Linear ベストエッセイセレクション
時は流れず
Turn

反骨の哲学者

今は亡き反骨の哲学者、大森荘蔵は最期に言った ・・ 「時は流れず」と。

大森荘蔵(1921〜1997年)
 岡山県生まれ。1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。1945年 海軍技術研究所三鷹実験所勤務。物理学を志すも科学における哲学的問題を問うため哲学に転向。1949年 東京大学文学部哲学科を卒業。現象学などを学ぶが満足せずアメリカに留学。ウィトゲンシュタインの哲学や分析哲学をはじめとする現代英米圏の哲学から大きな影響を受ける。帰国後、1953年 東京大学講師に就任。助教授を経て、1966年 東京大学教養学部教授(科学史・科学哲学科)。1976年 東京大学教養学部長就任。1977年 辞任。1982年 放送大学教授。1983年 放送大学副学長就任。1985年 辞任。
 これまでの日本の哲学研究が学説研究や哲学史研究などの文献学に偏りがちだったことに異を唱え「哲学とは額に汗して考え抜くこと」を本義として、多くの学生たちに影響を与えるとともに、数多くの哲学者を世に送り出した。
相対性理論が意味するもの
 以下の方程式は周知のアインシュタインが構築した物質がもつエネルギ式であり、別名「悪魔の方程式」と呼ばれる。それはこの数式が原子爆弾製造の基本原理となったがゆえであるが、平和利用を掲げてスタートした原子力発電が、3.11東北大震災に起因した福島原子力発電所の事故により未曾有の放射能汚染をもたらし、周辺住民に塗炭の苦しみを強いている日本の現状をみると、その悪名はさらに増したようにさえ思える。
                                   E:エネルギ
                   E=mc2              m:質量 (重さ)
                                     c:光速度 (30万km/s)
 この式の意味するところは宇宙に存在する物質は、その質量(重さ)に光速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。原子力ではこのエネルギのことを一般に「核エネルギ」と呼んでいる。
 以下の方程式はニュートンが構築した運動物体がもつエネルギ式で、一般に「運動方程式」と呼ばれる。
                                   E:エネルギ
                   E=1/2mv2           m:質量 (重さ)
                                     v:運動物体の速度
 この式の意味するところは宇宙で運動する物体(物質)は、その質量(重さ)に運動速度の 2乗を掛けたエネルギをもつとするものである。 (1/2は係数)
 2つの数式が意味するものとは何であろう・・?
 まず方程式が述べる論理を比較すると以下のようになる。
 アインシュタイン方程式での主題は「宇宙に存在する物質」であり、ニュートン方程式での主題は「宇宙で運動する物質」である。違いは「存在する」と「運動する」である。 アインシュタイン方程式でのエネルギ算出は「光速度の 2乗を掛ける」であり、ニュートン方程式でのエネルギ算出は「運動速度の 2乗を掛ける」である。
 次に、以上の論理に「等価原理を適用」するとアインシュタイン方程式は以下のように変換される。
「宇宙に存在する物質は光速度で運動しており、その運動エネルギは mc2 である」
 この変換結果が示すものは、この宇宙に存在する物質は「光速度で運動している」という驚くべき宇宙風景である。仮に宇宙を大きな「宇宙船」と考えれば、我々はその宇宙船に乗って、いずれの方向かは不明であるが「光速度で飛行している」のである。 さらに重大なことは、アインシュタインの相対性理論が正しければ、物体の速度が光速に近づくにつれて時間はゆっくり進み、光速に達すると「時間は停止」することになる。つまり、我々の乗った宇宙船は光速度で飛行しているわけであるから、「宇宙船内の時間は停止している」ことになる。
 以上の思考結果は哲学者、大森荘蔵の「時は流れず」を裏打ちするし、私が提示した、時間は人間の内なる意識世界には存在する(保証される)が、外なる宇宙自然界には存在しない(保証されない)こと、さらに時間の流れとは、人間の意識波の波動速度であって、それは光速度であるとした Pairpole 宇宙モデル の帰結に大きな力を与えてくれる。
 以下、蛇足ながら付け加えると、光速度飛行している宇宙船に乗っている我々にスピード感がないのは、宇宙船の移動が「等速度運動」のためである。ニュートンの運動方程式では、物体は外部から力を加えない限り、静止を続けるか、等速度運動を続けることを規定している。力を加えると物体に加速度が生じ、物体は加速するか、減速する。我々が感じるスピード感とはこの加速度であって、加速度がない「等速度運動」とは、本質的には「静止状態」と変わりがない。ただ異なるのは等速度運動を続ける物体(ここでは宇宙船)は運動エネルギをもっていることである。その運動エネルギは「慣性エネルギ」と呼ばれる。物質がもつエネルギ「E=mc2」はまたこの慣性エネルギでもある。その莫大な大きさを、我々は一般に物質がもつ「核エネルギ」として、原子爆弾の爆発力をもって実感しているが、物質がもつ「慣性エネルギ」として、例えば重さ 1kgの石を、光速度 30万km / s (1秒間で地球 7回半する速度)で壁に衝突させた破壊力をもって実感することができる。
