Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
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上原良司の風景〜もうひとつの「永遠の0」
 4月下旬、晴天に恵まれた日曜の昼下がり、私は眼下に安曇野を眺め正面に北アルプスの山並みを仰ぐ高台に位置する池田クラフトパークを訪れた。広く開放された斜面には穏やかな陽射しが降り注ぎ、山腹の木々の間にはようやく咲いた山桜の色彩が点在している。そこには期待を裏切らない「いつもの」春望があった。
 その斜面を登り詰めた芝生広場の片隅に、ふる里を眺めるかのように「上原良司の記念碑」がひっそりと立っている。記念碑には戦没学生の手記「きけわだつみのこえ(岩波文庫)」の巻頭に掲載されている「所感」と題された彼の遺書の抜粋が刻まれている。
所 感
自由の勝利は明白な事だと思ひます
明日は自由主義者が一人この世から去っていきます
唯願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を
国民の方々にお願ひするのみです
 上原良司は大日本帝国陸軍の大尉である。長野県北安曇郡七貴村(現池田町)出身、慶應義塾大学予科を経て、1942年慶應義塾大学経済学部入学、翌年歩兵第50連隊入隊、1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊、第56振武隊隊員として三式戦闘機「飛燕」に搭乗、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22であった。
 上原良司は300万部突破の大ベストセラー「永遠の0」の主人公、宮部久蔵のモデルであると言われている。映画「永遠の0」の山崎貴監督もまた長野県出身であり、襟をただして撮影に取り組んだという。ただ宮部久蔵は愛する人を地上において天国に飛び立っていったが、上原良司は結核で病死した愛する天国の恋人のもとに向かって飛び立っていったことが異なっている。
 以下は上原良司にまつわる事の経緯である。
 上原良司は大正11(1922)年9月27日、北安曇郡池田町に父寅太郎、母よ志江の3男として生まれた。祖父は教育者で俳人の良三郎(三川)、父寅太郎は医師だった。遠縁にあたる「有明医院」の後任として、寅太郎は現在の安曇野市穂高有明の耳塚に引っ越し医院を継いだ。良司3歳のときで、以来この地で育った。
 寅太郎は良司らに「うそを言うな。自分の思ったこと、言いたいことはどんなことでも、誰の前でも隠さずにいうこと」を厳しく教えたという。昭和4(1929)年、有明小学校に入学。近くの乳房川での遊び、裏庭でのテニス、離れの一室での幻灯大会、お化け大会など、上原家では、近所の子供も集まり、良司は兄2人、妹2人ともども楽しんでいた。「僕が先づ中学校へ来て驚いた事は、他の中学校にはないような、自治といふ精神や古い歴史がある」。松本城二の丸にあった松本中学校(現松本深志高校)に、昭和10年に入学したばかりの良司の作文である。その年7月21日から3日間、現在の校舎への引っ越しに追われた。新校舎での授業開始は9月2日からだった。「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった。天守閣よ聞け、我が新校舎にはかなわないだろう」と良司は作文に書いた。松本中学4年のときは友人と鉱物採集に熱中、5年のときは籠球(バスケットボール)部に所属した。学校でも目立った生徒でなく、無口で控えめ、黒いマントを着て黒い風呂敷包みを持ち、ちょっとすました姿であったという。
 昭和16年、慶応義塾大学予科に入学。大学生活の中で出会ったのが、イタリアの歴史哲学者ベネディット・クローチェだった。クローチェは第2次大戦時、反ファシズムの先頭に立ち、自由の尊さを訴えた人物である。入学した12月に太平洋戦争が始まり、大学生特権の兵役免除がなくなる18年の学徒出陣を迎える。18年10月21日、明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会に良司も参加した。その翌日に次兄龍男の戦死の知らせを受けた。
 12月1日、松本の歩兵第50連隊に入営し、初年兵としての生活が始まる。19年2月特別操縦見習士官となり、熊谷陸軍飛行学校に入学、神奈川県厚木の相模教育隊で飛行操縦訓練に励んだ。「長兄は陸軍、次兄は海軍」だから良司は航空を選んだという。3月24日に群馬館林教育隊へ移り、基礎操縦教育が始まった。館林教育隊は多くの教育隊のうち最も厳しいことで有名だった。面会も外出もなく、10日に一度の休務日も、午前中は体育、昼食から夕食までが唯一の休憩時間だった。家族の写真、お守り、千人針などすべて禁止、家族からの検閲済みの葉書3枚以下の所持だけが認められ、頻繁に検査があった。面会禁止の通知をしなかったため、父寅太郎が面会に来たことがあった。会えなかった良司は「手落で、貴重な時間を割いて来てくれた父上には気の毒であった」と日記に記した。
 7月に卒業し、引き続き鹿児島県知覧の第40教育飛行隊、11月に佐賀県目達原第11練成飛行隊に入隊した。
 19年6月、良司は恋い慕う石川nqの死を妹の清子から聞いた。nqは、18年に別な人と結婚していたが、結核に冒されていたのだった。「美しき君が逝きたる天国に 我れ天駈り行かまほしとぞ思う」と、良司はnqの死を悼む短歌を記した。
 昭和20年4月 陸軍特別攻撃隊第56振武隊員となった良司は、故郷の家族や友人のもとを訪れた。上原家で良司は「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは愛する人達のため。戦死しても天国にいくから靖国神社にはいないよ」と言って家族をはらはらさせた。軍隊へ帰るとき、家から少し離れた乳房橋のたもとから遠くに見送る家族に向かって「さようなら」と3度も言って別れを告げた。これまで聞いたことのない大きな声を聞いて、母親のよ志江は「良司は死ぬ気でいるんだな。最後の別れに来たんだ」と思ったという。
 良司が特攻隊員として出撃する前夜の5月10日、報道班員のひとりが鹿児島県知覧飛行場で、出撃する前の気持ちを書いてくれと良司に頼んだ。このときの文章が「きけわだつみのこえ」で広く知られる「所感」である。「一器械である吾人は何もいう権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」「愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です」「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」
 5月11日の朝、良司は母から貰ったタバコの1本を最後まで残しておいて吸った。そしてその空き箱の裏に歌を記した。「出撃の朝の楽しき一服はわがたらちねの賜いしものなり」。6時30分、第1攻撃隊を先頭に知覧飛行場を離陸。良司が、沖縄島西北方の海面にいる敵艦船に突入したのは午前9時であった。空き箱は死後母親のもとへ届けられた。
 22歳で逝った良司は、兄2人とともに和田の万年寺に眠る。
 以下は上原良司「所感」の全文である。
 栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
 権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
 真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
 愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
 こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
 明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
 言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で
 現代であればまだしも軍事体制下の当時、自由を標榜して逝った上原良司は希にみる青年であったといえる。自由は勝利し、権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であっても必ずや最後には敗れる事は明白だと断言、真理の普遍さは歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくであろうと予断、自己の信念の正しかった事は祖国にとって恐るべき事であるとまで日本の行く末を危惧する心配り、若干22歳であったことを考えれば現代との隔世の感にほとほと恐懼してしまう。末尾に配された「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます 彼の後姿は淋しいですが 心中満足で一杯です」に至ってはもはや論考する言葉さえ見いだすことができない。
 上原良司がたとえ「永遠の0」での宮部久蔵のモデルでなかったとしても、もうひとつの「永遠の0」を美事に体現していることに違いはない。同じ信州に生まれ育ったひとりとしてこのうえない誇りである。

2017.06.29


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