Linear ベストエッセイセレクション
現代情報社会の真相
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 宇宙を存在させているのは物質とそれにともなうエネルギであることは疑いのない事実である。 だが人間が所有する意識(精神)が宇宙の存在に不可欠であるかどうかは定かではない。 以下の 「4つの風景」 はその不確かな人間意識を土台にして構築されている現代情報社会の真相がいかなるものかを示す 「時空の断面図」 である。
大いなる欠落
 現代情報社会では自らを 知ってもらうこと にエネルギの大半を費やしている。 自らとは自己であり集団としての組織であり会社でもある。 費やすエネルギとは自己や自社のPRであり、広告であり、宣伝等々である。 かかる社会動向には肝心なことが忘れられている。 それは自己や自社を 「知ってもらう」 ことにのみに執心しているだけで、その主体である自己や自社を 「知る」 ことにはほとんど失念していることである。 他者に知ってもらおうというエネルギと同等のエネルギを自らを知ることにも費やさなければ事態は片手落ちであって物事は完結しない。 それは 「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」 という孫子の兵法からも明らかである。
 他者に語りかける熱心さで自らにも語りかけなければ事態の真実は見えてこない。 哲学と言えども他者を救うものであるとともに自らを救うものでなくては本当の哲学とはいえない。 自らの履歴(学歴等)が他者に誇るものだけであっては学業の意味はない。 自らを納得させ自らの誇りとなってはじめて学業は意味をもち成就するのである。 しかしながら現代社会の様相は他者に諂い装う者ばかりであって自らの空白を嘆く者は数少ない。 現代情報社会に潜在する 「大いなる欠落」 の真相である。
大いなる賭け
 現代物理学を牽引する量子論(量子力学)では突如として宇宙の存在に意識の存在が不可欠なものとして台頭してくる。 宇宙のあらゆる胎動を記述するシュレジンガーの 「波動方程式」 における波動関数を収縮させるものは 「意識的観測」 である。 ネズミに意識があるかどうかは分からないが、ネズミが観測したからとて波動関数の収縮は起きず、しかして宇宙は発生しない。 人間的な意識的観測のみが、波動関数の収縮を引き起こして 「新たな宇宙を発生させる」 のである。 狐につままれたような話であってにわかには信じがたいが、近代物理学の根底を構成する量子論物理学とはかくこのようなものである。
 現代情報社会は意識的な情報を土台として構成されている。 冒頭に掲げたように、人間が所有する意識が宇宙を存在させるに必要不可欠な存在かどうかは定かではない。 あるいはこの宇宙にとって人間は 「大いなる蛇足」 なのかもしれないし、人間が意識的に宇宙にあれこれ指図することは 「余計なお節介」 なのかもしれない。
 そもそもあなたが意識的であるかどうかを私はどうして知ることができるのか?
 これは 「他我問題」 と呼ばれる 「他人の心をいかにして我々は知りうるか」 という哲学における超難問である。 しかしてその帰結は 「他人の心を直接に知る方法はありえない なぜなら私は他者ではないからである」 となる。 つまり、他者の意識を知りうる方法が存在しないのである。 同じ課題を哲学者のトーマス・ナーゲルは1974年のエッセイ 「蝙蝠(コウモリ)であるとはどんな気持ちか」 の中で 「いかに詳しく蝙蝠の生理機能について学ぼうと我々は蝙蝠になると本当にどんな感じがするかを知ることはできない」 と述べている。
 互いの意識を知る方法とて存在しないような不確かな意識を土台にして構築されている現代情報社会は物質宇宙と同様に宇宙的存在として実存しているのであろうか? あるとすれば人類は 「真理の伝道者」 であるし、ないとすれば 「虚構の推進者」 である。 かかる解明を迂回させて現代情報社会はさらなる拡大路線を驀進中である。 成否は未来に託した 「大いなる賭け」 というわけである。 終局において 「あれはすべて 錯覚の産物 でした」 などとならないことを願うのみである。
大いなる矛盾
 前章では、意識を土台にして構築されている現代情報社会は物質を土台にして構築されている宇宙と同様な宇宙的存在として実存しているのかを思考した。 しかしてその成否は 「大いなる賭け」 であるとし、終局において 「あれはすべて錯覚の産物でした」 などとならないことを願うのみであると結んだ。
 しかし、確固たる宇宙存在であるとする物質宇宙にも不安がないわけではない。 それは 「物質宇宙に内在する宇宙の果てはどうなっているのか?」 という究極の謎が解明されていないことに帰因する。 物質世界を記述する物理学はその謎の解明を迂回して構築されている。 ビックバン宇宙論、インフレーション宇宙論、多世界宇宙解釈 ・・ 等々、さまざまな解決策が考案されてきたが、そのどれもが人間の意識から導かれた唯識論に逸している。 唯物論で構築された物質宇宙の謎を解明するのに唯識論を使うとあっては 「大いなる矛盾」 であろう。
 かかる経緯はベストエッセイセレクション 「唯識の消失点〜神の存在証明」、「時空の消失点〜時間も空間もない世界」 に詳しい。
 ここでこれまでの論考を単純な記述に還元すれば以下のように総括される。
 物質宇宙(唯物論)を追求すると意識宇宙(唯識論)に至り、意識宇宙(唯識論)を追求すると物質宇宙(唯物論)に至る。
 物質と意識は古来より 「一元論か二元論か」 で論争されてきた課題であるが、いまだ明確な回答は出されていない。 時空の消失点とはまた 「物質と意識の消失点」 でもある。 まさに宇宙は般若心経が教える 「色即是空 空即是色」 の世界のようである。 「あると思うとない ないと思うとある」 とは言い得て妙である。
大いなる危機
 人間の実存性においてその根幹を成す身体と精神の構成比率は物理的存在としての身体が50%、意識的存在である精神が50%が妥当なところであろう。 それは前述した2元論の根拠でもある。 またその構造は 「1枚の紙」 の構造と等価であって 「どちらが表で どちらが裏であるか」 を特定することはできない。
 常識人が依存する物質重視の思考法からすれば物質的な身体を表とし意識的な精神を裏とする考え方が多数派を占めてきたことは周知のごとくであろう。 だが情報社会が進展するにしたがって意識重視の思考法が勢いを増し精神が表で身体が裏といった逆転現象が台頭しつつある。 曰く。 物質的人間像から精神的人間像への転化である。
 宇宙のあらゆる現象を記述するシュレジンガーの波動方程式における波動関数を収縮させるものは 「意識的観測」 である。 その意識的観測を可能ならしめる唯一の存在が 「人間意識」 であることからすれば精神的人間像への転化は必然の成り行きであろう。 その意識的観測の結果として生まれてきた現代情報社会の実相からすればその流れを止めることは多大な抵抗が伴う難事であろう。 だがだからといって漫然と放置していては流れは激流へと変わり、やがては手がつけられない氾濫へと至ってしまう。
 昨今頻発する異常な社会現象の数々は膨張した人間意識による意識的観測の氾濫がもたらした波動関数の急激な収縮に帰因しているのかもしれない。 かくなる状況に目を背けてさらなる放置が進めば、ついには人間社会そのものが破綻してしまうのかもしれない。 それは現代情報社会に内在する 「大いなる危機」 の実相である。
 対応策としては、ベストエッセイセレクション 「即身への道〜想像と現実の融合」 の中に配した 「進化する頭脳の救済法」 や 「止観」 等々の項で論考している。 重複を避けてここではその記述を割愛するが各項を参照願えれば幸いである。

2019.06.02


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