政府の下に位するものとなり、その権威は失墜し、法治国家としての礎は崩れ去ってしまう。 与えられた憲法だからその程度のものだとでもいうのであろうか。 先の大戦では軍人と民間人を含め 5000万〜8000万 の人が亡くなった。 その内、日本の死者数は 262万〜312万人 と言われる。 その終結から今年で69年の歳月が経過した。その日その刻、日本人の誰もが戦争の惨禍に深く哀しみ、こころの底から懺悔したはずである。 「二度と戦争は起こしてはならない」 と。 ドイツ人数学者、ヘルマン・ワイルは 「数学と自然科学の哲学」 の中で、「自然の最も奥深い謎は、死んでいるものと、生きているものとの、対立と共存である」 と述べている。 確かに今を生きる人々のために社会は構成されているわけであるから、現実にそくした経済的合理性と物質還元主義によって、国家の進路を決定して何が悪いのかという論理は成り立つかもしれない。 だがそれは紙の表側だけをとらえた論理である。 見えるものは見えないものによって支えられているがごとく、生きている者は死している者によって支えられているのである。 安倍さんは靖国神社参拝に際し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」 と述べた。 だが祀られている英霊たちはいったいどのように思っているのであろうか。 死せる者の願いを思いやることこそが、今を生きる者としての感受性であろう。 生きている者は、ときとして現実に目が眩んで、この感受性を喪失させてしまう。 だが生きている者もやがては死している者の仲間に加わっていく。 そのとき、死している者の魂の叫びをいかに聴くのであろうか。 時代の感受性とはそのようなものである。 その感受性を失った生きる者とは、いったい 「何もの」 なのであろう。
このままでは / 2016.08.06
 あらゆる情報が地球上を飛び交う現代、人は何をどのように自らの内に取り入れ人生を醸成し完成させようとするのか? 飛び交う情報のほとんどは 「既成」 であって、自ら創りあげるものなど、なにひとつ見あたらないように思える。 仮に運よく 「何かが」 見つかったとしても、たちまちのうちにそれは 「市場化」 され、「商品化」 され、しかして 「換金化」 されてしまう。 かって 「生きて、何もしていないこのままでは、死ぬことなどできない」 と嘆いた彼に出逢ったことがある。 彼の嘆きからすれば 「かくなる現代社会では」 いかに死ぬことができようか? 戦国時代に生きた武士の大半は戦場で華々しく死ぬことを願った。 畳の上で死ぬことなど不名誉このうえないことであったのである。 今放送中のNHK大河ドラマ 「真田丸」 に登場する面々などその代表的な人々であろう。 なかでもドラマの主役である真田信繁(幸村)などは、後世 「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」 との誉れに満ちた人生を完成させた稀有なる幸運に恵まれた武将である。 その最期は戦国最後の戦いとなった大坂夏の陣でみせた真田兵法ここにありの空前にして絶後の激闘であった。 享年49歳、確かに 「戦の勝負」 には負けたかもしれない。 だが 「人生の勝負」 にはまさしく勝ったのである。 いつかはみな死ぬ、今は苦しくても 死ぬときに誰も出来ないことをやったと思えたら、それでいいじゃないか ・・ NHKの人気番組 「プロジェクトX」 の登場人物がつぶやいた言葉である。
やってはいけないこと / 2020.03.09
 私はかねがね人類がやってはいけないこととして 「原子核操作」 と 「遺伝子操作」 の2つを掲げてきた。 理由は異常事態が発生したときに人間として対処不能だからである。 今、日本社会が遭遇している危機の本質とはその侵してはならない2つの操作にまつわる異常事態の同時発生である。 物質文明の臨界点に言及した所以は実にここにある。 遭遇している危機のひとつは福島第1原子力発電所で起きた炉心溶融事故であり、他のひとつは中国武漢に端を発する新型コロナウイルスの感染拡大である。 前者は原子核操作に由来する放射能汚染であり、後者は遺伝子操作に由来するウイルス汚染である。 いずれも人類の存続が問われかねないような危機である。
経済的基準から哲学的基準への転換 / 2020.08.03
