Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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映画「君の名は」に想う(3)〜無限変身
 映画「君の名は」に想う(1)〜(2)の稿はその映画を観る前に書かれたものである。先日ようようにして本編を観る機会に恵まれた。それを観ながらあることに思いが至った。それは盟友、関西学院大学社会学部教授、宮原浩二郎君が提示した「無限変身」との相似性についてである。以下の記載は2002年10月28日に知的冒険エッセイに掲載した「永遠回帰と無限変身」と題した論考である。
 永遠回帰は哲学者ニーチェが人生最後に行き着いた思想である。我々は同じ人生を何度も何度も繰り返す。二度と経験したくないつらいこともこの上なき至福の時も何度も戻って来る。時間は円環を成し未来に向かうと過去に至り過去に向かうと未来に至る。物事は永遠に回帰し、やがて再び戻って来る。
 ニーチェは「時よ止まれ この幸福よ 永遠なれ」と一度でも願ったことがあれば、その人は永遠回帰を認めたのだと言う。円環を成す時間構造はそう願った至福の地点に未来に向かっても過去に向かっても、ともに再び回帰して来るのである。
 このニーチェの永遠回帰の思想は人間の「時間の束縛」からの脱出であるとニーチェ哲学の探究者であり、また数少ない私の盟友でもある関西学院大学社会学部教授の宮原浩二郎君は言う。さらに彼は「空間の束縛」からの脱出としての「無限変身」という思想の可能性を提示して「永遠回帰」と「無限変身」の2つの思想によって人間が決定的に拘束され束縛されている「時間」と「空間」からの離脱が可能であることを説く。
 我々が「このようである」という存在性は突きつめると「空間の束縛」に至る。私が日本にいて私がこのような名前で私がこのように生きていることとは、つまりは空間の束縛のなせる業である。もし私が他の何者かに変身できるとする。例えば哲学者ニーチェに、あるいは詩人ハイネに、また犬や猫に、そしてスーパーマンに ・・ 無限に変身できるとするならば、もはや空間の束縛は存在しない。
 宮原君が「無限変身」の着想を得たきっかけは、街の通りを向こうからやって来た老婆が自分自身であることを刹那に直観したからだと述懐している。
 ニーチェはイタリア北部、ポー河の畔、古都トリノで精神崩壊に至る。宮原君はニーチェがこの精神崩壊に至る人生最後の過程で、彼自身の身をもって、この無限変身の状況に帰着していたのではないかと言う。 もしそれが事実であるならば、ニーチェは「永遠回帰の思想をもって時間を突破」し、「無限変身の思想(精神崩壊?)をもって空間を突破」したことになる。時間と空間の束縛から解放されることが人間にとって、究極の自由と自立であるならば、ニーチェの哲学はその究極に行き着いたことになる。

 ニーチェの身に起きた精神崩壊という現象は単なるニーチェ自身の遺伝子が背負った精神病理質に起因した現象であったのか ・・? それとも妥協を許さない厳しい彼の哲学が至らしめた時間と空間の超越現象であったのか ・・? 永遠の時空の彼方にニーチェが去ってしまった今となっては、これもまた「永遠の謎」である。

 映画「君の名は」で新海誠監督が語りたかったこととは宮原君が提示した無限変身の構造そのものではなかったか? 「見知らぬ者同士であった 田舎町で生活している少女と 東京に住む少年が ある日 夢の中で お互いの身体が入れ替わっていることに気付く 戸惑いながらもお互いの生活を体験するが ・・ 」という物語の構図は上記した無限変身をもって「時間と空間の束縛からの解放」を描いているように私には観えたのである。

2018.01.07


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