Linear 舟の民族、安曇族が辿った遙かなる安曇桃源郷への旅路

安曇古代史仮説/安曇野の点と線
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(中)飛鳥と信濃の点と線
 今、筆者にはふたつの印象的な場面が脳裏に映っている。

 ひとつは青雲の志を胸に郷関を後にし、大阪での勉学生活を始めた頃に訪れた奈良国立博物館での風景である。押しボタンによりパネル表示された寺院に創建年代順に赤い豆電球が点灯する装置があった。最初のボタンで日本列島にふたつの点灯が表示された。ひとつは摂津難波の四天王寺、他のひとつは我が信濃の善光寺である。善光寺が奈良に点在する幾多の古寺より古いとは想像だにしないことであり、驚きとともに、郷関を出た直後の思いと重なり、大いに誇りを感じた記憶がある。薄暗い館内で点灯していた、ふたつの赤い豆電球の場面は今も鮮やかに目に残っている。

 もうひとつの印象的場面は八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟を訪れた時に蘇った記憶であり、奈良飛鳥の地にある有名な「石舞台」と呼ばれる蘇我馬子の石室古墳の風景である。ともに横穴式石室、規模は石舞台の方が数倍大きいが、天井に大きな一枚岩を置いた構造は同じであり、筆者に奇妙な類似性感覚を与えた。

 蘇我馬子とは名前の通り、馬の民族であり、飛鳥古代王朝における蘇我氏の権力を確立した大王である。その馬子の子が蝦夷、蝦夷の子が大化改新で中大兄皇子(後の天智天皇)によって誅殺された蘇我入鹿である。馬子は天皇ではないにしろ、大王と呼ぶにふさわしい権力者であり、日本史における「蘇我物部の戦い」が彼の名を有名にしている。

 この戦いは大和の古豪族であり、自らも天神の子として神を擁護していた物部氏と渡来系の新興豪族であり、当時伝来した仏教を擁護する蘇我氏との勢力争いを背景とした「神仏宗教戦争」であった。

 筆者は法隆寺の近く、大和川が巻くように流れる王寺の高台に3年間ほど住んでいたが、蘇我馬子と物部守屋はこの付近の大和川を挟んで対峙した。その戦役では蘇我軍の中に若き日の厩戸皇子(後の聖徳太子)も従軍している。
 聖徳太子は蘇我系の皇子であり、その戦いの後、推古天皇の摂政として大臣馬子とともに仏教を基とした大和民族統治システムを創立することになる因縁がここから始まったと言ってもよい。その戦場からほど近い、斑鳩の地に斑鳩宮(後の法隆寺)を建立した遠因もここに感じる。

 そして、その戦いの戦局が不利になった時、「もしこの戦いに勝たせて頂いたなら、四天王を祀る寺塔を建てましょう」と誓願され、その後、戦局が有利に転じ勝利したことにより、前述の四天王寺が建立されたとされる。

 一方、破れた物部一族の弓削氏からは、後に弓削道鏡が輩出してくる。弓削道鏡とは、咲き匂う奈良の都と称された平城京隆盛を極めた頃、孝謙天皇に呪術でとり入り、自らが天皇になろうとした極悪人として歴史に刻まれた僧侶である。孝謙天皇とは東大寺大仏を建立した聖武天皇と光明皇后の娘として生まれた女帝である。呪術的加持祈祷は舟の民族特有のアミニズム的風習であり、物部氏が舟の民族の末裔であることを深く印象づける。

 仏教は馬の民族が、稲作は舟の民族が日本に伝えた最大の文化遺産であろう。

 極論すれば、このふたつの文化遺産からその後の日本人の生活文化や精神文化のほとんどすべてを読み解くことも可能であろう。
 また古代飛鳥王朝において、蘇我氏を馬の民族の代表とするならば、物部氏は逆に舟の民族の代表であり、飛鳥の地で行われた蘇我物部の戦いとは安曇の地で行われた戦いと同じ構図であったといえよう。

柳沢 健 2002.05.17

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