 さらに我々の乗る宇宙船(宇宙)が等速度運動を続けることは宇宙船(宇宙)には外部から力が作用していないことを物語っている。同様に物理学で最も基本的な法則とされる「エネルギ保存則」が宇宙船(宇宙)の内部で成立することは宇宙船(宇宙)には外部からエネルギが作用していないことを物語っている。
 いうなれば我々が搭乗している宇宙船(宇宙)は孤立無援で飛行しているのである。
運動を時間で分解することはできない
 「時は流れず」とは世界が静止画のように静止しているということではなく、時間が過去・現在・未来というようには連続していないということである。
 時間は森羅万象の変化率であるということもできるし、空間のパラメータであるということもできる。その意味するところは、時間をもって森羅万象の変化を語ることができるということであり、時間をもって空間の動向を語ることができるということである。
 逆に森羅万象をもって時間の変化を語ることはできないし、空間をもって時間の動向を語ることはできない。 森羅万象や空間は見ることができても、時間を見ることができないのはそのためである。
 時間が流れているように感じるのは、時間というパラメータを使ってこの世の出来事の経過を支障なく説明できるからに他ならない。 それ以外に理由は見いだせない。
 運動とは森羅万象や空間の変化率を的確に表現した言葉であるが、運動を時間で分解することはできない。運動を撮影した映像はコマ送りすることができても、現実の運動をコマ送りすることはできない。 この意味では運動と映像は似て非なるものである。 投げあげたボールを空中で停止させることなどできないのである。 停止するのは運動が終了して速度が0になった状態でのことである。
 投げあげたボールの運動軌跡を時間をパラメータにして1枚の紙の上に描けるからといって、現実空間の上にその軌跡を描けるわけではない。
 過去・現在・未来とは時間をパラメータにして脳裏にある1枚の紙の上に描いた森羅万象の運動軌跡であって、現実空間の上に描いた軌跡ではない。
 現実空間にあるのは今の今という現在だけである。 現在とは速度をもった運動そのものであって、それを静止画に分解することなどもとより不可能なのである。 「時は流れず」とはそういうことである。
流れているものとは
 では時に代わって流れているものとは何か?
 今の今、眼の前に広がっている現象世界の特徴は「運動」である。 「ゆく川の流れは絶えずして」というときの流れ、即ち運動である。
 であれば、その運動の継続が「時の流れ」に代わる流れであろうか?
 それとも、その運動に伴う意識変化の継続が「時の流れ」に代わる流れであろうか?
 これらの流れを時の流れに置きかえれば、運動の停止とは即ち時の停止であり、意識の停止とは即ち時の停止ということになる。 「時よ止まれ」と叫んだときに想起される「運動を停止し意識を喪失した人間像」とは、はからずも、この状況を語っているのではあるまいか?
 だが我々はその状況でもまだ「時は流れている」と考えている。 しかしながら意識を喪失した人間に、いかにそのことが理解できるというのであろうか?
 かって中学生に向けた講演の中で ・・ 空間に、たった1個の物体しか存在しなかった場合、その物体の周りに空間が「ある」のか「ない」のかを、どのようにして証明できるのか? それは「ある」とも言えるし「ない」とも言える ・・ と語った。 (物質が空間と時間を発生させる 第18項 参照)
 同様に ・・ 空間に、運動がまったく存在しなかった場合、その空間に「時が流れている」のか「流れていない」のかを、どのようにして証明できるのか? それは「流れている」とも言えるし「流れていない」とも言える ・・ ということになる。
 この世は「時間」と「空間」で構成された時空間と呼ばれる宇宙であるとされている。 だがその実、その時間と空間を手にとらえようとすると、いつしか夢幻のごとくに消えてしまう。
 「色即是空 空即是色」(注1)とは般若心経の言であり、「世間虚仮 唯仏是真」(注2)とは聖徳太子の言であり、「浪速のことは 夢のまた夢」(注3)とは豊臣秀吉の言である。
(注1) 色即是空 空即是色
 「色」とは仏教用語で「形あるもの」を意味し、「空」とは仏教用語で「実体がないこと」を意味する。「色即是空 空即是色」とは「形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっている」という意。
(注2) 世間虚仮 唯仏是真
 この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実であるという意。聖徳太子の言葉と伝えられている。太子の死後、妃の橘大郎女が中心となり、太子追悼のために天寿国繍帳を織らせたが、この言葉はそのなかに記されている。
(注3) 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
 豊臣秀吉の辞世の句。「夢の中で夢を見ているかのような儚い生涯だった」という意。
過去と未来の発生現場