 日本は今、異常な混乱状態にある。 かくなる混乱は新型コロナウイルスの感染拡大がもたらしたものではあるが、その萌芽はそれ以前からすでにして潜在していたのかもしれない。 それは体裁を取り繕っていただけで、ひとたび事が起きれば瞬く間に表面化するような脆弱性に裏打ちされていたのであろう。 その脆弱性が臨界に達すれば取り繕っていた体裁などあえなく崩れ去ってしまう。 それが愚策を連発して尚、覚醒しない現在の日本の実像の全てではあるまいか? その惨状は 第1419回 「国は愚によって滅ぶ」 で描いたことである。 従来。 国の進路を選択するにあたっては、経済的合理性や科学的合意性に基づいて判断が為されてきたことは周知のことである。 だが発生したコロナ禍の解決にはそのどちらを採っても判断基準の必要十分条件を満たさないのである。 かかる判断基準を使って万能を誇ってきた現代人も今回ばかりはお手上げ状態なのである。 こうなれば新たな判断基準を使うより他に道はない。 その基準とは 「哲学的合理性」 に基づいたものではあるまいか? 哲学的合理性とは耳慣れない言葉であろうが平易に言えば 「人は何のために生きているのか」 という基準である。 コロナ禍における難題の構造は 第1418回 「二律背反の帰結」 で論考した。 その中では解決の帰結として 「二兎を追う者は一兎をも得ず」 や 「命あっての物種」 等々の先人の知恵について述べている。 この帰結こそが哲学的合理性という判断基準である。 「命あっての物種」 とは、経済対策を優先して経済を再生してみても、人間が生き残っていなければ国是としては意味を成さないことを述べている。 「何のために人は生きているのか」 を考える人間さえいれば、経済は自ずと再生されるであろう。 しからば優先すべきは感染対策であって、しかるのちの経済対策である。 「二兎を追う者は一兎をも得ず」 とはそれを戒めている警句である。 哲学的な判断基準とは、言うなれば哲学的価値観ということである。 行き詰まってしまった経済的価値観から哲学的価値観へと視点を転換すれば、見えないものも観えてくるということである。
 以下蛇足ながら。 第686回 「経済的理由」 (2012.6.18) で同様のことを思考したことを思い出した。 それは以下のような内容であった。 原発再稼働を決めた野田首相の国民へ向けた会見での主旨は 「動かさないことで発生する経済的なリスクを考え ・・ 」 というものであった。 言うなれば経済的理由である。 つまり、日本国民の命運は 「経済的理由」 で決まるということである。 日本の政権の価値観は野党であっても与党であってもそう変わるものではないのかもしれない。
確信なき社会 / 2021.02.26
 現代社会を生き抜くことは大変である。 有名大学を出たといっても必ずしも就活の助けにはならない。 かといって手に職をつけたからといってエキスパートロボットの技量を超えることはそう容易ではない。 それを知ってか知らずか最近の子供達が目指す職業はユーチューバーやお笑い芸人だという。 発展する情報化社会の中で事態は混沌の様相を深め、やがて来る 「確信なき社会」 に向かって歩を進めているかのようである。
予定された社会 / 2021.05.17
 現代社会は全てが予定された社会であって、何事をするにも常に 「予約」 を求められる。 だがその全てが予定通りに進むものでもなく、予定には変更がつきものである。 しかして、その予定と変更を繰り返すことで、未来は衰弱し閉ざされていく。 人生が 「予約の終了」 をもって終局に至るとは、何と 「ワクワク感」 のない人生であることか。 このような予約がなかった原始社会への憧憬が日増しに強くなる昨今である。
虚構の世界 / 2021.11.09
 日本社会は 「虚構の世界」 となりつつある。 それは虚構の政治であり、虚構の経済であり、虚構のメディアであり、虚構の文化であり ・・ およそ考え得る活動の全域に渡る。 その虚構の世界でも事実だけは着実に進行する。 それは日本近海の海底火山の爆発による噴石(軽石)の海洋漂流であり、頻発する地震であり、火山噴火であり、地球温暖化による異常気象であり、社会不安による凶悪事件の頻発であり、モラル低下による詐欺であり、汚職事件であり ・・ およそ考え得る事象の全域に渡る。 虚構の世界は砂上の楼閣であるがゆえにいずれは崩れ落ちる運命にある。 だが事実が積み上がった実在の世界は消え去ることはなく、いずれは顕在化する運命にある。 そのときいったい 「何が起こるのか?」 それが問題である。 だが虚構の世界に生きる多くの人々は目先のことばかりに追い回されそのことを考えることをしない。 暇になったら考えると言うのだが、ではいったいいつになったらその暇ができるというのであろうか。
国は愚によって滅ぶ / 2022.10.17
