Linear ベストエッセイセレクション
縄文への回帰
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未知なる領域に向けて
 今を遡る2300〜2400年前、縄文時代と弥生時代の狭間で展開された空前の 「歴史ドラマ」 とは何であったのか。 自然に宿っていた魂は崩壊。 自然と一体であった人間の心は分裂し、分離し、瓦解していった。 そしてついに 「神は死んだ」 のである。 かくして始まった弥生人以降の機能社会は、今やさまざまな矛盾を露呈し瀕死の状態にある。 ここで時空の彼方に去っていった縄文人の痕跡を辿り、現代人が忘れ去ったものが何であったのかをあきらかにしなければ、ここから先の未知なる領域に進むことはできないであろう。
縄文と弥生
 縄文式土器を見たときに感じるあの 「異様さ」 はいったい何であろう。 器として使用するには誠に不便。 何か宗教的な儀式に使用されるのが似つかわしい雰囲気が漂っている。 土偶に見られる様式はさらに異様さが増し不気味ですらある。 人間の姿を模倣したにすれば縄文人の技巧はあまりにつたなく、土器に見られる巧妙な技巧をもってして土偶の写実があのように拙いのは理解に苦しむ。 むしろ人間描写よりも他の何者かを描きとったと考えるほうが納得がいく。 これら縄文式土器、土偶の特徴を簡潔に表現するならば 「呪術的」 という言葉が最もあてはまる。
 さらに日本の津々浦々から発掘される縄文式土器、土偶の様式の一致はどうしたことか。 縄文時代は1万2千年前から紀元前4世紀頃までの期間である。 その間、これらの様式の進歩が見られないのはどうしたことであろう。 縄文人は狩猟採集により生活を営んでいたのでありその社会は孤立的な小規模集団であったであろうことが想像される。 その孤立的小規模集団の社会システムの中から、どうして全国にわたる同一な様式が完成したのであろう。 縄文が現代に投げかける疑問であり、また 「何事かを伝える」 メッセージでもある。
 その様式は農耕社会が始まると一変する。 弥生式土器の登場である。 弥生時代は紀元前3世紀頃から紀元後3世紀頃までの期間である。 稲作が始まり社会は階層に分かれ小国家が形成された時代である。 これらの土器は我々が現在使用している器にほぼ近く縄文式土器に漂っていたあの異様さがあっさりとぬぐいさられ霧散している。 弥生式土器の特徴を簡潔に表現するならば 「機能的」 という言葉が最もあてはまる。
 この 「呪術的土器」 から 「機能的土器」 への転換はまた一気に行われた観がある。 それはふたつの様式の土器の間にそれぞれの様式が混在する中立的土器が発見されないことによる。 ダーウィンの進化論的展開に見られるように徐々に変化したのではなく、まさに突然に変化したかのようである。
 この変化はあたかも人間が様変わりしたような感じさえある。 このように人間を様変わりさせたものとはいったい何であろう。 よほどの価値観の転換がなければならない。 狩猟採集社会と稲作農耕社会の違いは単に社会システムの違いではなく人間の思考精神に根ざす大きな転換があったはずである。
 狩猟採集社会の人類は猪や鳥などの人間以外の動物たちと同じように自分たちが自然に働きかけるという 「能動的」 な行為で食料を得ていたのではなく自然の恵みを受け取るという 「受動的」 行為で食料を得ていたと想像される。 自然は自分たちの生命を守ってくれる 「父母のような存在」 であったであろう。 自然の子である人類は父母である自然を敬い慕い抱かれようとしたに違いない。 その父母である自然を冒涜するなど畏れ多いことであった。 その父母的自然は神に昇華する。 ゆえに縄文人の神とは自然そのものであり自然の万物事象はそのまま神の声であり天変地異はそのまま神の怒りであったに違いない。 これらの精神構造を縄文人がもっていたと考えなければ縄文式土器や土偶に発現している一種異様な呪術的雰囲気を理解することができない。 彼らは生活用具としての器を 「作った」 のではなく、自分たちを育む自然神をその中に 「創った」 のである。
 稲作農耕社会の人類は人間以外の動物たちと大きく異なり自然の恵みを受け取るという 「受動的」 行為で食料を得ることから自然に働きかけるという 「能動的」 行為で食料を得ることに変化した。 この 「受動から能動へ」 の姿勢の転換こそ人類と他の動物との訣別を促し自然との遊離を促した。