 「時は流れず」とは過去と現在と未来が時間で連続していないことである。過去と未来は意識世界の存在であって、運動をともなった実在(リアル)として存在する現在とは本質的に異なる。それは意識の根源である記憶が消失すれば過去も未来もたちどころに消失してしまうが、記憶が消失したとしても現在は実在として存在することを考えれば素直に了解されよう。 そのような異質な世界の間を貫いて同質的な時間が連続して流れているとは相当の妥当性をもって考えることができない。
 しかしながら、意識世界の存在であっても、過去と未来の発生現場は、今の今である実在としての現在であることには違いはない。
 昨年は過去、来年は未来、今の今である今年は現在である。 昨日は過去、明日は未来、今の今である今日は現在である。 さきほどは過去、のちほどは未来、今の今であるただいまは現在である。 これらの過去と未来の違いは発生の起点である今の今から意識がたどった記憶の鮮度にかかわっている。 さきほど、のちほど、で指定される過去と未来は、できたての過去と未来である。 昨日、明日、で指定される過去と未来は、幾分か鮮度が低下した過去と未来である。 昨年、来年、で指定される過去と未来ともなれば、賞味期限すれすれの過去と未来である。 また記憶の鮮度は人によって異なるため、すぐに鮮度が劣化してしまう記憶能力の人にとっては1日が、1月に、1年に値する。
 映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートは「昨日? そんな昔の事は忘れた 明日? そんな先の事は分らない」という名台詞をのこしている。 もっともこれは本当に忘れてしまったわけではなく、酒場の女に口説かれたボガートがさらりと粋にかわす場面で使われたものである。 だがもし本当に忘れてしまったとしたら、過去や未来はあっというまに遠ざかっていく。 俗に世で言う「時の流れ」とは、この記憶の鮮度に付随した流れである。 この流れが過去と現在と未来が連続するとする認識の根拠を生成しているのである。
 Pairpole 宇宙モデル では連続する過去と現在と未来で構成された宇宙を「連続宇宙」と呼び、今の今である断裂した現在で構成された宇宙を「刹那宇宙」と呼んで、2つに区分けしている。そこでの時間は、それぞれの宇宙を語るパラメータ(変数)の役割を成すとともに、実質的には光速度で移動する意識波としてとらえている。
夢幻のごとく
 過去は記憶であり、未来は想像である。
 時間は「過去から現在を経て未来に向かって流れている」という感覚が常識人の感覚である。 「過去→現在→未来」と並べられた「線形時間」の構造である。 だが、今の今、と呼ばれる現在は記憶でもなければ想像でもない、運動をともなった実体としての現実である。
線形時間の構造を素直に描写すれば以下のようになる。
時間は記憶の世界から現実の世界を経て想像の世界に向かって流れている
さらに詳しく描写すれば以下のようになる。
時間は記憶という無形の意識世界から現実という有形の物質世界を経て想像という無形の意識世界に向かって流れている
さらに描写の方法を単純化すれば以下のようになる。
時間は無形の世界から有形の世界を経て再び無形の世界に向かって流れている
さらに表現を現代風に変換すれば以下のようになる。
時間はバーチャルの世界からリアルの世界を経て再びバーチャルの世界に向かって流れている
 以上の描写から線形時間を総括すれば、時間は連続する均質な世界を流れているのではなく、不連続で異質な世界を貫いて流れていることになる。 放たれた矢が「意識世界から物質世界を通過して再び意識世界に向かって飛んでいく」などという構造の妥当性をいかに納得すればいいのだろう?
 だが誰もがかくなる線形時間の非整合性をそのままにして生活していても何ら問題は発生しない。 であれば線形時間は正しいのか? それとも大いなる錯覚に裏打ちされた間違いなのか?
 仮に線形時間が大いなる間違いであった場合、自然界の生物の中において、人間のみが、かなり奇妙で不可思議な世界に生きていることになる。 状況をいっきに還元して表現すれば「人間は夢幻のごとくの世界」に生きていることになる。
石の舟
 以下の記載は2017年6月13日付け、日本経済新聞の文化欄、屋外彫刻「記憶をつなぐ」からの抜粋である。
 宇部市、常盤湖の畔に設置されているこの作品は、彫刻家、井田勝巳の出世作。 「第16回現代日本彫刻展」で大賞を受賞した。 作家は当時、高校で美術を教えながら夜はアトリエで制作に向き合う生活を送っていた。 花崗岩の玉石の上に据えられる六方石の巨大な舟。 上部には廃墟の街が彫られ、両側には担ぎ棒のような四角い石柱が嵌められる。 あるいはこれは石の棺か。 「明日が不安に感じるとき、失ってしまったはずの記憶が、優しく僕を包んでくれる」。 作家のこのコメントが示唆するものは ・・ 。 諸行無常。 失われた過去、変容しつつある現在、到来する未来。 その連続性と同一性を保証するものは記憶だ。 「あの世」は失われた過去の棲家であると同時に我々の未来の棲家でもある。 月を「あの世」に見立てるならば、この作品を彼岸(過去・未来)と此岸(現在)を渡す舟(記憶)と見立てたくなる。 記憶のかたち。 石の舟は湖の畔で永遠の航海を続ける。
 失われた過去、変容しつつある現在、到来する未来。 その連続性と同一性を保証するものは記憶だとする記述は、まさに「夢幻のごとく」で論じた「線形時間」そのものであり、「此岸(現在)と彼岸(過去・未来)を行き来する永遠の石の舟の風景」に図らずも相似している。

2017.06.13


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