 かっての日本は政治システムはともかく 「官僚システム」 の優秀さは世界から畏怖されるほどであった。 それがどうであろう? 繰り出す政策はどれもこれも 「それは無理でしょう」 というものばかりであって、その退廃は目を覆うばかりである。 官僚システムが正常であったればこそ、国民もまた彼らを信頼し黙ってついていくことで、大過なく生きてこれたのである。 だがその信頼が失われつつある現代では黙ってついていっては命取りになりかねない。 戦後長く続いた 「天下太平の世」 は今や終わりを告げようとしているのである。 安泰も長く続くと危急に転化するのは 「天の摂理」 であって避けることはできない。 だが最大の問題は平和呆けに陥ってしまった日本人の脳髄がその危急がいったい何であるのかに気がつかないことである。 「国は愚によって滅ぶ」 とは歴史の真理であるのだが。
この国のかたち〜虚構の社会 / 2022.12.02
 この国のかたちをこのように変形させてしまった最大の原因は 「形ある物体を基本とする工業社会から形なき情報を基本とする情報社会への転換」 であろう。 言うなれば物質から意識への転換である。 現代人の功利主義的風潮はその結果に他ならない。 現代人の多くは頭で考え口で論じることはできてもそれを体で実行することはできなくなってきている。 形ある物体を基本とした工業社会では 「不言実行」 が推奨された。 譲っても 「有言実行」 であった。 だが形なき情報を基本とする情報社会では大半が 「有言不実行」 であって、大半の時間がその言い訳に費やされる。 その言い訳が尽き果てると次には妄想化した頭で考え出したおよそ実現不可能な虚構(あるいは虚偽)を口にするようになる。 現代の功利主義的社会の実態とはかくこのようなものであろう。 その実体は多くの人が分かっていることではあるが、あえてそれを指弾するようなことはしない。 なぜならその虚構こそが現在の 「この国のかたち」 だからに他ならない。
不幸の源泉 / 2022.12.28
 人として信頼されないことは人間にとっては 「致命的」 である。 民衆をして、ときの総理大臣を支持できない理由が 「人間性が信頼できないから」 という世論調査の結果は、この国の未来にとって、あるいは致命的な帰結を表象しているのかもしれない。 それでは、現代社会で信頼にたる人がどのくらいいるのかと考えれば、これもまたお寂しい話で、信頼できる人を数えたら片手にさえ余るが、信頼できない人を数えたら両手でも足らない。 今や信頼にたる人は創作されたテレビドラマの中には多く存在するが、リアルとしての現実社会の中では 「絶滅危惧種」 のように少ない。 現代人の不幸の源泉はそこに根ざしている。 「今、そこにある危機」 とはそのことである。 国が目指すべきは、GDP(国内総生産)の増大ではなく、信頼にたる総国民数の増大なのである。
間違いだらけの世界 / 2023.01.20
 私には現代社会が 「間違いだらけの世界」 のようにみえる。 ひょっとすると 第1708回 「間違いの本質」 で思考したごとく、現代社会は物事のベースである基盤のところで間違えているのかもしれない。 であれば、その間違えた基盤のうえに築かれたあらゆる物事は間違いである。 だがそのことを誰も指摘しない。 それは表層では辻褄を合わせ、いかにも間違っていないように取り繕っているからに他ならない。 そのような整合性は何とも居心地の悪さを感じる。 喩えて言えば、法体系上の表層に位置する各々の法律は間違えていないにもかかわらず、法体系上の基盤に位置する憲法が間違えているような居心地の悪さである。
競争原理の帰結 / 2023.01.28
 現代の資本主義的な自由経済の行き着く先にある社会とはいかなるものであろうか? 資本主義的な自由経済は 「競争原理」 を基とする。 競争のあげく A社 が B社 に勝ったとしても、やがて登場する C社 に負ける。 勝ち残った C社 にしても同じ運命をたどって D社 に負ける。 結局。 かくなる競争では仮の勝者は存在しても 「絶対的勝者」 は存在しない。 これがかくなる 「競争原理の帰結」 である。 それを分かっても競争に明け暮れる現代社会とは、いったい何であろうか? それだけの時間を他に振り向ければ、少しはましな人生をおくれると思うのだが。
回帰すべき原点 / 2023.02.22
 司馬遼太郎が目指した 「その小をもって、その大を描く」 とは 「細部は全体、全体は細部」 とする宇宙の 「フラクタル構造」 を意味するとともに、華厳経が説く 「一はすなわち一切であり、一切はすなわち一である」 とする 「ホロニック構造」 を意味する。 これらの宇宙構造については、第1401回 「一隅を照らす」 で論考している。 その末尾で、私は以下のように書いた。