 ではその自然に対する能動的働きかけである稲作手法の発生はいかに可能であったのであろう。 稲作手法の裏側には理性的で客観的な 「自然観察」 という人間特有な思考姿勢が隠されている。 稲作手法の構築のためには少なくとも、種を蒔けば芽が出て、成長し、実がなるという 「因果」 と自然は春夏秋冬の季節を繰り返すという 「循環」 のふたつの自然法則を察知し理解しなければならない。 前者は、その後の人類に最も影響を与えた 「因果律」 の、そして後者は 「循環論」 の発芽である。 その行為は、良く言えば父母である自然からの子である人間の 「自律」 であり、悪く言えば 「反抗」 である。
 量子論的解釈で説明すれば縄文宇宙のあらゆる可能性を含んだ波動関数が意識をもった人間が 「因果」 と 「循環」 を観測した瞬間に一気に収縮し、その後の因果律宇宙が現実化したことになる。 この現実化した宇宙こそ弥生宇宙である。 大宇宙の片隅の太陽系のひとつの惑星である地球という局所で、この 「因果と循環」 が観測された瞬間に全体宇宙が我々が今目にする 「このような宇宙」 に現実化し固定したのである。
 これにより縄文宇宙の自然神は消滅し弥生宇宙の機能社会が発現した。
 因果と循環を察知した人類は次々と自然に働きかけた。 その中から人類の価値観が生まれた。 その価値観こそ 「機能」 である。 その機能認識なくして弥生時代が成し遂げた社会の階層分離や小国家の成立はありえない。 弥生人が自然の中に見たのは組織化された因果の連鎖であり、またその循環運動である。 自然界のあらゆる存在がその連鎖や循環に 「ある働き」 をしているという認識の取得である。 その 「ある働き」 とは役割であり機能である。 社会システムや国家組織はこの 「役割と機能」 の認識なくして構築は不可能である。
 その意味において、弥生時代は現代社会の基盤であり、また出発点でもあった。 これが我々現代人が弥生式土器に対して素直に納得し理解できる理由であり根拠である。 それに対し縄文式土器を見たときに感じる我々現代人のあのとまどいにも似た異様な感覚は急激な価値観の転換があったことの理由であり根拠である。
 ではこのような激しい価値転換が何ゆえこの時期に起きたのであろうか。 この説明として次のふたつの説をあげる。
 ひとつは一万数千年続いた縄文時代の熱力学的なエントロピー増大が物理学者イリヤ・プリゴジンの説明する非平衡熱力学の散逸構造理論により 「自己組織化」 したというものである。 自己組織化とは混沌から一気に規則化された結晶構造が発現する現象である。 ダーウィンの進化論で言えば突然変異がこれにあたる。
 もうひとつは大陸文明の日本列島への伝播である。 稲作のみならず金属器の渡来がシュレジンガーの説明する波動方程式の波動関数の収縮をもたらしたというものである。 自然神のもとに生活していた縄文人はそれを見て、知って、(つまり、観測して)驚嘆したのである。
 いずれにしても縄文から弥生への変化には人類にとって非常に重大な意味が隠されている。 我々は現代社会が発生する以前に存在した縄文世界を探求しこの重大な意味を解き明かす必要がある。 でなければ20世紀末が迎えているこのカオス化した複雑な宇宙を突破することはできないであろう。
 縄文式土器のもうひとつの疑問。 全国各地から発掘される縄文式土器は何ゆえに様式の一致が見られるのかという問いである。 これは心理学的に解かれる。 弥生文明の発生には因果律認識の発生が深く関わっていたことは前述した。 これから逆に考えられることは縄文文明においては因果律認識がなかったか、あるいは希薄であったという事実である。 人間の頭脳構造で言えば因果律などを理解認識するのは左脳であり、感情や直観が作用するのは右脳である。 この頭脳構造で考えれば弥生人以降の人類は左脳的認識的であり、縄文人は右脳的直観的であったであろう。 縄文人が直観的であったということは彼らの遺した縄文式土器、土偶などを見れば納得できるところである。
 認識学的に考えれば縄文式土器、土偶の様式の一致は、その頃において全国に渡る情報伝達システムがなければ不可解なことになる。 現代のようにテレビや電話があったわけではなく、因果律、つまり機能を理解しない彼らが緻密に組織化された社会システムを構築していたとは考えにくい。 では、どのようにして情報は伝達されたのか。
