Linear 舟の民族、安曇族が辿った遙かなる安曇桃源郷への旅路

安曇古代史仮説/安曇野の点と線
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(五)出雲と安曇
 出雲と安曇の表象相似の直観はさまざまなことを語る。

 かって梅原猛氏の法隆寺論「隠された十字架」をさかのぼる30年程前に読んだ。梅原氏は法隆寺は聖徳太子の遺徳を讃え建立された寺などではなく、太子一族をおそった非業な運命(太子の皇子である山背大兄王とその一族の斑鳩宮での虐殺事件、下手人は蘇我入鹿であるが裏で策謀したのは大化改新で活躍した藤原鎌足とされる)に対する太子一族の恨みの怨霊を封じ込める寺であることを隠蔽された歴史から解明し従来の通説を覆した。

 梅原氏がそれを直観したのは法隆寺で行われる「聖霊会」の祭事であった。法隆寺内陣、講堂の前で催される聖霊会は装束をまとった太子の聖霊が長い白髪を振り乱し狂ったように舞う。これを見学した梅原氏はこれは「聖霊」などの姿ではなく恨みにもだえ狂う「怨霊」の姿であることを瞬間に理解したのである。

 その後、法隆寺をつぶさに調査した梅原氏はそれを裏付ける幾多の証拠を見出し、この直観の正当性を確信するに至る。
 一般に神社仏閣の門は奇数間で造られるが、なぜか法隆寺は偶数間で造られている。偶数間で門を造ると門の中央に柱がきてしまい入出を拒絶するような構造になってしまう。梅原氏は怨霊が外界に出ることを許さない意図がこの門の構造に顕現していると言う。またこの偶数間の社寺の例を他に捜すと島根出雲大社であると述べている。出雲大社とはまさに恨みをのんで出雲沖、隠岐島で最後をとげた南方系、舟の民族の族長「大国主尊」を祀った神社である。

 表向きは聖徳太子や大国主尊の遺徳を奉るように見せて裏ではその怨霊封じ込めを画策するなど誰によって為されたのか。

 それは彼らを滅ぼし大和朝廷を樹立した北方系、馬の民族の権力者以外にいない。太子一族虐殺の策謀者である藤原鎌足は姓は中臣、神事を司る官職から出発した人であり若い頃は中国の革命の書を読み耽っていたと言われている。性格その他からして祖先は馬の民族であったと考えられる。
 日本古代史を確定したとされる「古事記」、「日本書紀」は鎌足の子、その後の藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等の意向によって編纂されたものであるとされる。この時をもって、それまでの多くの古代史の真実は時空の闇に消え去ってしまった。ゆえに我々はその隠蔽された出雲神話や八面大王伝説の記述から真実を探し出さなくてはならなくなってしまったのである。

 倉田兼雄氏の「有明山史」によれば隠岐島で最期をとげた大国主尊の御子、建御名方命(知的冒険エッセイ / 奴奈川姫伝説 / 第937回 を参照)は反骨の士であり馬の民族に何としても屈服せず諏訪大社に流罪になったとしている。穂高神社はその御子の「見張り所」であり、穂高の「穂」は槍の穂先の意、「高」は高見するの意である。穂高とは槍を持ち見張るという意味になる。

 私にはこの反骨の御子と八面大王の顔がなぜか重なって見える。そして諏訪大社で催される死をも畏れぬ勇壮な御柱祭があたかも法隆寺で催される聖霊会での太子怨霊の恨みの舞のごとく、非業の最期を遂げた大国主尊一族の怨霊、荒ぶる魂の七年に一度の狂乱乱舞の様に見えてくる。

柳沢 健 2002.02.15

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