 社会から目指すべき目的と頼るべき価値観が失われてしまった現代。 人は今、何をよりどころに生きて行けばいいのか途方に暮れている。 文明の利器であるコンピュータやスマートフォン等々で盤石に備えられていても日々迷ってばかりいる。 人としての基軸がふらついていてはものの役には立たない。 最澄が説いた 「一隅を照らす」 の教えは、そんな現代人に 「回帰すべき原点」 を指し示しているかのようである。
データだけで仕事をする人々 / 2023.05.03
 検査データを見るだけで患者の顔を見ようとしない医師。 財務データを見るだけで社員の顔を見ようとしない経営者。 偏差値データを見るだけで生徒の顔を見ようとしない教師 ・・ 等々。 これらの人々には、やがて襲来するであろう人工知能によって、とって代えられる数奇が待ちかまえている。 ゆめゆめ油断してはならない。
現代人の不幸とは / 2023.05.11
 現代人は多く他者とは対話するが、自らと対話することは少ない。 言うなれば、他者とは 「身の外なる世界」 であり、自らとは 「身の内なる世界」 である。 つまり、ひとときも休むことなくスマートフォンを打ち続けて身の外なる世界と対話する者は多いが、ひとり静かに身の内なる世界と対話する者は少ないということである。 現代人の不幸は 「この1点にある」 と言っても過言ではない。 これでは見るもの見えず、聞くもの聞こえず、まるで 「裸の王様」 のようではないか。
誰のための世界か / 2023.07.31
 世界はますます人間にとって生きにくくなっている。 かっての世界は 「人間の世界」 であった。 言うなれば 「人間が主役」 の世界である。 現代は 「科学が主役」 の世界である。 言うなればそれは 「機械やコンピュータが主役の世界」 である。 そして今、その 「機械やコンピュータ」 が 「情報データやAI(人工知能)」 へと主役の座を移しつつある。 世界が情報データやAI(人工知能)のためのものとなってしまっては、人間はいったいどこに住んだらいいというのであろうか? 現代がもっとも特徴的なことは、この 「誰のための世界か?」 という根本義がゆらいでいるところにある。 それは政治経済から学術文化等々まで全域に渡る。 曰く、「誰のための政治」 で 「誰のための経済」 なのか? 「誰のための学術」 で 「誰のための文化」 なのか? 言わずもがな、それは 「人間のため」 である。 巷間 「世も末」 が叫ばれるようになって久しい。 だが世も末とは、「夜明けは近い」 ということでもあるのだが。
危機の本質 / 2023.08.18
 近現代が目指してきた全体としての大きな世界の 「危機の本質」 とは何であろうか? 第 1 にあげられるのは 「赤信号みんなで渡れば怖くない」 とする 「集団的無責任体制」 の仕組みである。 頻発する多くの問題の底流には、かかる体制の弊害が横たわっている。 全体としての大きな世界では、構成する人数が多いため個々人の存在感がその中に紛れ込んでしまって目が行き届かない。 そのため全体の動向を左右する 「意志決定」 において、互いが互いを牽制するとともに期待するだけで積極的に関与しなくなる。 つまり、自らがやらなくても 「誰かがやってくれる」 であろうとする自己責任の放棄である。 その体制が進むに従って、集団を構成する個々人から 「存在の使命感」 さえ失わせてしまう。 そうなっては、大きな世界が保持していた機能は失われ、集団は凋落して崩壊に逸してしまう。 第 2 にあげられるのは、全体としての大きな世界をコントロールするために構築した 「システム化の弊害」 である。 システムは大きな世界の利便性向上に基づいて作成される。 だが達成された 「過剰な利便性」 は、ともすると構成する個々人に思考停止を促し、あたかも 「システムの構成部品」 のような存在へと貶め、無力化させてしまう。 これらの本質は全体としての大きな世界をかくこのように繁栄させた原動力であったのであるが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」 の喩えのごとく、利点はやがて欠点へと転化してしまう。 「社会は繁栄した理由をもって滅ぶ」 とは 「歴史の必然」 ではあるが、その轍を超えることは、不可能に思えるほどに高い壁となって立ち塞がっている。 大きな世界が被る危機の本質とは、あるいは自らに内在する大いなる 「自己矛盾」 の帰結なのかもしれない。
根本を間違えた社会 / 2023.10.01