 ここで心理学者ユングの共時性を登場させる。 共時性は超因果的であり、まったく因果がつながらない事象が同時発生する現象である。 その同時発生した事象の中に 「意味ある符号」 を見いだすことが共時性である。 共時性は超因果的であるとともに心理学的な潜在意識に関係し直観的である。 縄文人は現代人が左脳的因果認識にあまりに重心を移したために失ってしまった(実はこれが縄文式土器、土偶に異様さを感じる原因なのであるが)右脳的直観能力が極度に優れていたと考えられる。 その超因果的直観能力の内容を我々現代人の左脳的因果認識では測り知ることはできない。 まだ幾分は残っている右脳的直観能力で想像するしか手だてがないが強い共時性によって個々の縄文人が意識の統一性をもっていたことは疑いないことであろう。
 これらを考える時、縄文世界の情報伝達は現代よりさらに量子論的であったと思わざるを得ない。 それは現代科学の粋を行くコンピュータや衛星通信技術が量子論によって構築されていることと対をなす。 一万数千年を通じての縄文文明の様式の一致はこれらを抜きにしては語り得ない。 ひょっとすると縄文文明は現代文明を凌駕する 「特別な機能」 を付帯していた世界であったのかもしれない。
 縄文と弥生の狭間で展開されたドキュメントは人類と宇宙が織りなした 「空前のドラマ」 であった。 自然に宿っていた魂は崩壊し、その自然と一体であった人類意識は分裂し、分離し、瓦解していった。 そしてついに 「神は死んだ」 のである。
 我々はその巨大な宇宙崩壊の後の神のいなくなった宇宙に生きている。 神に代わって今この宇宙を支配しているのは 「機能」 であり、それに付随する 「能力」 であり、さらにそれに付随する 「価値」 である。 人間は1個の自立した宇宙存在ではなくなり、その機能追求のための部品と化していく。 そして今やアメリカ文明社会に代表されるプラグマティズム(道具主義)が世界の主流となり膨大な機能社会を出現させた。 人類は結局。 自らを、そして自然を 「道具」 にしてしまったのである。
 現在、この弥生から始まった因果律的機能社会はさまざまな矛盾を露呈し瀕死の状態にある。 ここで我々は時空の彼方に去っていった縄文人の遺した痕跡を辿り、我々が忘れ去った記憶の深層に遺る人類の 「心のふるさと」 に回帰しなければならない。 そのときこそ我々が 「何を得て、何を失った」 のかが判明する時でもある。 それはまた人類のたどった歴史ドラマが一大叙事詩として完成する時でもあろう。
縄文への回帰
 現在の社会を眺める時、それは巨大で複雑な機械システムのようであり、その中で生活する人間はその機械システムの構成部品のように見えてくる。
 この機械システム(社会)の基準は 「機能」 と 「コスト」 の合理性である。 従って、このシステムの構成部品(人間)が 「機能」 と 「コスト」 の論理によって評価されるのは必然の成り行きであろう。
 このような社会システムが日本で創始されたのは古代国家が成立された弥生時代ということになろう。 紀元前四世紀頃のことである。 以来二千年以上に渡り日本民族はこのシステムの発展と拡充に奔走して来たのである。
 だが弥生時代の前に一万二千年に渡る縄文時代があったことを我々は忘れてはならない。 縄文時代は狩猟採集社会であり、縄文人は自然の恵みを生活の糧とし、自然を神のごとく崇めて生きていたと考えられている。 少なくとも農耕文明を基として古代国家を構築した弥生人のように人間を 「機能」 と 「コスト」 という視点では見ていなかったであろう。 それは縄文人が遺した 「縄文式土器」 と弥生人が遺した 「弥生式土器」 を比較すればよく理解される。
 前者に顕れたものは 「呪術性」 であり、後者に顕れたものは 「機能性」 である。 機能社会に生きる我々にとってみれば弥生式土器は違和感なく理解されるのに対し、縄文式土器を眺めた時に感じるあの異様で不気味な呪術性はとまどい以外の何ものでもない。
 このような構図は西洋にもあり、西洋ではギリシア神の名前になぞらえて縄文的なものをディオニソス的、弥生的なものをアポロン的と表現する。