 根本を間違えた社会はどこまで行っても間違いである。 それはボタンをかけ違えたようなものであって、もとに戻ってかけ直す以外に他に手立てはない。 現代の日本社会はそのような状況下に陥っているのではあるまいか? 繰り出す政策はどれも小手先の応急策であって、「根本を変える」 ものではない。 立案された政策の柱は 「骨太」 と銘打たれていても、どれもがその場しのぎの補助金や特例だらけの政策であって、犯罪の温床になることはあっても 「世のため人のため」 のものとは言い難い。 それもまた日本の 「国民性のなせる業」 と言ってしまっては 「身も蓋もない」 が、そろそろなんとかしなければ取り返しがつかない。
間違えた社会の評価とは / 2023.11.08
 それは20数年も前のこと、開発した技術について新聞記者から取材を受けた折のことである。 多分に気負いに満ちていた私は、言の端に寄せて 「間違えた社会から評価される あれこれ は間違いである。 どうせなら正しい社会から評価されたいものだ」 との心情を吐露した。 かくなる回答に窮したのか、くだんの記者は 「機が熟すのを待つ」 と題したその記事の末尾で 「独創を極めたのか、現在の本人は至って自然体だ」 との文面で応えた。 さもありなんのくだりであった。 それから幾星霜。 眼前にする現代社会が 「間違えた社会」 なのか、それとも 「正しい社会」 なのか、いまだに判然としない。 先日までは 「増税メガネ」 と揶揄されていた一国の首相は、今や 「迷走メガネ」 と言われるに及んでいる。 はたして、間違えた国で選ばれる首相は、やはり間違える首相なのであろうか? どうであろう。
信じられない時代〜無気力と自信喪失 / 2023.12.08
 先日。 アメリカ、ドイツ、日本において実施されたという 「意識調査の結果」 を知ったことで、それまで 「もやもや」 していたものが一挙に解決したかのような気にさせられた。 その調査によると、日本では時の政権を 「信じられない」 という人が 50% 以上とその他の国と比べれば大差の 1位 であるという。 だが今後に 「何に期待するか」 を問うと 90% 以上が 「国と地方自治体」 であるという。 では職場や仲間など 「周りに信じられる人がいるか」 を問われると、大半の人は 「いない」 と答え、自分が 「周りから信じられているか」 を問われると、その大半が 「わからない」 と答えたという。 ちなみに、アメリカ、ドイツでは 90% 以上の人が 「周りに信じられる人がいる」 と答えるとともに、自らが 「周りから信じられている」 と答えたという。 この結果は何を意味しているのか? 単純に考えれば、日本人は、自らの政権を信じてはいないものの、かといって自らが進んで 「何ごとかをしよう」 とは思わないという 「無気力」 な状態であるとともに、自らさえも信じられないという 「自信喪失」 の状態に陥ってしまっているということである。 かっての高度経済成長時代には存在した 「やる気と自信に満ちていた日本人」 はいったいどこへいってしまったのか? 物質的に貧しかった時代では精神的に豊かであった日本人が、物質的に豊かになった現代では精神的に貧しくなってしまったとは、何とも皮肉な巡り合わせである。 そこへ導いたものとは、「経済拡大一辺倒」 への傾斜であり、日々追われるごとく叫ばれたスローガンとしての 「成長!成長!」 と 「競争!競争!」 のシュプレヒコールであったのではあるまいか? かくして行き着いた世界が 「無気力」 と 「自信喪失」 が常態化した現代社会であったのである。
 掲載した各エッセイは長期間に渡る執筆の中から 「閉塞社会の原因」 となったであろう日本人に内在する特有の思考について抽出したものである。 それらの思考が行き着いた世界が無気力と自信喪失が常態化した現代社会であったとは 「何ともやり場のない気持ち」 にさせられるが、その原因は各々のエッセイの中に象出しているはずである。 首題に記したごとく、その原因が解れば閉塞社会からの脱出は可能である。 古人曰く、歳月は旅人にて、日々旅を住みかとす。 歳月の旅に終わりなく、また不足の事態はいつの旅にもつきものであろう。 今再び、我々は歳月の旅路を先に進めなければならない。 その旅程に速すぎることも遅すぎることもないのである。 世相混沌をきわめる巷間、この論考がそんな旅の 「道標」 になってくれれば幸いである。
2024.01.11

2024.01.17


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