 この対比を簡潔に言えば、縄文・ディオニソス的は 「思い」 の意識構造であり、弥生・アポロン的は 「考え」 の意識構造である。 現代人である我々はこれらの意識構造をひとつにして 「思考」 と表現する。 だが、この思考という意識の中には悠久な歴史空間を貫いて培われた 「縄文人の思い」 と 「弥生人の考え」 というふたつの意識構造が内包されているのである。
 「弥生人の考え」 の意識構造はみごとに発展開花し、今日、我々が目にする素晴らしい機能社会を築いたが、一方で 「縄文人の思い」 の意識構造をその機能性の海に埋没させてしまった。 現代人が機械部品のように見えるのはその結果に他ならない。
 人間は機械部品ではないし、また生きる意味は機能とコストという 「電卓」 をいくら叩いても得られるものでもない。 それは自然で、自在無碍な 「縄文人の思い」 が語ってくれるものであろう。
 そして、ようようにして歴史は今、二千年の周期を描いて、その 「縄文の思い」 に回帰しようとしているかのように私には眺められる。
縄文アソシエイツ
 近代文明の発展は、地球環境に多大な影響を与え、かってなかった気候変動をもたらし、あたかも日本列島は 「災害列島」 の様相を呈している。 影響は地球環境にとどまらず、社会環境の根底をも変質させ 「不安定で異常な動向」 は日々その激しさを増している。
  「縄文への回帰」 は20世紀が終わろうとする1999年12月に地元紙(松本市民タイムス)に掲載されたエッセイである。 それに遡る数年前、私は 「縄文社会への回帰」 を画して日本列島を奔走していた 「縄文アソシエイツ」 の古田英明社長に出逢っている。 それは古田社長が縄文アソシエイツを創業して間もない頃のことであった。 話をしたいと長野県安曇野にあった私の事務所を訪れた古田社長は 「縄文への熱き思い」 を全身で語ってくれた。 青森の 「三内丸山遺跡」 が発掘された折には、仕事を放り出して駆けつけたと、そのときの感動を輝く瞳で表現した。 その出逢いのあと、今度は私が東京の縄文アソシエイツ事務所を訪れた。 小さなオフィスの入り口には縄文でデザインされた暖簾(のれん)が掛けられていた。 お茶を運んでくれた女性社員にその珍しさを問うと 「今年の社員旅行では屋久島の縄文杉を見に行ったんですよ」 と笑って応えてくれた。 その後の 「縄文アソシエイツ」 の目覚ましい躍進はここで語るまでもない。 古田社長に宿った若き日の熱情は縄文の時空を超えて未来の彼方に飛翔したのである。
※)社名 「縄文アソシエイツ」 の由来とは
 弥生時代以降の日本の歴史はたかだか 「2400年」 であるが、その前には 「10000年」 続いた縄文時代があり、フラットな自己責任の社会が営まれていたと言われている。 ピラミッド型社会の閉塞状況を打ち破り 「会社の終身雇用」 から 「社会の終身雇用」 へと我が国の雇用システムの大転換を実現するためには縄文時代という 「日本の原点」 に立ち帰らなければならない ・・ との古田社長のメッセージが込められている。
縄文のビーナスと仮面の女神
 以下の記述は国宝の縄文土偶である 「縄文のビーナス」 と 「仮面の女神」 が発掘された棚畑遺跡と中ッ原遺跡を訪れたときの所感を綴った紀行文(信州つれづれ紀行)からの抜粋である。
縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡(長野県茅野市米沢埴原田)にて
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 縄文土偶として初めて国宝に指定された 「縄文のビーナス」 が出土した棚畑遺跡はいつか訪れようと考えていた。 ようよう意を決して訪れたのであるが 「あまりに粗略な扱い」 に意気は消沈してしまった。 日本国中の人々が羨望の眼差しを傾ける 「縄文のビーナス」 であっただけにその落胆の度はより大きかったのである。
 棚畑遺跡は米沢埴原田の工業団地造成に伴い昭和61年に発掘された茅野市内でも最大規模の遺跡である。 縄文のビーナス は縄文時代中期(約4000年〜5000年前)の土偶である。 縄文時代の集落は何軒かの家がお祭りなどに使う広場を中心にして環状に作られており、そのビーナス土偶は広場の中の土坑と呼ばれる小さな穴の中に横たわるように埋められていた。 全長 27 cm、重量 2.14 kg である。 大半の土偶が破壊されているのに対してビーナス土偶は完全な形で見つかった。 それがなぜなのかはいまだ不明である。 だがそのアバンギャルドな造形美は妖しくもまた魅惑的であって知らず引き込まれていってしまう。 縄文人とはいったい 「いかなる人々」 であったのか? 想像は時空を超えて広がっていくばかりである。
仮面の女神が出土した中ッ原遺跡(長野県茅野市湖東山口)にて
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 縄文のビーナスが出土した棚畑遺跡を後にしてそこから東に 3 km ほどの位置にある中ッ原遺跡に向かう。 おそらく視力に優れていた縄文人であってみれば棚畑の集落から中ッ原の集落が遠くに眺められたのではあるまいか。 中ッ原遺跡からは2000年8月23日に大形土偶 「仮面の女神」 が出土発見された。 「縄文のビーナス」 の出土が1986年9月8日であるから遅れること14年余りである。 また 「縄文のビーナス」 が国宝に指定されたのが1995年6月15日に対して 「仮面の女神」 が国宝に指定されたのは2014年8月21日とつい最近のことである。 ともに縄文時代中期(約4000年〜5000年前)の土偶である。 中ッ原遺跡における 「仮面の女神」 に対する扱いは棚畑遺跡での 「縄文のビーナス」 のそれと較べて丁重さが感じられ先ほどまでの落胆は少しは報われた気持ちになった。
 仮面の女神は全長は 34 cm、重量は 2.7 kg と土偶としては大形で、顔に仮面をつけた姿を思わせることから 「仮面土偶」 と呼ばれる。 遺跡のほぼ中央に位置するお墓と考えられる穴が密集する場所で穴の中に横たわるように埋められた状態で出土した。 この出土の様子は見つかった場所に 「そのままの状態」 で保存展示されている。 置かれた女神土偶は実物ではないが発見されたときの感動がリアルに伝わってくる。 そのアバンギャルドな造形美は 「縄文のビーナス」 と較べても遜色ない異彩を放っている。
 それにしても同時代に作られた国宝 2体 の土偶が 3 km ほどの近隣圏内で見つかるとはあるいは当時このあたりは文化発信の重要拠点であったのかもしれない。 ひょっとすると 「縄文のビーナス」 と 「仮面の女神」 の作者は同じであったのではないかというような奇想天外な推理もしてみたくなる。
 ひととき縄文の時空に身を委ねたあと 「ふと空を仰ぐと」 あろうことか巨大な入道雲に隠された陽光から放射された光が仏様の光背を紡ぐ後光のように天空に広がっていた。 いまだかって見たことのない光景はあたかも 「縄文のビーナス」 や 「仮面の女神」 が時空を超えて現代に生きる私に 「何事かを語っている」 ように思えた。 それは共時性が発する 「意味ある符号」 でもあったのであろうが残念ながら私にはその符号の意味を解することはできなかった。 沸きあがったイメージはやがて縄文の時空に静かに還っていった。
縄文アバンギャルド
 棚畑遺跡と中ッ原遺跡を訪れた日はうち続く猛暑日のさなかであった。 頭上の陽光は容赦なく照り続け額からは止めどなく汗が流れ落ちた。 遺跡は訪れる人影もなく蝉の声だけが静寂の空間にこだましている。 畢竟如何。 そのとき縄文の時空はめくるめく甦るのだ。 人工物は視界から去り、やがて原始の森が姿を現す。 列島にあった 1万2000年 に渡る悠久な時間の歯車がおもむろに回り始め、もろびとが囲む広場の中央では魅惑の ビーナス と 女神 が妖しく踊り出す。 漆黒の闇の中でかがり火は燃えさかり、豊饒に捧げる 祭り はいつ果てることもなく続いていく ・・ アバンギャルド というのであれば縄文人ぐらい アバンギャルド な人々は他にそう多くはないであろう。 かくこのようにその自立した文化様式を変えることなく 1万2000年 に渡って守り続け得た 「強靱な人間力」 は奇蹟に値する。 それに引き換え、その後を引き継いだ管理社会が始まった弥生時代からいまだ 2200年 ほどしか経過していないのに様相は 「このありさま」 である。

2018.08.10


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